『三菱マテリアル中国人強制連行・強制労働 — 訴訟と和解、追悼の記録』(編:中国人強制連行・強制労働事件全国弁護団)
序文
はじめに
1941年(昭和16年)、太平洋戦争に突入した日本では、国内の労働力が著しく不足し、炭鉱・鉱山をはじめ戦時経済体制に深刻な影響をもたらした。
そこで、時の日本政府は、1942年(昭和17年)「華人労働者内地移入に関する件」と題する閣議決定によって、大量の中国人を労働力として日本国内に移入することを決定した。
この閣議決定に基づき、1943年(昭和18年) 4月から1945年(昭和20年)5月までの間に、合計3万8935人の中国人が日本国内に強制連行され、鉱山・土木建設・造船・港湾荷役等全国135事業所で過酷な労働を強いられた。
この中国人は、日本軍や傀儡軍によって捕らえられ、各地の収容所に監禁され、青島や塘沽などの港から貨物船に乗せられて、強制的に日本に連行された農民はじめ、多くは一般市民であった。
事業所では、過酷な労働、粗末な食事、不衛生な生活環境、現場監督による暴行などにより、大勢の人々が亡くなった。事実として、中国の港を出てから戦後中国帰国するまでに、連行された中国人の17.5%に当たる6830人が死亡している。
本書は、第1に、北海道・東京・福岡・宮崎の各地で結成された各「中国人強制連行・強制労働事件弁護団」によって三菱マテリアル(株)の各鉱山で強制労働を強いられた人々とその遺家族を原告とし、国と三菱マテリアル(株)を被告として、札幌・東京・福岡・宮崎の各地方裁判所に対し提訴した損害賠償請求事件の終了に至るまでの弁護団と支援による法廷内外の活動の記録である。
第2は、前記の訴訟終了後、三菱マテリアル(株)関係当事者間の訴訟外の和解による解決についての経過についてである。
2015年(平成27年) 3月、三菱マテリアル(株)は、本件の終局的解決を決断し、弁護団に対し、三菱マテリアル(株)が「基金」を拠出し、元労働者に対する謝罪を表し、その証として1人当たり10万人民元を謝罪の証として支払うこと、そのための基金を創設し、元労働者・遺家族の調査・適格性審査・決定する機関を設立すること、更には、各事業所(注:北海道・秋田県鹿角市・福岡・長崎・宮崎)に記念碑を建立し、5年間にわたり遺家族を招いての慰霊追悼事業の費用を負担すること等の全面解決提案を行った。
これを契機に、前記4事件弁護団を中心に、「長崎訴訟」の支援市民団体、中国の強制連行・強制労働被害者組織・中国の弁護士団等との協議が開始された。
三菱マテリアル(株)の提案をめぐって、関係弁護団・中国内の被害者団体等から様々な評価が出されたが、三菱マテリアル(株)の提示した「謝罪文」が真摯なものと被害者に受けとめられたこと、和解金が低いとの批判もあるが、訴訟終結後の和解であることや、「基金」を創設して訴訟原告らだけでなくすべての被害者を対象にしていること、5年間の慰霊追悼事業に必要な資金を提供すること等総合判断すれば、この「全面解決提案」を受け入れることが可能とする意見が大多数になり、金額が低いなどとする一部の被害者と中国弁護団を除き、圧倒的多数の被害者団体の賛同を得て、歴史的和解を実現した。
第3は、「歴史・人権・平和基金」の活動(2019年(令和1年)10月9日~2024年(令和6年)10月8 日迄)についてである。この歴史的和解事業の成否は、中国人権発展基金会の下に設置されたこの「基金」の管理委員会の活動にかかっていると言って過言でない。
本書は、5年間で14回開催された管理委員会活動について紹介するとともに、その下で実行されてきた全国の旧事業所跡敷地に設置された「中国人強制連行・強制労働犠牲者追悼の碑」前で毎年遺家族を招いて挙行されている慰霊追悼事業について紹介する。
【注:秋田県鹿角市の旧事業所で強制連行・強制労働を強いられた中国人犠牲者を原告とする裁判闘争は提起されていない。しかし、本件和解を受けて、東京弁護団と東京支援からの要請を受けとめて、鹿角市民と鹿角市が慰霊追悼事業を今なお継続している。】
中国人戦争被害者を原告とする裁判を日本の裁判所に提訴するに至る経緯
(1) 日本による中国侵略15年戦争
