(第97回)「判決ありき」ではない事案との向き合い方について(野口貴公美)

私の心に残る裁判例| 2026.07.01
より速く、より深く、より広く…生きた法である“判例”を届ける法律情報誌「判例時報」。過去に掲載された裁判例の中から、各分野の法律専門家が綴る“心に残る判決”についてのエッセイを連載。
判例時報社提供】

(毎月1回掲載予定)

大阪国際空港訴訟最高裁判決

1.民事上の請求として一定の時間帯につき航空機の離着陸のためにする国営空港の供用の差止めを求める訴えの適否
2.営造物の利用の態様及び程度が一定の限度を超えるために利用者又は第三者に対して危害を生ぜしめる危険性がある場合と国家賠償法2条1項にいう営造物の設置又は管理の瑕疵
3.国営空港に離着陸する航空機の騒音が一定の程度に達しており空港周辺地域の住民の一部により右騒音を原因とする空港供用の差止請求等の訴訟が提起されているなどの状況のもとに右地域に転入した者が右騒音により被害を受けたとして国に対し慰藉料を請求した場合につき右請求を排斥すべき事由がないとした認定判断に経験則違背等の違法があるとされた事例
4.将来にわたって継続する不法行為に基づく損害賠償請求権が将来の給付の訴えを提起することのできる請求権としての適格性を有するとされるための要件

(最高裁判所昭和56年12月16日大法廷判決)
【判例時報1025号39頁掲載】

学士、修士、博士と、私には公法学を教えてくださった先生が3人いる。そのうちのお一人で、修士課程で指導を受けたのが、原田尚彦先生である。

一橋に着任されてからの原田先生は、とても穏やかで優しかった。若い頃には「カミソリ」と呼ばれていたらしいが、私にとっては、拙い報告にも丁寧に耳を傾けてくださる温厚な先生という印象が強い。なぜか時折、私のことを「黒田くん」と呼ばれたことも、懐かしい思い出である。

今回、「心に残る裁判例」と聞いて真っ先に思い浮かんだのは、大阪国際空港訴訟の最高裁判決である。磯野(一橋大学西キャンパスの磯野研究館)にあった先生の研究室で、先生が、普段には珍しく厳しい口調でこの判決を批判されたことをよく覚えている。今でも磯野の前を通るたびに、その時のことを思い出す。

先生が強く批判されていたのは、最高裁が本件について民事差止訴訟としての救済を認めなかったことであった。「多くの(嫌悪)施設の操業停止は、民事訴訟として認められている。なぜ最高裁は本件についてそれを認めなかったのか」— この批判は、多くの行政法研究者に共有されているものであり、当時の私は、「先生の学風からすれば当然のこと、先生もまた、批判的立場に立たれているのだな」と受けとめるのみであった。

しかし長い年月を経て振り返ってみると、あの時の先生の批判には、学説上の見解表明を超えた、怒りにも近い感情が込められていたのではないかと思うに至った。

先生は、この判決が出される前から、事案そのものを見つめ、あるべき解決のあり方を考え続けてこられたはずである。先生は評釈(別冊ジュリスト93号298頁)において、「(最高裁の判示は)人びとを驚かした」(300頁)と書かれているが、誰よりも驚かれたのは、他ならぬ先生ご自身だったのではないだろうか。

そう考えると、先生が研究室で判決を厳しく批判されたのは、単に判示への異論を示すというだけではなく、判決を読む際の姿勢 — 最高裁の判決を「ありきもの」として読むなということ — を伝えようとされていたのではないかと、今ではそんな風に感じている。

最高裁の判決は、行政法上の紛争に一つの結論を示すものである。そして、私を含め、少なからぬ行政法研究者は、判決を「ありきもの」として読み、理解し、ときに批判しながら学んでいるのではないだろうか。少なくとも私自身は、何らかの問題を考える際、まず先例を探すことから始めてきた。先例となる判決を読み、さらに学説や評釈等の諸議論を重ねながら、事案解決の方向性を検討すること、それが、行政法を学ぶということなのだと思っていた。

