(第5回)「戦後」は終わるのか — 81回目の夏に考える
第二次世界大戦後に築かれた国際秩序がいま大きく変容し、崩れつつあります。その秩序をつくったアメリカのトランプ大統領自らが「法の支配」を無視し、むき出しの強者の論理を押し付けているのです。私たちは、視界不良のまま海図なき航海に乗り出しているのではないでしょうか。とはいえ、現在の私たちがあるのは、過去の歴史の積み上げの結果なのです。世界と日本のこれまでの歩みを振り返り、歴史の知恵を生かして私たちの現在と未来を考える連載を始めます。(毎月上旬更新予定)
今年2026年8月は、先の大戦の敗北から81回目の夏になる。本来、過去に思いを馳せ、戦後日本の歩みを静かに振り返りたいところだが、日本の政治は不穏な動きを見せている。
この7月17日、「国論を二分するような大胆な政策、改革にも、果敢に挑戦していきたい」と意気込む高市早苗内閣によって提出された皇室典範等の改正法が、国会で成立した。日本国憲法の根幹にかかわる象徴天皇制のあり方を大きく変える改正が、衆参合わせてわずか6時間15分の審議で拙速に可決されたことは、日本の民主主義に長く禍根を残すことになると言わざるを得ない。
特に問題なのは、旧宮家の男性を皇室の養子に取り、その養子から男系でつながる男子子孫が、皇位継承資格を持ち得る制度としたことだ。衆参正副議長がまとめた「立法府の総意」にはなかったにもかかわらず、政府案に盛り込まれた項目である。旧宮家といっても天皇家と分かれたのは600年以上前の室町時代のこと。女性天皇や女系天皇を認める世論が広がる中で、そこまで男系にこだわることが国民の理解を得られるのだろうか。男女を問わず長子が王位を継ぐ世界の君主制の潮流にも逆行する。そもそも、小泉純一郎政権下の有識者会議は2005年の報告書で、旧宮家の皇籍復帰を「極めて困難だ」と否定し、女性・女系天皇の容認を提言していた。
保守系メディアの対応も割れた。男系継続の伝統的正統性を主張する産経新聞とは対照的に、読売新聞は社説で「象徴天皇制の根幹を傷つけた/問題多い養子制度を白紙に戻せ」とまで主張した。男系の絶対視が「国民統合の象徴」としての天皇制を危うくするとの懸念を指摘した。
復古的なナショナリズム路線に高市政権が突っ走り、多弱な野党が有効な歯止めになっていない—そうした政治を見ていると、我々が当然の前提としてきた戦後日本が変わってしまうのではないか、そういう不安を抱くのももっともである。
だが、ここで立ち止まって考えてみたい。日本の「戦後」とはいったい何なのか。81回目の夏にあたる今月は、「戦後」が意味するものをまとまった形で検討してみよう。
私たち日本人はごく普通に「戦後」という尺度で同時代を語っている。だが「戦後」とは、世界の中でも日本独自の言葉である。そう言ったら面食らう読者もいるかもしれない。ただ、これまでの私の記者人生で、欧米など外国の識者と意見を交わすなかで、「戦後」という言葉で1945年以降の自国の歩みを語る歴史意識は、日本独特のものではないかと思うようになった。
「戦後」は英語で言えば、“postwar”だが、この言葉が意味する時期は、ヨーロッパでは経済の文脈で語られることが多く、その場合は戦後復興がほぼひと段落する1950年代の半ばまでを指す。ヨーロッパでは冷戦による東西の分断、欧州統合の進展、さらには東西ドイツの統一と冷戦の終焉など、次々と新たな歴史のメルクマールが現れ、そのたびに時代区分の意識が変わっていった。他方、アメリカで「戦後」と言ったら、「どの戦後?」と問い返されるだろう。彼らには、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争(そこにいまやイランへの軍事力行使が加わった)といった多くの戦争、したがって多くの「戦後」がある。
日本の「戦後」は今年81年になる。これは1868年の明治維新から1945年の敗戦までの77年を優に上回る長さだ。これほど長い期間を、なぜ我々は「戦後」と呼びつづけるのだろうか。
私は日本の「戦後」は3つの視点で考えるべきだと、かねて主張してきた。そう考えることで「戦後」という認識枠組みが私たちを依然として規定していることが理解できる。
3つの視点とは、原点としての「戦後」、争点としての「戦後」、課題としての「戦後」である。
まず、原点としての「戦後」とは、何を意味するのか。
1937年7月の日中戦争勃発から太平洋戦争の終結までの時期に、日本人だけで310万人(アジア各国の犠牲者を含めるとはるかに膨大な数になる)の命が失われ、莫大な国富が失われた。敗戦後、日本国憲法を始めとする諸改革により、日本は新しい国に生まれ変わった。農地改革、労働権の保障、参政権を含む男女平等などが実現した。こうした今日につながる戦後改革の果実を考えると、1945年が現代日本で原点であることは間違いない。その後、これを上回る転換点はなかった。だからこそ1945年は、歴史を振り返る起点として意識され続けてきた。