旧日本軍による中国侵略15年戦争は、中国全土で展開された「三光作戦」に象徴されるように、各地で膨大な数の中国国民の生命と健康を奪い、財産を奪い、その生活を破壊し尽くすという「戦争犯罪」を重ねた。
しかし、戦後日本では、「戦争責任は、サンフランシスコ講和条約ですべて解決済み」としてきた日本政府と、これを容認してきた国民の「戦争責任」に対する無自覚が在る。
一方、中国政府は、1972年(昭和47年) 9月29日に日本国政府との間で締結した「日中共同声明」で、日中国交回復するにあたり、「戦争賠償請求」を放棄した。
日本政府は、中国政府が戦勝国として有する「国としての戦争賠償請求権」を放棄したことによって、膨大な戦争賠償の負担から解放され、戦後の高度経済成長を可能とする政治的・経済的条件が整備された。“その恩に報いるため”、日本は、その後ODA の重点対象を中国に向け、長期にわたって中国の経済発展を支えた。このような認識は、当時から日本国民の多くが共有してきたところである。
(2) 日中戦争に関する歴史認識について
戦後の日本国内では、「南京事件」、「三光作戦」、「731事件」、「慰安婦事件」、「平頂山事件」、「強制連行・強制労働事件」「遺棄毒ガス弾事件」等々、主として日本の歴史研究者・ジャーナリストらの手によって明らかにされ、侵略戦争の加害と被害の事実についての認識が、1990年代までに国民の中に徐々にではあるが、共有されるに至った。この歴史認識の形成の上で、家永訴訟(1965年(昭和40年)~1997年(平成9 年))の法廷内外の活動が果たした役割は大きい。
一方で、中国においては、戦後から今日まで続く中国政府の歴史教育重視政策により、学校教育の中ではもちろん、「南京虐殺記念館」はじめ、各地に「戦争歴史記念館」が数多く建設され、いずれも歴史教育基地として日本軍国主義の戦争犯罪の加害の事実と、民衆の過酷な被害を展示・記述し、中国国民、とりわけ、青少年の歴史教育拠点としての役割を果たしている。
これに対し、戦後の日本の学校教育においては、中国侵略戦争に関する「加害と被害の実相」は一貫して軽視されてきた。
日本の歴史認識の到達点を示す1つとして、日本政府を代表して時の村山富市首相が国内外に発信した「戦後50年談話」(1995年(平成7年) 8月15日・注1)がある。この「談話」は、日本国の過去の侵略戦争に関する歴史認識に対する厳しい批判が、国の内外で高まりつつある状況を克服しようとして発せられたものである。
さらには、この「村山談話」に至る経過には、1994年(平成6年)から1995年(平成7年)にかけて日中間で取組まれてきた典型的戦争被害者を原告とし、日本の裁判所に対し国、強制連行・強制労働加害企業を被告とする損害賠償請求訴訟を提起しようとする日中両国民双方の動向が反映している。
(3) 中国の青年法学徒、童増
この、新たな状況が生まれる以前は、1972年(昭和47年)日中共同声明で中国が日本に対する戦争賠償請求放棄したことから、多くの中国人戦争被害者たちは、消えることのない旧日本軍の蛮行に対し、自らの要求を封じ込められたまま、長く時が過ぎた。しかし、責任を負おうとしない戦後日本国・日本政府に対し謝罪と賠償を求めたい、とする消しがたい要求は、中国民衆の中に深くマグマとして蓄積されてきた。
この地下のマグマに火をつけ、噴出させる契機となったのが、中国の1 人の青年法学徒、童増(1956年6月3日~2025年10月22日、北京大学法学修士)の学問的研究と発展である。童増は、戦後「ドイツ」が「過去の克服」として取り組んだ「戦争犯罪」を認め、国内外の戦争被害者に対する「謝罪」と「賠償問題」を行っていることについて注目した。そのうえで、ドイツの戦争の歴史と戦後補償政策について研究した。その最初の論文で、「中国政府が日中共同声明で放棄したのは国家の戦争賠償請求権であり、中国国民が蒙った戦争被害者が有する賠償請求権は、放棄されていない」と主張するに至った。
この内容は、学術書での発表であったが、その後瞬く間に一般誌でも大きく取り上げられ、中国メディアでも大きな反響を巻き起こした。
