(第6回)よき法律家は悪しき隣人

悪しき隣人―ようこそ法格言の世界へ(柴田光蔵)| 2019.02.15
「よき法律家は悪しき隣人」。この言葉が何を意味しているのか、知っていますか?
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年5月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典 法学入門への一つの試み』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています。

(不定期更新)

古代ローマでは「よき法律家はよき隣人」(ただし、弁護人は法律家の部類にはいれてもらえなかった)であったから、日本の未来にも希望は持てると思っているが、それには法曹(法律家)のありかたについて抜本的な改革や方向転換が前提となるので、やはり道は遠い。当分のあいだ「悪しき隣人」たちによって法の世界は運営されていくのだろうか?

他方で、「隣人」というのを「日ごろつきあう人」ではなく、「社会人一般」におきかえるとどうなるか? 明治以来の日本人の一般的な観念では、別に「よき法律家」ではなくても、法律家というものは「よき社会人」とうけとられていた。これはわれわれ法律家の誇りとすべき点である。相当な規模で行なわれたアンケート調査では、弁護士、裁判官、検察官の三者について、「かなり頭がよく、鋭く、信頼でき、清潔であり、正義の味方なのだ」という国民の評判が数字で現われている。しかし、この10年の間、そういった司法への信頼を裏切る行為が続出した。ロッキード疑獄がらみのニセ電話事件および宮本身分帳事件で大いに話題となった鬼頭判事補、自身の担当する窃盗事件の女性被告とねんごろになった脱線安川簡裁判事、ワイロと見られてもしかたのない物品をうけとった谷合判事補、創価学会の元顧問弁護士でありながら、学会に対して恐喝を行なったとして起訴されている(判決はまだであるので、これは「事実」かどうかわからないが)山崎弁護士、独身と偽って結婚相談所を舞台としてご活躍の検察官、よからぬ所業に走る法律家の卵の司法修習生、万引の疑いで補導された判事、などなど、よろしくない法律家たちが続々マスコミをにぎわしたことはまだ記憶に新しいことであろう。これらは人数が多くてやや苦しいが、同業者の1人としては、いずれも例外的な現象と思いたいものである。

最後に、どうして法律家は世間から隣人としては冷たい眼で見られるのかを分析してみたい。他人の子供を善意であずかり目を放したスキに水死させてしまった人が訴えられた、いわゆる隣人訴訟のたとえようもない悲劇的結果が示すように、普通の人々がときに法を用いて社会的な営みを行なう際には、彼らは、通常人としても、十分に世間の反法律家的空気を心得えておく必要があろう。法律を学ぶ諸君ならなおさらのことである。筆者の2回の外国経験だけからでは、欧米の法律家像と日本のそれとにどういう違いがあるのか今のところよくわからないが、どうやら日本古来の独得の事情もこれに作用しているようにみうけられる。法律家という人種は、とかくリクツっぽくて頭が固く、杓子定規に物事を考えすぎ、意外にも感情的で、高慢で、先入観にとらわれやすく、冷たく、人情というものを解さず、常識というものを見下し、視野の狭いつきあいにくい方々だというのが世間のもっぱらの評判なのではないだろうか。法律家の側にも謙虚な反省が必要なことは言うまでもないが、どうやら、この悪評は、古今東西を問わず、われわれの天職の宿命みたいなところがあり、未来社会では別論として、われわれの立場を世間様に完全にご理解ねがうことは不可能かもしれない。そもそも、理想的な社会では法律などのような面倒なものは必要がなく、道徳とか慣行とか信義とか公共心とか社会性で足りるわけだから、法律はしょせん社会的な必要悪なのであるとの考えも十分成り立つ。日本の世間は、いざというときには法の助けをかりるくせに、何事も起こらない平和なとき、あるいはさざ波程度のモメ事のあいだには、法律はもちろんのこと、法律家も避けようとする。日本はそれでかなりうまくいっているほうだから、むしろすばらしい国と言うべきか。日本の法律家が容易なことで隣人「市民権」を与えられないのは、日本固有のものの考え方が思ったよりタフであるせいとも思われ、法のいわゆる「近代化」が一定のレベルまでくるとくいとめられてしまっているのも納得できる。

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