(第21回)河合十太郎の歩み—京都帝大の数学科の成立まで(二)

数学の泉(高瀬正仁)| 2020.06.03
数学に泉あり。数学は大小無数の流れで構成されていて、今も絶え間なく流れ続けている雄大な学問ですが、どの流れにも源泉があり、しかもその源泉を作った特定の人物が存在します。共感と共鳴。数学の泉の創造者たちの心情と心を通わせることこそが、数学を理解するという不思議な体験の本質です。そこで数々の泉を歴訪して創造の現場に立ち会って、創造者の苦心を回想し、共感し、共鳴する糸口を目の当たりにすることをめざしたいと思います。

(毎月上旬更新予定)

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河合家の人びと

河合十太郎の父の十郎同一には十郎義一という兄がいました.早くから江戸に出て,俳諧や書や画に打ち込んでいたという人で,晩年には俳諧で有名になり,「友知」という俳号を名乗って明治政府の要人に俳諧や書や画を教えていたということです.河合家の父祖の地は現在の地名表記では富山県南砺なんと市福光町和泉地区で,ここに河合家の跡地があり,十郎義一の句碑が建てられています.「南砺市郷土Wiki」に「河合友知句碑」という頁があり,写真が掲示され,文政 12 年に生れ,大正 10 年に 88 歳で亡くなったと記されていますが,西暦でいうと文政 12 年は 1829 年,大正 10 年は 1921 年ですから 92 歳ほどになりそうです.

秋立也身には覚らぬ草の風 友知翁

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