次いで1991年(平成3年)に入って童増による「一刻の猶予も許されない中国の対日損害賠償請求」に賛同し、その要求実現を求める中国国民の声が童増本人や報道側の予想をはるかに超えて噴出した。その象徴的出来事が、わずかの間に、全国各地の多様な戦争被害者たちから、自らの深刻な被害事実と、それに対する賠償請求を求める1万通を超える手紙が童増のもとに続々と寄せられる状況が生まれたことである。
また、この予想を超えた事態は、やがて毎年開かれる「全人代」(全国人民代表大会)にも波及していった。具体的には、代議員の中からも、童増のこの「提言」を受けとめ、政府として「日本国に対する民間賠償問題を取り上げるべき」とする提案が提出されるというこれまでにない状況が生まれた。
その成果の1つとされるのが、1992年(平成4年)3月23日「全人代」における銭其琛外相の次の発言である。
「この件は、侵略戦争で起きた問題であり、日本は、当然ながら妥当な処理をもって応えなければならない」。
この発言は、「中国政府としては、戦争被害者たちによる日本に対する民間賠償請求を阻止しないとの立場の表明である」と当時の日中関係者の間で受けとめられた。
この銭其琛外相発言によって、中国人戦争被害者による日本国の裁判所での中国人戦後補償賠償請求事件の訴訟提起の壁の1つである「中国政府が、中国人が日本の裁判の原告となって訪日し、法廷内外で勝利を目指して活動するのを抑止・抑圧するのではないか」との懸念が大きく崩れ、新たな状況が生まれた。
このような中国国内で起きた新たな状況をふまえ、童増は、寄せられた1万通を超える訴えの中から、戦争犯罪被害の典型となると目される事案を選定し、日本政府に損害賠償請求書を送付し続け、これを中国メディアに発表し、世論の喚起を図った。しかし、日本政府からの反応は皆無で日中世論の反応もなかった。
(4) 「南京事件否定発言」
中国国内において、前記のような大きな変化が生じている最中の1994年5月、当時の羽田内閣の永野茂門法務大臣による就任記者会見での「南京事件否定発言」が、日中関係を揺るがす重大事態を招いた。
今日振り返ってみると、この永野法相発言が、日中間の重要政治課題である歴史認識論争を激化させただけでなく、前記の中国国民のマグマに火をつけ、日中両国民合作による戦後補償裁判闘争を惹起する契機になったとも言える。
その最初の契機となったのは、当日、北京市でこの永野発言を受けとめた日本民主法律家協会が派遣した「中国司法制度調査団」が、この発言の翌日、私の手で永野法相罷免要求書を北京の日本大使館に提出したことである。さらに、これに同行していた北京駐在員K記者は、私に対する取材で、前記の中国国内の状況説明を詳しく説明したうえで、なぜ日本の民主的法律家は、この日中間の「戦争遺留問題」について真摯に対峙しないのかと詰問した。私は、「私は今、説明を受けた事態を全く知らなかったし、多くの弁護士を含め日本国民には知られていないと思う」と、率直に答えた。そのうえで、K記者の詰問に対し、「私だけではなく私の知る全国の人権派弁護士の多くが、戦争による人権侵害の当事者に会って、その訴えるところを聴取すれば、必ずその要求実現のために立ち上がると、確信をもって言える」と応じた。
私はいったん帰国して弁護士らと本件を相談したうえで、再度訪中することを約し、その際は童増と面談できるよう助力を求めた。
その後、私は同協会の事務局会議を経て、同年7月に再度訪中し、K記者の紹介で、童増に面談した。その話し合いの中で、私は「自分が、直接当事者に会い被害事実の確認とその要求を聴取しなければ、弁護士としての判断も方針も考えられない」ことを説明した。そのうえで、童増が把握している多様な戦争被害者の中で、日本の弁護士に対し、直接、自分の体験した事実と、日本に対して、どのような要求があるのかを話してくれる代表的な人に会えるよう、要請した。
