ワクチン接種の義務化についての覚書き――功利主義、人間の尊厳、自由(仮屋広郷)

2025.07.03

今回の新型コロナウイルスによるパンデミックをきっかけに、日本でもワクチン接種の義務化の議論が本格化し、中央政府レベルで義務化の議論の端緒となる可能性があるといわれている1)。そのような中、「新型コロナワクチンに関するこれまでの議論を見れば、〈有効性〉や〈安全性〉の議論も非常に偏った形でしか行われておらず、〈倫理性〉の論点はほぼ完全に欠落しています」2)という指摘が見られる。この指摘は、「命というものをどのように考えるか」――「ワクチンで誰も死んではいけないのか」それとも「死んでも仕方ないのか」――という倫理の問題、これこそが議論すべき究極のポイントであるという問題意識に立つものである3)

この視座から、予防接種の歴史を振り返ってみることにしよう。予防接種というのは、一度感染してしまえば、その病への耐性を得ることを利用した伝染病への対処法である。その歴史は古く、中国・トルコでは、11世紀から種痘――天然痘に対する予防接種で、当初行われたのは、人間に感染した天然痘のうち、症状が軽いものを保存しておき、それを体内に注入して意図的に感染させる方法である人痘種痘術――が行われてきた。それが16世紀にイギリスに伝わり、上流階級に浸透していったが、ほかのヨーロッパ諸国では、種痘を行うイギリス人を、気違い――天然痘にかからないようにするために子供を天然痘にしてしまうから――で、思いきったことをする――かかるとは決まっていない病気を予防する目的で、かかるのが確実な恐ろしい病気をすすんで子供に移しているから――連中だと評していたようである4)

18世紀半ば、フランスでも種痘は導入されるようになったが、1764年、パリ大学医学部は、種痘は不完全な技術であるから現時点では禁止すべきであるとの意見書を出した。そこにおいて、医師たちは、問うている。不幸にも子供を亡くしてしまった母親は医師に何と言うだろうかと。そして、こう答えている。私は神様の手から命を授かった。あなた方は、それを私から取り上げてしまった。何の権利があって、私の幼い命を取り上げるのか。あなた方に神様の命令である秩序に介入することが許されているのか。きっと、このようにいうだろうと5)
その後、1768年には、パリ大学医学部において種痘賛成派が多数となり、フランス国内で種痘が許可されることとなるのであるが、この時期に、二人の数学者が議論を交わしている。ダニエル・ベルヌーイとジャン・ル・ロン・ダランベールである。ベルヌーイは、種痘を擁護した。死亡者が出る問題はあるが、仮に子供のうちに種痘を強制すれば、そこで犠牲者を出したとしても、生き残った者たちは、二度と天然痘にかからない身体を持った大人へと成長するから、国家という観点から見れば、種痘から得られる利益――国家の利益は、人口の増減から数学的に算出される――の方が大きい、というのが理由である。このベルヌーイの解釈はあまりにも一面的で、個人という視点が抜け落ちているとして批判したのが、ダランベールである。ダランベールはいう。母親たちは、ベルヌーイがいうような「種痘による死亡リスク(現在に差し迫ったリスク)」と「天然痘による死亡リスク(将来いつ起こるか分からないリスク)」を比較するようなことはしない、と。母親たちは、種痘を、ひと月のうちに命を失う可能性として、すぐ目の前にある災禍として見なすだろうし、天然痘を遠い不確かな危険として見るだろうから、子供の一生涯の中に天然痘の危険を割り振ることはできないだろうが、これが人間の心理なのであり、それを非合理だということなどできない、というのがダランベールの立場である。ダランベールは、こうした人間の性質を踏まえると、個人の選択と国家の政策の間には大きな隔たりが生まれる(国家の利益と個人の利益が対立する)が、この場合、個人が害を被る可能性がある選択を国家が強制することはできない、と主張したわけである6)

ヨーロッパにおける議論と同様の議論が、日本においても見られる。18世紀末に自身で改良した人痘種痘術を行った緒方春朔は、天然痘の流行により亡くなった場合、人はそれを「天命」と見なすが、種痘を受けて亡くなった場合、人は種痘が、春秋に富む健やかな者を殺めたと、その人為を責めると述べている。先述の1764年のパリ大学医学部の意見書を彷彿とさせるが、種痘術を施す当時の種師たちは、常に自らが繰り出す業が「天命」に介入してしまいかねないという緊張感を携えていたのである7)

「1789年にエドワード・ジェンナーが発明した牛痘接種は、日本においては19世紀中頃に急速な普及をみた」8)とされるが、人痘種痘術と同様に、牛痘種痘術推進派と反対派のせめぎ合いがあった9)。100人中、大多数が天然痘という疫病をやり過ごせることをよろこんだ推進派に対して、真っ向から反対したのが、「池田瑞仙」の名を世襲する池田家(幕府管轄の江戸の医学館痘科教授)である。「池田家は、〈倫理性〉の面からも、一貫して種痘術に反対した。人である医師が、はたしてどこまで天のさだめた寿命に関与・介入しうるかという、医師のあいだで18世紀半ばよりつづく職業倫理論争にのっとり、池田家は、種痘を「天命」を損ねかねない「不仁」の所業とみなしたのだった。たとえ少数であっても、失われる命の一つ一つは天与のものである」10)として、断固として「100分の1」の死を拒絶した――「若し誤ちて百中一二人を殺すとも、其の罪全く種師に帰すべし」(二代目池田瑞仙)――のである。

