『黙秘権の機能的分析』(著:大角洋平)
序章
1 本書の目的
本書の目的は、学際的知見を用いて自己負罪拒否特権及び黙秘権の保障根拠を提示する点にある。近年、自己負罪拒否特権又は黙秘権の保障を徹底するために、取調べへの弁護人立会権が論じられている。他方、自己負罪拒否特権及び黙秘権の保障内容として不利益推認禁止が含まれるものと一般的には理解されてきたが、不利益推認を認める立法提案もなされている1)。弁護人立会権を認めれば助言を通じて黙秘は容易になる一方、不利益推認を認めれば黙秘はしにくくなる。自己負罪拒否特権又は黙秘権を基軸に置きつつも、異なる方向の制度設計が提示されているのが現状である。
こうした問題に対して、例えば、不利益推認を認めることが供述の「強要」に該当するかという規範的分析を行うのが一般的だろう。しかし、規範的分析に先立ち、まずは黙秘が供述意思決定やその帰結にどのような影響を及ぼすかの事実解明的分析を行う必要がある。すなわち、不利益推認が認められると人々の供述意思決定がどのようなものへと変わり、いかなる帰結が生じるのかを検証する必要がある。たとえ供述採取の必要性が高くとも、供述意思決定を歪ませて質の低い供述しか獲得できないことが予想されるのであれば、供述採取制度としては問題があるからである。
本書に通底する発想は、関係する諸利益を特定した上で、人々の意思決定、とくに供述意思決定を分析しなければ、自己負罪拒否特権及び黙秘権の保障根拠を考察するのは困難であるというものである。その理由の一つとして、供述という証拠は、証拠収集過程において被疑者・被告人の認知機能を介在させて新たに生成されるという性質を有している点が挙げられる。被疑者・被告人の意思決定に応じて供述は千変万化する。捜査官・裁判官は、その性質を踏まえながら、被疑者・被告人の供述に関わる意思決定を行う。環境、心理状態、利害得失、働きかけによって被疑者・被告人の意思決定は変容し、供述内容も変わる。したがって、供述採取に向けた処分の規律を考えるにあたっては、供述意思決定の考慮を要する分、利益衡量によってその在り方が決まる物的証拠収集活動の規律とは異なる発想が必要となるのである。
もっとも、自己負罪拒否特権及び黙秘権も何らかの利益の衡量結果として採用された権利のはずであるから、利益衡量とは無縁のものではない。しかし、これまでの保障根拠論は、「個人の尊厳」や「自己決定」といった利益衡量に馴染まない抽象的な概念に支えられている。そのためか、どのような事項が自己負罪拒否特権又は黙秘権の問題として議論すべきなのかが分かりにくくなっている。その典型例が、ポリグラフ検査や復号強制の問題だと思われる。規制の在り方を考えるためにも、自己負罪拒否特権及び黙秘権の保障根拠は、利益衡量に馴染むような諸利益に分解して検討しなければならない。
そこで本書では、意思決定分析を得意とする心理学・言語学・経済学の知見を用いて、権利保障を施すか否かで人々の供述意思決定がどのように変わるのかを予測し、その予測される帰結の評価をもって権利保障の望ましさを論じるという分析手法を採用する。その帰結は、ⅰ)無辜の処罰、ⅱ)真犯人の不処罰、ⅲ)プライバシーの利益、ⅳ)捜査資源・裁判資源を合わせた刑事司法資源といった、刑事司法制度を設計するにあたり考慮されてきた諸利益に焦点を当てて評価を行う。
もっとも、供述意思決定分析とコストベネフィット分析に基づいて保障根拠を論じた場合、自己負罪拒否特権を憲法上の権利として格上げすべき理由が見えにくくなる。そこで、本書では、アメリカにおける自己負罪拒否特権と不利益推認に関する歴史的展開から得られる示唆をもとに、自己負罪拒否特権を憲法上の権利として位置づけるべき理由も明らかにする。なお、研究方法の限界から、被疑者・被告人以外の者に対する自己負罪拒否特権の保障根拠については検討から外している。これらを論ずるために、本書は次のように議論を進める。
2 本書の概略