翌8月、私は、北京市内のホテルの一室で同行してくれた渡邉彰悟弁護士と共に、童増が紹介した十数人の「戦争受難者」から長時間にわたって「加害」と「被害」の訴えを聴取した。これを受け、私たちは童増たちに、日本の民主的人権派の弁護士たちに聴取した事実と訴えを伝え、「中国人戦争被害者からの聴取による加害と被害の実態調査」を目的とする「日本法律家調査団」を設立したうえ、年内から来春にかけて数回訪中し、できるだけ多様な戦争被害者の聴取り調査を実施することを約した。そのうえで、童増ら中国の関係者に対し、そのために引き続き日本の弁護士たちに会い、聴取に応じてくれる多様な被害者を募るよう、要請した。
これを機に、日本民主法律家協会所属の弁護士らが全国の弁護士に呼びかけ、「中国人戦争被害法律家調査団」が結成され、1994年(平成6年)秋から1995年(平成7年)春にかけて5次にわたる訪中調査団活動が展開された。
その過程で、15年戦争の典型的な戦争被害の当事者から被害事実の聴取り調査を重ねた。その結果をふまえ、1995年(平成7年)7月までに、各戦争犯罪の典型被害者を原告とし、被告を国(「強制連行・強制労働事件」では、国と加害企業)とし、15年戦争で日本軍が犯した戦争犯罪の加害と、中国人被害者への真摯な謝罪と賠償の支払いを求める中国人戦争被害賠償請求訴訟の戦略方針を確立した。これを受けて、1995年(平成7年)8月に、その闘いを担当する「中国人戦争被害賠償請求事件弁護団」を、また、その闘いを支える市民組織「中国人戦争被害者の要求を支える会」を結成した。
(5) 弁護団が採用した訴訟戦略「政策形成訴訟」
訴訟戦略方針は、それまで我が国の人権裁判闘争で確立していた「政策形成訴訟戦略」に基づいて検討され、具体化された。
弁護団が採用した戦略方針「政策形成訴訟」は、我が国のイタイイタイ病・新潟水俣病・四日市公害・熊本水俣病のいわゆる四大公害訴訟や、全国各地の大気汚染公害裁判や、スモン病等の薬害訴訟で確立し、その後、石炭・トンネルじん肺や、泉南・建設アスベスト訴訟等の労災・職業病事件等で実践的に発展・確立した独自な訴訟戦略方針である。
第1は、各被害の典型代表者たちで「原告団」を結成するとともに、勝訴判決を獲得する訴訟戦略方針を検討し、勝利するために求められる法廷内外の諸活動を担う強力な「弁護団」を結成する。同時にこの闘いを支援する力を持つ市民による独自な運動組織を創設する。加えて、この「原告団」「弁護団」「支援組織」が一体となって「勝利判決」獲得を目指す法廷内外の諸活動を担い、勝利判決獲得を目指して闘う。
第2は、共通な人権侵害の加害者(国・加害企業等)を被告として裁判を提起し、加害と被害の事実を法廷内外の活動で徹底的に明らかにするとともに、歴史研究者、国際法・国内法の各法律学研究者等の支援を得て、当該法廷闘争における原告らが勝利判決を獲得するために求められる主張・立証活動に全力を尽くす。かくして、人権救済の司法判断(判決・和解案)を獲得することである。とりわけ、各事件の解決の司法判断において、加害と被害の事実を認定させ、その法的・社会的評価は、歴史研究と国民の歴史認識形成に大きく貢献することが可能である。
第3は、この勝訴判決(あるいは、勝利和解案)を梃子として、人権侵害の加害者の法的・政治的・社会的責任を問う日本と中国における世論を喚起し、単に訴訟当事者のみでなく、原告以外の同じすべての被害者の権利救済の実現と被害の根絶を目指し、日本における新たな戦争賠償政策の確立を目指し、実現するというものである。
第4は、この広範な国民の法廷内外の裁判闘争を通して、日本の侵略戦争についての歴史認識を深め、もって日中友好運動の促進に貢献することである。
(6) 弁護団が提訴した中国人戦争被害賠償請求訴訟
弁護団が提訴した戦後補償裁判闘争は、日本国と加害企業の戦争加害責任を追及するにふさわしい戦争被害者の中から、訴訟の原告として日本の裁判所で闘う決意をした当事者を選定原告とする訴訟である。
1995年(平成7年)以降、日本国を被告として「南京事件・731事件・空爆事件」「慰安婦事件」「劉連仁強制連行・強制労働事件」「平頂山事件」「遺棄毒ガス事件」「海南島(戦時性暴力)事件」が、「中国人戦争被害賠償請求弁護団」の下で結成された各個別事件弁護団によって東京地方裁判所に相次いで提訴された。
