『[AIと経済学]でもっとよくなる保育政策』

一冊散策| 2025.09.22
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

はじめに

ABEMA の企業が「保育」を変える?

「東京都多摩市がサイバーエージェントと組み、「マッチング理論」と呼ばれるアルゴリズムを活用して待機児童問題の改善に取り組んでいる。同市はより公平なルールになるように同理論に基づき見直し、保護者が入園確率を上げるため、あえて人気が低い保育園を希望するといった『保活の裏技』に悩む必要がなくなった」(強調は引用者、『日本経済新聞』 2023 年 8 月 7 日付)。

「福島県郡山市は、同じ保育園にきょうだいで通いやすくするため、認可保育園の入園調整の判断基準を見直す。(中略)認可保育園の調整に関して市が連携協定を結んでいるサイバーエージェントが、加算分を算出した」(『福島民報』 2023 年 10 月 23 日付)

インターネット広告を祖業とし、「ABEMA」「Amebaブログ」といったインターネットメディアで知られる日本のテック企業であるサイバーエージェントが、全国の自治体(市区町村)と一緒に待機児童問題をはじめとした保育の問題の解決に挑んでいることをご存知だろうか。同社が 2016 年に設立した国内屈指の AI(人工知能)分野の研究機関、「AILab」に在籍する研究員たちが行政官とともにさまざまな保育課題に対して、最先端の理論による分析やシミュレーション、アルゴリズムを開発し課題解決に貢献しているのだ。

制度改革だけでは不十分:AIの可能性

保育の専門家といえば、いわゆる保育学などを専攻し、子どもの発達のために必要な保育環境や保育方法、保育士の研修方法の開発など、子どもに対する適切な保育や教育に関する研究を行っている印象が強い。しかし、待機児童問題で指摘されてきたように、そもそも保育サービスに触れる機会を得られない児童が一定数存在するという実態は、保育の内容以前に、保育サービス市場が十分に機能してこなかったことを示している。そのため、これまでは市場やそれを支える政策、制度を専門とする公共政策や経済学の専門家による研究が進んできた。中でも、学習院大学の鈴木亘教授は、経済学者として待機児童解消に向けたさまざまな制度改革を提言するだけにとどまらず、実際に国などの専門委員を務め、東京都では待機児童対策の特別顧問として実務に積極的に関わるなど、突出した貢献をしてきた。東京大学の山口慎太郎教授も、子育て支援や父親の育児参画の観点 から、専門的な研究のみならず一般向けの書籍・メディアや政府の政策会議で積極的な発信を行っている。また、慶應義塾大学の中室牧子教授は、教育経済学者の観点から、保育の質の向上に関する実践や提言を行っている。こうした経済学者の取り組みは、待機児童や保育士不足、少子化といったさまざまな保育に関わる深刻な課題に対して、主に需給それぞれの制度面の改善に貢献してきたといえる。

しかし、待機児童の解消や保育所(認定こども園等も含む「保育所等」を指す)と児童のミスマッチといった問題を解消するには、繰り上がりも含めると毎年 300 万人近い保育所利用希望児童を約 4 万箇所の保育所にうまく振り分ける必要がある。このため、経済学や公共政策に基づいた提案だけでなく、コンピュータに最適なマッチングをみつけ出させるための AI 技術や、保護者が膨大な保育所の中から自分の子どもに合う保育所をみつけるのを手助けするためにどのような情報を提供するかといった行動科学的な知見を活用することによっても大きく改善できる。

現状、各自治体の裁量に任されている、誰を優先して保育所に入所できるようにするかというルール(利用調整基準)や、保育所探し(いわゆる保活)を効率的にするための情報提供のあり方、児童を保育所に適切に割り当てるアルゴリズムやそれを支えるデータ整備に関しては、AI やデータサイエンス、ユーザーエクスペリエンス(UX)デザインといったデジタルの知見が不可欠である。

サイバーエージェントが抱える多彩なエキスパート

サイバーエージェントの中核的事業であるインターネット広告を技術的に支える研究所として、数人のメンバーで 2016 年に発足した AILab は、25 年 1 月現在では総勢 100 名を超える一大研究拠点となっている。研究分野も、メディアの自動生成や接客ロボットの開発、日本語版の生成 AI をいち早く公開した自然言語処理など多岐にわたっている。研究分野が広がるにつれ、応用先も拡大しており、ABEMA などのメディア事業や、小売業や行政、インフラにおけるデジタルトランスフォーメーション(DX)にも技術的貢献を行っている。

本書の執筆陣を含む AILab の「経済学社会実装チーム」は、チーム名にもなっている経済学を軸としつつも、認知心理学や計算機科学(コンピュータサイエンス)の博士号取得者も在籍している学際的な混成チームである。また、そのキャリアをみても、元公務員であったり、ソフトウェアエンジニアであったり、コンサルタントであったりと、研究以外の実務経験が豊富なメンバーが揃っている。これまでチームでは、インターネット広告のオークションシステムやマッチングプラットフォームにおけるアルゴリズム(コンピュータプログラム)の技術開発など、AI 技術に経済学的な観点を持ち込んだ研究で成果を上げてきた。これらの研究は、「論文を発表して同業の専門家から評価される」という学術の世界に閉じた活動ではなく、現場のエンジニアやデータサイエンティストとともに実サービスにおける課題を理解し、ソリューションを実装して試すという社会実装を主眼に置いている。