第1章では、憲法第38条第1項、刑事訴訟法第198条第2項、同法第311条第1項の保障内容論及び保障根拠論に関する議論の歴史的展開を通じて、議論の到達点と問題点を明らかにし、分析の視座を設定する。そこでは、(不利益な)供述をするか否かの被疑者・被告人の自己決定の実現に自己負罪拒否特権又は黙秘権の保障の狙いがあったと整理する。しかしそうした見解には、いくつかの課題があることも指摘する。まず、(不利益な)供述をするか否かの自己決定の実現を確立すべき理由が明らかではないことが挙げられる。また、自己決定といえど、捜索・押収を拒否する自己決定は保障されず、本人の自己決定が反映されているはずの被疑者・被告人が所有する私的文書の捜索・押収も許容されている。自己決定という観点からはこれらも保護の対象になりうるが、保障範囲を「供述」に限定する理由が明らかではない。保障根拠論及び保障範囲論に関して課題が残っているといえる。
そこで課題を解決するための基礎的作業として、第2章では、アメリカにおける自己負罪拒否特権の保障範囲を巡る議論を参照し、検討の土台を構築する。日本では、供述するかしないかの自己決定の尊重が求められてきたのに対して、捜索・押収を拒否するという自己決定は尊重されず、自己決定が反映されている被疑者・被告人の私的文書の押収も許容されている。まずは、そのような切り分けがいかなる観点から行われるのか、保障範囲の画定基準を明らかにすることが必要となる。この解明に向けた基礎的作業としてアメリカ法を参照する。アメリカでは、合衆国憲法修正第5条によって自己に不利益な証人になることを強要されないとする自己負罪拒否特権が保障され、州憲法においても同様の保障が定められている。この「証人」という文言を巡って州・連邦最高裁において議論が交わされてきた。そこでは「証人」という概念を広げて、保障範囲を証言に限定しない立場もあれば、限定する立場も存在し、保障範囲を巡り長年にわたって争われてきた。議論の蓄積が豊富にあり参照価値が高い。この章では、州・連邦最高裁判例の法廷意見・反対意見を整理したところ大別して3つの画定基準があることを示すが、そのうち、「証拠収集過程において被疑者・被告人の認知機能を介在して新たに生成される証拠であるか否か」という保障範囲の画定基準を取り上げる。もっとも、判例及び学説検討からは、なぜ証拠収集過程において認知機能が介在したか否かという点に着目すべきなのかは明らかにならなかったため、次章以降にて、この画定基準を土台に、証拠収集過程と認知機能に着目しながら分析を進める。
第3章では、証拠収集過程、認知機能と自己負罪拒否特権及び黙秘権がいかなる関係を有しているのかを、被疑者・被告人、捜査機関・裁判所の言葉の使い方やコミュニケーションの有り様から説明を試みていく。こうした作業を通じて、個人の権利として自己負罪拒否特権及び黙秘権が保障されるべき理由を提示する。具体的にはⅰ)証拠収集過程である取調べや被告人質問にはどのように認知機能が介在しているのかを確認する。ⅱ)そのうえで、取調べ・被告人質問はどのような性質を有しているのかを、法言語学の概念及び認知心理学のメンタルワークロード(または認知的負荷)概念を用いて明らかにする。質疑応答とは何をトピックとする会話形式なのか。それは、いかなる制約のもとで行われるのか。質疑応答の際に用いられる言葉はいかなるものか。これらを明らかにすることで、取調べや被告人質問の性質を明らかにし、個人の権利として自己負罪拒否特権及び黙秘権を保障すべき理由を提示する。
第4章では、自己負罪拒否特権及び黙秘権には公共の利益を増進させる性質を有していることを指摘する。自己負罪拒否特権は公共の利益に資する性質を有するものと指摘したWilliam J. Stuntzの研究を参照する。また、ゲーム理論分析をもとに自己負罪拒否特権の保障根拠を提示したDaniel J. SeidmannとAlex Steinの研究を紹介する。これら研究を整理し、無辜の供述と真犯人の供述との玉石混淆状態の発生防止に自己負罪拒否特権及び黙秘権の保障根拠を見いだす。