「強制連行・強制労働事件」については、原告当事者らにとって、加害企業が現存する場合、戦前の「加害と被害の地」である強制連行・強制労働現場の所在地を管轄する全国各地方裁判所へ提訴する方針を確立し、各地で担当する「弁護団」が結成された。
なお、その闘いを統一的に進めるため「中国人強制連行強制労働事件弁護団連絡会」が結成された。
こうして、日本の裁判史上、「花岡事件」(注:我々の弁護団とは別の弁護団が鹿島建設(株)を被告として提訴し、最終的に東京高等裁判所で勝利和解を実現している)に続く中国人戦争被害賠償請求事件の東京地裁への提訴、続いて強制連行事件の全国各地方裁判所への提訴という我が国司法の歴史に新たな日中合作による司法の正義を求める裁判闘争が展開されるに至った。
このような歴史の一翼を担ったのが、国と三菱マテリアル(株)を被告とする「強制連行・強制労働事件」(北海道・東京・福岡・宮崎の各地方裁判所への提訴)を担当した各地弁護団がある。なお、我々の弁護団とは別な弁護団による長崎地方裁判所へ提訴された訴訟である。
私たち弁護団が担った裁判闘争は、日本の侵略戦争が惹起した「加害と被害の事実」とその「権利侵害の法的評価」を下級審判決でいずれも認定させ、第1級の歴史資料を後世に遺すとともに我が国の歴史認識形成に大きく貢献した。
また、一部であるが、損害賠償認容を勝ち取った判決もある。さらには、国・三菱マテリアル(株)含む加害企業に対して和解勧告をした幾つもの地方裁判所、高等裁判所がある等、下級審での司法解決の可能性の機会が幾度も生まれた。この中で三菱マテリアル(株)は、国が和解のテーブルに就くことを条件としつつ、和解協議に応ずる姿勢を裁判官に示していたことが、当時、注目された。
しかし、「東京高裁の花岡事件」和解と、京都地裁の日本冶金株式会社を被告とする「大江山訴訟和解」成立を除き、国とその他企業の抵抗で、いずれもそのチャンスはつぶされた。
なお、これら司法解決を目指した法廷内外の「弁護団」と「支える会」の協働の活動は、2007年(平成19年)4 月27日の西松建設(株)最高裁判決で「民法724条後段の20年期間は、消滅時効ではなく、一定の時の経過によって法律関係を確立させるための請求権の存続期間を画一的に定めた除斥と解すべき」と判断したのを機に、その後、弁護団が担ったすべての事件で次々と最高裁で請求が排斥されるに至った。かくして、私たち各訴訟原告団・弁護団は、日本の裁判闘争を契機とした「司法解決」は断念を余儀なくされた。
これらの闘いの戦略的目標
これらの闘いの戦略的目標は、第1に、各事件の闘いで、日本国の加害と被害の事実を、多くの日中両国の研究者の歴史研究書などの客観証拠を法廷に提出するとともに、専門家証人尋問、そして何よりも被害当事者である中国人の本人尋問を行い、その証言・供述等によって、原告側の被害を主張・立証し、判決でこの加害と被害の事実を認定させることである。
第2に、認定された加害と被害の事実をふまえた歴史認識と法的評価を判決書に記載させることである。
第3に、これらをもって、新たな日中両国民における歴史認識の形成に貢献することである。
第4に、獲得した司法による各事件ごとの「加害と被害の事実」と「その歴史的・社会的・法的評価」を活かし、日中間で新たに国民的世論と戦争被害者の闘いへの支持を引き起こし、広めていくことである。
第5に、「南京事件・731事件・空爆事件」「慰安婦事件」「平頂山事件」「遺棄毒ガス事件」については、国に対し、「強制連行・強制労働事件」については国と加害企業に対し、訴訟外の政治的・社会的な「解決要求」を掲げ、これに対する日本と中国両国民の支持を拡大してその実現を目指す市民運動を全国的に展開することである。
裁判終了後の闘い
2007年(平成19年)4 月27日の「西松建設安野事件」の最高裁原告敗訴判決以降、すべての中国人戦争賠償請求事件は、最高裁での原告敗訴判決で終結を余儀なくされるに至った。
しかし、最高裁判決は、「原告らの請求権は残っているとし、関係者間での解決を求める」との極めて異例と言える付言を付けた。私は、この最高裁付言は、下級審である各事件で示された「司法判断」、とりわけ、加害と被害の事実認定と加害責任を鋭く問う司法判断の集積と、これを支持した国民世論の反映であると受けとめる。
