(第19回)ルクレーティウスによる死の否定, 宗教批判:Nil igitur mors est ad nos neque pertinet hilum/私たちにとって, それゆえ死とは無であり, 何の関係もない存在である

竪琴にロバ:ラテン語格言のお話(野津寛)| 2025.10.08
格言といえばラテン語, ラテン語といえば格言. みなさんはどんなラテン語の格言をご存知ですか? 日本語でとなえられる格言も, 実はもともとラテン語の格言だったかもしれません. みなさんは, 知らず知らずに日本語で, ラテン語を話しているかもしれません! 実は, ラテン語は至るところに存在します. ラテン語について書かれた本も, ラテン語を学びたいという人も, いま, どんどん増えています. このコラムでは, ラテン語格言やモットーにまつわるお話を通じて, ラテン語の世界を読み解いていきましょう. (毎月下旬更新予定)

Nil igitur mors est ad nos neque pertinet hilum
ニール イギトゥル モルス エスト アド ノース ネクェ ペルティネト ヒールム
(私たちにとって, それゆえ死とは無であり, 何の関係もない存在である)

「苦さ」と「甘さ」― 教説詩としての『物の本質について』

今回のラテン語の格言は, 古代ローマの詩人・哲学者ルクレーティウス(Titus Lucrētius Cārus, 前99年頃~前55年頃)の大著『物の本質について Dē Rērum Nātūrā』からの引用です. ルクレーティウスは, 全6巻構成で合計7400行ほどからなる, この長大な韻文作品をラテン語で書くことによって, エピクーロス主義の始祖として知られる古代ギリシアの哲学者エピクーロス(Ἐπίκουρος, 前341~270年)の思想を同時代のローマと後のラテン語世界に伝えました. 哲学者エピクーロスは, 僅かに残る彼の著作の断片から推測する限り, 詩歌のような「虚飾」を避け, その著作はもっぱら散文で書いていたようです. しかし, ルクレーティウスは違いました. 確かにルクレーティウスは, エピクーロスをあたかも神のように崇め, 忠実にその教えに従ったはずですが, エピクーロスの哲学に基づく自分の作品『物の本質について』は, ラテン語の韻文で, 詩の形にして書いたのでした.

韻文の形で自然哲学の長大な詩を作るという習慣そのものは, 直接的には, パルメニデース(Παρμενίδης , 前6世紀終頃~5世紀頃)やエンペドクレース(Ἐμπεδοκλῆς, 前494年頃~434年頃)といったソクラテス以前の哲学者たちが歌った『自然について Περὶ Φύσεως』と題される哲学詩に遡る伝統であるように思われます. しかし, 自然と神々に関する, 人々にとって最も重要かつ有益であると考えられた様々な知識を詩の形で伝える習慣は, 大昔から存在していました. これは, 少なくとも印欧祖語の時代にまで遡る, 印欧語族の非常に古い伝統だと思われます. 古代インド語で作られた, バラモン教とヒンドゥー教の聖典『ヴェーダ Veda』も, その中心的な部分は韻文で歌われたものでした. 古代ギリシア・ローマ文学の世界では, ヘーシオドス(Ἡσίοδος , 前700年頃)がその『神統記 Θεογονία 』において, カオス, ガイア, タルタロス, エロスといった原初の神々の誕生から始め, ゼウスによる支配の確立までをヘクサメトロスの詩で歌って以来, こうした主題について, 様々な詩人によって多くの作品が作られました. この文学ジャンルは, 「教説詩 didactic poetry 」と呼ばれています. つまり, ルクレーティウスは, 内容に関してはレウキッポス(Λεύκιππος, 前5世紀中頃), デーモクリトス(Δημόκριτος, 前460年頃~前370年頃), エピクーロスの学説(原子論)に従ったのですが, 著作の形式に関しては, ヘクサメトロスの詩形で書くというパルメニデース, エンペドクレース, あるいはヘーシオドス等に共通の「教説詩」という文学ジャンルのルールに従ったようなのです.

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野津寛(のつ・ひろし)
信州大学人文学部教授。専門は西洋古典学、古代ギリシャ語、ラテン語。
東京大学・青山学院大学非常勤講師。早稲田大学卒業、東京大学修士、フランス国立リモージュ大学博士。
古代ギリシア演劇、特に前5世紀の喜劇詩人アリストパネースに関心を持っています。また、ラテン語の文学言語としての発生と発展の歴史にも関心があり、ヨーロッパ文学の起源を、古代ローマを経て、ホメーロスまで遡って研究しています。著書に、『ラテン語名句小辞典:珠玉の名言名句で味わうラテン語の世界』(研究社、2010年)、『ギリシア喜劇全集 第1巻、第4巻、第8巻、別巻(共著)』(岩波書店、2008-11年)など。