第5章では、憲法上の権利として自己負罪拒否特権を位置づけるべき理由を検討する。本書は自己負罪拒否特権の保障根拠を、供述意思決定分析を踏まえたコストベネフィット計算結果に見いだす。その結果、個人の尊厳に保障根拠を見いだす立場とは異なり、自己負罪拒否特権を憲法上の権利として保障すべき理由が見えにくくなった。そこで、憲法上の権利として保障すべき理由を、アメリカにおける不利益推認を巡る歴史的展開から示唆を得ようとする。アメリカ法の歴史からは、真犯人だから黙秘するという素朴な経験則と刑事司法運営の効率化という要請によって、自己負罪拒否特権は容易に掘り崩されてしまうことが明らかとなる。そして不利益供述をするかしないかの自己決定を保障する自己負罪拒否特権の機能は、実際に刑事訴追を受けた者には理解しやすく、そうでない者には分かりにくい。社会的厚生を改善する権利であるものの、分かりにくい権利としての性格を有する。このような傷つきやすく、分かりにくい権利という自己負罪拒否特権の性格に、憲法上の権利として格上げすべき理由を見いだす。
終章では、これまでの議論を総括し、黙秘権の保障根拠論を提示する。
以上が本書の概要となる。
目次
序章
1 本書の目的
2 本書の概略
第1章 到達点の確認と視座の設定
Ⅰ はじめに
Ⅱ 第一期(1949年~1965年)—告知規定廃止論、不利益推認許容論、取調べ技術の向上
Ⅲ 第二期(1965年~1980年)—捜査構造論・憲法学のコミット
Ⅳ 第三期(1980年~1995年頃)—プライバシーと自己決定
Ⅴ 自己負罪拒否特権及び黙秘権を巡る議論の現在地と課題
第2章 保障範囲の画定基準を巡る議論—証拠収集過程と認知機能
Ⅰ はじめに
Ⅱ 自己負罪拒否特権に関する州・連邦最高裁判例の展開
Ⅲ 画定基準とその背後にあるもの—理論整理
Ⅳ 画定基準を巡る議論と日本法への示唆
第3章 熟慮に基づく自己決定と個人の権利としての自己負罪拒否特権及び黙秘権—認知機能と証拠収集過程に着目して
Ⅰ はじめに
Ⅱ 認知機能・メンタルワークロード・質疑応答
Ⅲ 供述採取過程としての質疑応答の性質
Ⅳ 黙秘権への拡充と認知的負荷
Ⅴ タスク処理を複雑にする諸要因と弁護人立会権への拡充
Ⅵ 小括
第4章 公共の利益に資する自己負罪拒否特権及び黙秘権
Ⅰ はじめに
Ⅱ 真犯人による虚偽供述の防止
Ⅲ 日本法への応用可能性
Ⅳ 自己負罪拒否特権の保障根拠
Ⅴ 黙秘権の保障根拠
Ⅵ 小括
第5章 憲法上の権利としての自己負罪拒否特権—不利益推認禁止を巡るアメリカ法の歴史
Ⅰ はじめに
Ⅱ 被告人証人適格法の制定—(1860年~1899年)
Ⅲ Twining-Adamson 判決下の動向—(1900年~1919年)
Ⅳ Twining-Adamson 判決下の動向—(1920年~1939年)
Ⅴ Twining-Adamson 判決下の動向—(1940年~1959年)
Ⅵ Malloy-Griffin 判決—(1964年~1965年)
Ⅶ 司法政策局(Office of Legal Policy)による立法提案(1989)
Ⅷ 傷つきやすく分かりにくい権利としての自己負罪拒否特権
終章 自己負罪拒否特権及び黙秘権の保障根拠
Ⅰ メンタルワークロード(認知的負荷)と保障根拠論
Ⅱ 玉石混淆問題と保障根拠論
Ⅲ 黙秘権の保障根拠
Ⅳ 憲法上の権利としての自己負罪拒否特権
Ⅴ 自己負罪拒否特権の保障範囲と供述採取制度の設計思想
あとがき
書誌情報
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- 『黙秘権の機能的分析』
- 著:大角洋平
- 定価:税込 6,050円(本体価格 5,500円)
- 発刊年月:2025.03
- ISBN:978-4-535-52832-1
- 判型:A5判
- ページ数:272ページ
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脚注
1. | ↑ | 法制審議会・新時代の刑事司法制度特別部会「時代に即した新たな刑事司法制度の基本構想」35-36頁(2013年1月)。 |