裁判闘争終了後は、各弁護団と支援は、この最高裁付言を梃子として、支援の日中両国市民の力で国に対する政治的解決提言を行い、その実現を要求する活動が持続的に行われた。その中で、「強制連行・強制労働事件」については、本書で詳述されているように、「中国人強制連行・強制労働事件全国弁護団」が、国とすべての加害企業の拠出による基金を創設し、強制連行・強制労働被害者に対する謝罪と謝罪の証しとしての賠償の支払い、加えて、日中間で慰霊追悼記念事業を行うという全面解決構想(巻末資料)を提案し、その実現を目指して日中間で活動していることが注目される。
なお、本件「三菱マテリアル和解」に先立つ先例の1つとして、別弁護団と支援によって、2009年(平成21年)10月に実現した広島安野の被害者360名と西松建設株式会社(以下、西松建設と、表記)の和解があり、引き続き当弁護団と支援によって2010年(平成22年)4月、同じく西松建設新潟信濃川の被害者183名の和解成立がある。いずれも、会社が強制連行・強制労働の事実を認め、謝罪の意を表明し、和解金として1人当たり70万円弱を支払っている。なお、これらの和解成立後、各弁護団・支援の手によって、強制連行・強制労働の各被害地に慰霊追悼碑が建立され、毎年中国から労工遺家族の代表を招いての追悼事業が行われている。これらの西松建設事件の和解事業は、本件「三菱マテリアル和解」と和解事業の先例としての役割を果たしたものとして評価できる。とりわけ、西松建設信濃川事件和解によって設立された基金事業が、中国人権発展基金会によって担われ完了したことは、本件基金事業に先行する事業として歴史的意義が大きい。
おわりに
中国人強制連行・強制労働事件の各弁護団によって闘われた全国各地の裁判闘争の概要は、本書別途添付の資料一覧を参照されたい。
加えて、三菱マテリアル(株)を被告とする各地の裁判闘争、和解をめぐる闘いについては、本書で各地弁護団報告に詳述されている。
とりわけ、西松建設を被告とする「強制連行・強制労働事件」最高裁判決の付言を活かし、本件の全面解決を目指した闘いの経過と、その到達点として、三菱マテリアル(株)からの本件事件の全面解決提案、それを受けとめた弁護団・支援と中国人強制連行・強制労働被害者団体などの「統一和解」をめざす協働、その画期的成果を象徴するものとしての生存労工3人との和解成立と「歴史・人権・平和基金」成立とその活動についての歴史的な評価については、本書の執筆者の1人、関礼子氏(立教大学・環境社会学教授)による「和解への道筋」に簡潔で、わかりやすくまとめられている。
私は、あらためて永年におよぶ戦後補償裁判闘争の歴史を再確認しつつ、関氏のこの論考に接する時、2025年(令和7年)11月7日、国会における「高市早苗首相の台湾有事をめぐる発言」が、日中関係に重大な緊張を惹起させ、今日なお拡大し続けていることに深い憂慮を禁じ得ない。
この高市首相発言と、それをきっかけとする日中双方の対応と対立の激化は、一方で前記の「日中間重要四文書(注2)の遵守を相互に約束」のもとで今日まで日中両国政府間で多くの障害を克服しつつ築いてきた戦後の日中関係の安定を根底から揺るがし、大きな障害をもたらした。他方で今日まで、全国の各界各層の日本国民による日中友好の確立とその持続的発展を願って長期間活動してきた歴史をも汚し、将来に大きな憂慮をもたらした。
私たち弁護団は、本書に詳しく記しているところであるが、この31年余の活動を通して日中友好の確立と促進の基礎となる歴史認識の確立のため、多くの日中両国の歴史研究者との協働を追究してきた。その中で、中国の著名な歴史研究者から、中国では古来より現代まで伝承されているある格言があると私たちに紹介されたことがある。それは、「民が官を変える」という言葉である。この方は、「貴方たち日本人と私たち中国人が、共に闘って新たな日中関係の構築と発展を目指しましょう」と私たちに呼びかけた。
本件「三菱マテリアル和解」とその後今日も続く全国各地の「慰霊追悼事業」は、小さな一歩ではあるが、私は、「日中の国民の合作」による歴史的快挙と受け止めている。