すでに指摘されているように、予防接種推進派と反対派の対立の背後にあるものは、功利主義カント的義務論の対立である11)。「最大多数の最大幸福」を倫理的規範とする功利主義によれば、100人を助けるために一人や二人亡くなっても、大多数が無事なのだからその方が望ましいという考えに傾く。他方、カントは、定言命法――他に考慮すべき目的や依存する目的を一切持つことなく(=無条件に)何らかの行動を命じること12)――として、「人間は常にそれ自体において目的として扱われるべきであり、手段として扱われてはならない」13)という基準を提示している。これによれば、人間の尊厳を尊重し、人格そのものを究極目的として扱うべきことになるから、功利主義のように、全体の福祉のためだとして、社会目的の手段として人間を利用することなど許される余地はないわけである14)

功利主義は、その難点として、様々な側面から、無視しがたい批判を浴びせられてきた。これまで述べてきたこととの関わりでは、以下の批判が重要であろう。①個々人の多様性や独自性の無視、②個人ないし少数者を社会全体ないし多数者の利益のために犠牲にすることの正当化、③幸福の個人間比較の可能性への疑問、④社会の全体主義的・効率的管理システムへの転化による個人の自由の破壊等である15)

また、「カント的な道徳が普及した国々では公衆衛生機関がワクチン拒否者に頭を抱えてきた。そして難しい倫理的対立を迂回するために、問題をワクチンの利益と害に限定しようとした」16)と指摘されている。日本における新型コロナウイルスのワクチン接種の議論においてもその傾向があったともいえるが、ワクチンの利益と害、つまり、ワクチンの安全性と有効性、これのみに焦点をあてた議論の応酬ばかりが繰り返されてしまうと、人間の尊厳に関わる議論が置き去りにされ、知らず知らずのうちに社会の全体主義化・効率的管理(監視)システム化(ワクチン・パスポートを想起されたい)を後押しすることになる。ワクチン接種の義務化の問題は、100分の1の「天命」に畏敬の眼差しを向けることなく語ってはならない問題なのである。今後、再び感染症の大規模流行が起こり、ワクチン接種の義務化が検討される際には、あらためてそのことに留意した議論が必要となろう17)

脚注   [ + ]

1. 金田耕一=島田裕平=竹下雄太=細野由莉亜=宮崎理紗=池田有梨奈「新型コロナウイルスのワクチン接種義務化をめぐる米国裁判例の動向と検討」人文×社会2巻5号(2022年)123頁以下、165頁。
2. 國部克彦『ワクチンの境界――権力と倫理の力学』(アメージング出版、2022年)224頁から引用。そもそも、ワクチンの安全性と有効性についての議論は、情報ロンダリングなどによって歪められる可能性があることにも注意が必要である。それについては、拙稿「薬剤利権の虜(Pharmaceutical Capture)――医産複合体に絡め取られる制度――」一橋法学22巻2号(2023年)917頁以下を参照されたい(https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/80134/hogaku0220206370.pdf)。
3. 國部・前掲注(2)227頁参照。
4. 西迫大祐『感染症と法の社会史――病がつくる社会』(新曜社、2018年)147頁~148頁参照。
5. 西迫・前掲注(4)152頁参照。
6. 西迫・前掲注(4)153頁~158頁参照。
7. 香西豊子「『100分の1』の倫理」現代思想2020年11月号82頁以下、85頁参照。
8. 西巻明彦「19世紀初頭の日本における痘瘡対策」日本医史学雑誌59巻2号(2013年)161頁以下、161頁から引用。なお、医師の大脇幸志郎は、ワクチンの恩恵を象徴するものとして通俗化し、流通しているジェンナーの物語は多くの点で事実と異なっており、ジェンナーは牛痘法を報告した人ではあっても予防接種の発明者ではない、としている。大脇幸志郎『なぜEBMは神格化されたのか――誰も教えなかったエビデンスに基づく医学の歴史――』(ライフサイエンス出版、2024年)404頁~406頁参照。
9. 種痘において、身体に植え付ける痘苗には、ヒト由来のものとウシ由来のものがある。前者を用いるのが人痘種痘術であり、後者を用いるのが牛痘種痘術である。後者は前者よりも遙かに安全であるといわれ、これが日本において普及をみることになる。以上については、香西・前掲注(7)84頁・85頁を参照。
10. 香西・前掲注(7)86頁から引用。後述の二代目池田瑞仙の言葉も同頁からの引用。
11. こうした指摘は、ヨーロッパの議論との関わりで、大脇・前掲注(8)471頁~472頁において、日本の議論との関わりで、國部・前掲注(2)223頁~224頁においてなされている。
12. マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』(早川書房、2010年)156頁参照。
13. 碧海純一『新版 法哲学概論〔全訂第2版補正板〕』(弘文堂、2000年)314頁から引用。
14. サンデル・前掲注(12)145頁、碧海・前掲注(13)314頁参照。ちなみに、カントは、ある伯爵からの手紙での問い合わせに対して、政府が種痘を推奨すべきことを述べているようであり、この点については、カントが展開している種痘への賛同は功利主義的であると指摘されている。西迫・前掲注(4)158頁~160頁を参照。
15. 功利主義への批判は、田中茂明『現代法理論』(有斐閣、1984年)197頁を参照。
16. 大脇・前掲注(8)472頁から引用。
17. 今後、ワクチン接種の義務化が検討される際には、これに先立ち、今回経験したコロナ・パンデミックにおいて採用された政策・対策をきちんと検証し、反省しておく必要がある。この観点から、読者諸氏には、拙稿「コロナ・パンデミックを振返る――仕組まれた制度・思考操作・ファシズム――」一橋法学24巻2号(2025年8月刊行予定)もあわせて手にとり(同論文は一橋大学の機関リポジトリを通じて、インターネットで入手可能)、政策・対策を生み出した制度的環境(言論空間のあり方も含めて)についても冷静に振返っていただきたいと思う。

仮屋広郷(かりや・ひろさと)一橋大学大学院法学研究科教授