(第85回)見えない線のはざまで(菅野亮)

私の心に残る裁判例| 2025.07.01
より速く、より深く、より広く…生きた法である“判例”を届ける法律情報誌「判例時報」。過去に掲載された裁判例の中から、各分野の法律専門家が綴る“心に残る判決”についてのエッセイを連載。
判例時報社提供】

(毎月1回掲載予定)

松戸事件上告審判決

裁判員裁判において死刑の選択が問題となる事案の量刑評議のあり方等

最高裁判所平成27年2月3日第二小法廷判決
【判例時報2256号106号】

見えない線を初めて意識したのは、30年前のことだ。拉薩ラサから標高5200mの峠を越えて、ネパールに入国した。当時、チベットからネパールに抜ける道は、舗装もされず、雨期には崖崩れが多発する危険なルートだった。ぬかるみにはまった小さなバスを乗客全員で押し、崩れた崖の向こう側で違うバスに乗り換えたりして、ようやく国境を越えた。小さな川に橋がかかり、そこが、国境だった。実際の国境は見えないが、橋の真ん中には、赤いペンキで線が引かれていた。

当時、チベットは、外国人は自由に旅行できず、おまけに安いドミトリーの隣のベッドにいた陽気なデンマーク人の高価なカメラが盗まれた件で公安の取調べを受けた後だったから、ようやく出国できたことにほっとしたことを覚えている。もちろん、私は窃盗事件の犯人ではなく、陽気なデンマーク人とは、ネパールで、1ヶ月ほど一緒に旅をした。

刑事事件を担当する弁護人にとって、死刑と無期を分ける線は、見えないが、依頼者を絶対に死刑側へ行かせたくない、そういう線だ。

この事件は、強盗殺人で被害者1名が死亡した事案であるが、強盗殺人以外にも、住居侵入、強盗強姦未遂、強盗致傷、強盗強姦、監禁、窃盗、窃盗未遂、建造物侵入、現住建造物等放火、死体損壊罪が併合されていた上、性犯罪前科があった。

一審では死刑判決となり、控訴審では無期懲役となって、検察官が量刑不当を理由に上告した。

最高裁は、検察官の上告を棄却したが、量刑について丁寧な説示をした。特に、私の印象に残ったのは、被告人の前科や反社会的な性格傾向等を強調して死刑を言い渡した第1審判決は、死刑がやむを得ないことの具体的、説得的な根拠を示していないとの判断だ。

この判断を得るために、弁護人は、多数の専門家と面談し、様々な主張と立証を行い、本人と面会や文通を重ねた。判決には、そうした弁護人の活動への評価は一つも現れないが、線のこちら側になったのは、判決に書かれない部分もあるかと思っている。

中国からネパールに入国した後、インド、パキスタン、イラン、トルコの国境を越えたが、国境の前で、迫害されている少数民族がバスを降りて正規のルート以外で国境を越えようとしたり、私自身、自動小銃を突きつけられたりした。見えない線ではいつもドラマが起きていた。

無罪と有罪、死刑と無期、実刑と執行猶予の境は、実は曖昧で、弁護人の活動次第でどちらの結論にも動く可能性がある。刑事弁護をしていると、思い通りの結果が得られず世界を呪いたくなったり、自分自身を見失いそうになることもあるが、弁護人の役割の重さを思い出させてくれる事件だった。


◇この記事に関するご意見・ご感想をぜひ、web-nippyo-contact■nippyo.co.jp(■を@に変更してください)までお寄せください。


「私の心に残る裁判例」をすべて見る


菅野亮(すげの・あきら 弁護士・法律事務所シリウス代表)
1973年生まれ。早稲田大学在学中に司法試験合格。大学卒業後、バックパッカーとしてアジア・中近東放浪。2000年、弁護士登録。元日弁連刑事弁護センター委員長、元司法研修所刑事弁護教官。著書に『責任能力弁護の手引き』(共著、現代人文社、2015)、『裁判員裁判と量刑Ⅱ』(共著、現代人文社・2017)、『ケース研究 責任能力が問題となった裁判員裁判PART2』(共著、現代人文社・2022)等。