それだけに、本書が、今後の日中関係の悪化に歯止めをかけ、歴史認識の深まりと、日中友好を促進するうえでささやかであれ貢献することを願ってやまない。
注1・1995年(平成7年)8月15日「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)「(抜粋)わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。(中略)疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からのおわびの気持ちを表明いたします」
注2・日中関係重要四文書 ①日中共同声明(1972)②日中平和友好条約(1978)③平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言(1998)④「戦略的互恵関係」の包括的推進に関する日中共同声明(2008)
[参考図書]
本文で触れた「中国人戦争被害賠償請求事件弁護団」と「中国人強制連行・強制労働事件全国弁護団」の創設から今日に至るまでの長年に亘る法廷内外の活動とその到達点については、下記の書籍に詳しく記述されているので、参照して頂ければ幸いです。
・「砂上の障壁 — 中国人戦後補償裁判10年の軌跡」— 中国人戦争被害賠償請求事件弁護団編 日本評論社2005.8.15刊
・「JUSTICE — 中国人戦後補償裁判の記録」— 中国人戦争被害賠償請求事件弁護団編著 高文研 2021.1.18刊
・「日本歴史和解への道」— 松岡 肇著 高文研 2014.12.19刊
弁護士
(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団団長)
目次
序文……小野寺利孝
第1部 三菱マテリアルと被害者の和解までの道のり
第1章 中国人強制連行・強制労働事件訴訟
第2章 三菱マテリアルに対する各地の訴訟
第3章 和解への道筋……関 礼子
第2部 和解調印、そして和解に基づく中国での活動
第1章 和解の調印と和解内容
第2章 「歴史・人権・平和基金」管理委員会の設置と5年間の活動についての基本計画 — その経緯と内容
第3章 中国における和解に基づく5年間の活動
第3部 日本におけるこれまで、そしてこれからの活動
第1章 [北海道]日中友好平和不戦の碑建立の取組み
第2章 [福岡]三菱飯塚炭鉱中国人強制連行強制労働の記念碑建立および慰霊祭の取組み
第3章 [福岡]旧三菱大谷炭坑の中国人強制連行・強制労働事件への取組み
第4章 [長崎]長崎における追悼碑建立および追悼交流事業
第5章 [宮崎]宮崎槇峰鉱山における慰霊追悼事業
第6章 [秋田]尾去沢地区における活動と今後の活動予定について
第4部 資料編
【資料1】年表
【資料2】華人労務者内地移入に関する件、閣議決定
【資料3】華人労務者内地移入の促進に関する件、次官会議
【資料4】中国人強制連行・強制労働事件の全国地図
【資料5】中国人強制連行・強制労働事件の全面的解決提言
【資料6】西松建設最高裁判決付言
【資料7】裁判所付言集
【資料8】5グループの要求書(中文、日文)
【資料9】被害者と三菱マテリアルの和解書(中文、日文)
【資料10】中国人元労働者との和解について、プレスリリース
【資料11】三菱マテリアルとの和解についての声明、労工3人(中文、日文)
【資料12】三菱マテリアルとの和解についての声明
(中国人強制連行・強制労働事件全国弁護団)
【資料13】三菱マテリアル和解 新聞報道
【資料14】三菱和解に対する康健弁護士らの意見書
【資料15】13人の生存労工の記録
おわりに……森田太三
書誌情報
- 『三菱マテリアル中国人強制連行・強制労働 訴訟と和解、追悼の記録』
- 編:中国人強制連行・強制労働事件全国弁護団
- 定価:税込 3,300円(本体価格 3,000円)
- 発刊年月:2026.08
- ISBN:978-4-535-52926-7
- 判型:A5判
- ページ数:352ページ
- 紙の書籍のご購入