2番目の視点は、争点としての「戦後」である。
「戦後」とは、「戦後民主主義」という言葉が象徴しているように、日本国憲法を柱とする、ある種の価値体系としてイメージされてきた。日本国憲法の3つの柱、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重は、天皇大権のもとに人権が制限され、暴走した軍部によって無謀な戦争に突入した「戦前」という時代を深く反省した原理である。
一方で、そうした「戦後」のありようを否定する保守・ナショナリズム勢力もある。彼らは、憲法は占領下でアメリカに押し付けられたものであり、日本の伝統を否定するものだとみている。
しかし、1960年の安保改定(安保闘争)を機に、当時の岸信介首相の復古路線は破綻し、代わった池田勇人首相が「寛容と忍耐」をスローガンに経済重視路線に転じると、自民党内でも改憲論はいったんは棚上げされてしまった。それでも、「戦後政治の総決算」(中曽根康弘内閣)、「戦後レジームからの脱却」(安倍晋三内閣)と、復古主義は間欠泉のように吹き出し続けた。
高市首相もこの文脈の中にあるが、21世紀の日本社会で高まっている「没落感覚」と「対外脅威認識」が、国家主義的な機運を鼓舞する指導者への待望論を一層大きくふくらました点は見過ごせない。皇室典範改正はこういうナショナリズムの政治的アピールの材料とされた。
こうした「戦後」をめぐる議論の座標軸となっているのは、先の大戦、そして「戦前」をどうとらえるのかという歴史観の対立だ。81年間という時間だけは過ぎ去ったが、歴史観のコンセンサスは作り出せなかった。今回の改正劇の根底にあるのが、象徴天皇制のもとで国民との紐帯を築いてきた戦後皇室の歴史的経験への配慮を欠いた、「男系主義」という復古的イデオロギーであることを考えると、これもまた「戦後」をめぐる価値観の対立である。争点としての「戦後」は続いているのだ。
最後に課題としての「戦後」を考えてみよう。
まずは、先の大戦が残した歴史の傷は隣国関係に暗い影を落としていることを認めねばなるまい。ロシアとの間には北方領土問題がある。中国と韓国との間には、侵略戦争や植民地支配をめぐる歴史問題が存在し、それが、尖閣諸島や竹島をめぐるナショナリズムのぶつかり合いを生んでいる。北朝鮮とはいまだ国交を正常化できていない。核・ミサイルや拉致問題も絡んで糸口さえ見えない。歴史をめぐる争点は、徴用工問題にせよ、首相の靖国神社参拝問題にせよ、いずれも権力政治や国益が複雑に絡み合う問題で、日本だけの努力で解決できる課題ではない。だが、このままでは日本の「戦後」が終わったとは到底言えない。和解とは、謝罪する側と謝罪を受け入れる双方の歩み寄りが必要なプロセスだ。息長く、対話を続ける以外道はない。
課題としての「戦後」は対外関係だけに限らない。
「沖縄が復帰するまで日本の戦後は終わらない」と語ったのは佐藤栄作首相である。佐藤内閣は沖縄の本土復帰を実現した。復帰してから半世紀以上の時間が流れたが、米軍基地の沖縄集中は続いている。政府と沖縄の対立はエスカレートする一方である。はたして沖縄の「戦後」は終わったのか。
また、唯一の戦争被爆国でありながら、日本政府は、アメリカの核戦略への配慮から、核兵器禁止条約会議にオブザーバー派遣すらできていない。被爆者にとって「戦後」は終わっているのだろうか。
81年という歳月は経った。だが、こういう課題を考えると、「戦後」はまだ過ぎ去ってはいないのである。
以上みたように、「戦後」とは、原点であり、争点であり、課題でもある複合的な問題である。その問題を解くために必要なのは、日本がどのような道を歩んだ国であり、そしてこれからどのような国として生きていくのかという、肝心かなめの問いについて、私たち国民が深く考えることではないだろうか。
今回の皇室典範改正が政治的思惑で乱暴に進められたことで、そうした国民的議論の不在を改めて思い知らされた。
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三浦俊章(みうら・としあき)元朝日新聞記者。政治部、ワシントン特派員、論説委員、編集委員、テレビ朝日系列「報道ステーション」コメンテーターなどを歴任。主著に『ブッシュのアメリカ』(岩波新書、2003年)、共訳に『アメリカ大統領演説集』(岩波文庫、2025年)など。