行政法の判決はすでに嫌というほど数多く存在しているし、また、日々、増え続けている。大抵の事案には、濃淡や射程の違いはあれど、参照し得る先例が存在している。そうした「多数の先例が存在する時代」に行政法を学ぶ我々は、ともすれば、「先例のないところから自分の頭で考える」という経験を十分にしないままに過ごしてしまうこともあるのかもしれない。

もちろん、先例を手がかりとする「判決ありき」の学び方自体が誤っているわけではない(先生も、もちろんそれはとても大切だと仰られたであろう)。ただ、先生がもっと大切にされていたのは、「事案そのものを、自分の頭で考える姿勢」だったのではないだろうか。目の前の法的紛争について、何が最善の解決なのかを自ら考え、可能性を模索し続けること。その過程には、納得もあれば驚きもあり、ときには怒りに近い失望さえ伴うこともあるだろう。しかし、「判決ありき」ではない事案との向き合い方は、既存の考え方とは異なる、新たなアプローチの可能性を見出す契機にもなるはずである。そのような思考のトレーニングは、行政法を「用いた」問題解決を考えていくうえで、極めて重要になるのではないかと思う。

この歳になって、先生の研究に通底していたのは、「(私人の権利救済のために)行政法をいかに『用いる』べきか」という問いだったのかもしれないと振り返っている。

最後に、今回改めて本判決と先生の論稿を読み返して、恐れずに一つ、述べてみたい。

先生は上記評釈で、先生らしい皮肉たっぷりの表現で、次のように述べられている。

「『航空行政権』という新規の概念を創造し、国営空港の管理は『施設管理権』に基づく非権力作用と『航空行政権』に基づく権力作用との不可分一体的な作用であるとの斬新かつ特異な論理を展開して、国営空港の供用差止めを求める民事訴訟を不適法とし、門前払いしたところに、本判決の目新しさが認められる」(原田上掲、300頁。なお、先生のもう一つの論稿(「夜間飛行差止却下判決の論理と問題点」ジュリスト761号)の文章はさらに「キレた」表現になっていて、趣深い。

行政法研究者の多くは、本判決の「斬新かつ特異な論理」(不可分一体説)を批判的に捉えてきた。しかし、「判決ありき」「学説ありき」を一旦脇に置き、「国営空港の設置と供用」を制度としてとらえ、立法者がその制度で実現しようとしたもの(「法が一定の公共用飛行場についてこれを国営空港として運輸大臣がみずから設置、管理すべきものとしたゆえんのもの」)とは何かを考えてみると、制度全体としてみた場合に顕出される「全体としてみた場合の、複合的な行政作用」という説示(伊藤正己裁判官補足意見)にも、一理あるのではないかと思えてくる。

この思考は、「裁判による解決ではない事案解決」も射程に入れた、行政法関係の把握を試みようとするものである。

本判決を「ありきもの」としてみると、航空行政権論は、訴えを却下するために最高裁が用意した概念との評価を受けるものとなるかもしれない。しかし、場面を転じてみると — 例えば、「空の安全安心を守るための航空関連行政の制度構築」について政策的に行政法を「用いる」ことを考える議論の場であるとすれば、「航空行政権」という概念を立てることに相応の有用性が認められるのではないかと思われるのである。

とりわけ近年、いわゆる公共インフラ管理の施策領域においては、「有体物としての公物の管理(いわば、管理権に基づく非権力作用)」と、「公物が存在する空間の秩序維持のために必要となる制御(いわば、行政権に基づく権力作用)」とを複合的に(不可分一体的に)検討することが求められる場面が増えているようにも感じられる。その意味で、本判決(不可分一体説、航空行政権論)を再考する意味は小さくないように感じられるのであるが、この点(公物管理と空間制御)については、また別稿でゆっくりと検討をしてみることとしたい。

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野口貴公美(のぐち・きくみ 一橋大学教授)

1971年生まれ。法政大学、中央大学を経て現職。著書に、『行政法[第4版](有斐閣ストゥディア)』(共著、有斐閣、2026年)、『行政法Visual Materials[第3版]』(共編著、有斐閣、2025年)、『行政法判例50![第2版]』(共著、有斐閣、2024年)など。

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