もっとも、チームメンバーは自分たちの知見だけを頼りにプロジェクトを進めてきたわけではない。筆者(森脇)自身が関わった事例も含め、これまで数々のデータ活用プロジェクトや DX プロジェクトが大した成果も上げずに消えていったが、その理由は、現場を理解せず、技術者による独りよがりな解決手法を押し付けたことによる不用意な摩擦や、解像度の低いままトップダウンで決められたタイムテーブルに沿って無理やり進められたずさんなプロジェクトマネジメントにある。数学者のベン・グリーンは、技術者が自らが持っているテクノロジーを使いたいという欲求で世の中をみてしまうことを「テックゴーグルをかける」行為として批判している。テックゴーグルをかけた技術者と、成果を急ぐトップの顔色をうかがうプロジェクトマネジャーのチームでは本当の課題解決を達成することはできない。

プロジェクトの成功に不可欠なストリートレベルの行政官との対話

2010 年代の「ビッグデータ」から最近の「生成 AI」までの 20 年近く、人類は強迫観念のようにデータ活用の悪夢にうなされてきた。だが、データ活用の真髄は、データだけで物事を判断せず分析対象の背景知識(ドメイン知識)を吸収し、現場のインセンティブ構造を把握したうえでソリューションを提供することにある。

われわれのチームは保育所プロジェクトにおいても、行政経験や一保護者としての経験を過大視せず、自分たちが持っている知識が不十分であることを前提に、常に行政現場のドメイン知識を吸収することに努めてきた。保育の現場で何が起きているか、全体を俯瞰しつつ正確に把握しているのは、保護者や保育所等と日々コミュニケーションをとっている自治体の保育担当課の職員に他ならない。すなわち、公共政策分野において近年重視される「ストリートレベルの行政官」である。

チームメンバーは、実証実験を通じて自治体の保育担当課の職員と議論を繰り返すことで、マスメディアや一部の学者が撒き散らす偏見や誤解、古い知識をぬぐい落とし現実を直視するようにした。同時に、保育政策を進める内閣府や厚生労働省、そして子ども政策の司令塔として 2023 年に創設されたこども家庭庁など、幅広い関係者と議論をすることで、公的文書では決して語られない政策の「文脈」を把握することに努めた。あわせて、行政側の視点だけでなく、各地の保育園の園長や保育士の皆さんにヒアリングをすることで、真の現場の課題感を正確に理解するよう努めてきた。

巨人の肩に乗る

ただし、そのようにして得られた課題感を、単純に自分たちの持っている技術だけで何とかしようとするのもまた、失敗への近道である。経済学や行動科学、AI の専門家といえど、必ずしも分野の知見をすべて兼ね備えているわけではない。そこでわれわれのチームは、待機児童問題の解決につながる論文も発表している東京大学マーケットデザインセンター(UTMD)の小島武仁教授と鎌田雄一郎教授(カリフォルニア大学バークレー校)、小田原悠朗氏といったマーケットデザインやマッチング理論のスペシャリストに加え、前述の山口教授、そして UTMD の久野寛氏といった実証分析の専門家の教えを乞うてきた。また、チームの中でアルゴリズム開発を中心的に担ってきた孫兆鴻氏の指導教員である計算機科学・AI 分野の権威、横尾真教授(九州大学)からもアドバイスを受けながらプロジェクトを進めた。

とりわけ UTMD の小島教授、鎌田教授には、2020 年以降毎月のミーティングで活発な議論を繰り返し、さまざまな知見を提供いただいた。小島教授は、マーケットデザインの大巨人であり 12 年にノーベル経済学賞を受賞したアルヴィン・ロスの弟子で、経済学の中でも市場の仕組みを創り上げる理論を考案し、社会への実装までを担うマーケットデザインの分野で世界をリードしてきた研究者である。20 年にスタンフォード大学から東京大学に籍を移して以降、行政やビジネス現場のマーケットデザインの社会実装に取り組むユニークな東京大学の機関、UTMD を率いてきた。保育所だけでなく、企業・自治体の新卒配属の制度設計や、中古車などを扱うオンラインプラットフォームのオークション設計など多岐にわたる領域で成果を上げている。また、鎌田教授は東京大学経済学部在学中に書いた論文で、ゲーム理論・産業組織論の大巨人であるドリュー・フーデンバーグの論文の間違いを指摘し、そのままハーバード大学に入学した逸話を持ち、小島教授と長年タッグを組んでトップジャーナルに論文を量産している超一流の経済学者である。この巨人たちの頭脳を貸していただくことで、独りよがりにならずにロジカルにプロジェクトを進めていくことができた。こうした、現場とアカデミアの往復を丹念に繰り返すことが成功への道であると確信している。

本書で伝えたいこと

本書の想定する読者は、自治体の保育担当課など、保育の現場でさまざまな努力を重ねておられる自治体担当者の方や、保育政策を検討されている自治体の意思決定層の方である。また、わが国の明日を担う子どもたちの最初期の成長を支援している保育所の経営者、保育士などの職員の方やデジタルと専門知識を使って自治体の現場の課題解決に真剣に向き合っているデジタル部局の担当者の方にも大いに参考になると考えている。さらに、国や広域自治体、政策研究者、マスコミなどで、保育政策に携わりつつも保育の現場についてイマイチ解像度が上がらないといった方にも格好の参考書になると考えている。

こうしたことから、本書では AI 技術や経済学を用いたプロジェクトについても、できる限り専門用語を用いずに平易な記述に努め、できるだけそのエッセンスをお伝えするように気を配ったつもりである。

課題先進国といわれるわが国では、課題の多さや大きさのため、政策立案者や意思決定者が有識者や現場とのコミュニケーションをおろそかにし、不十分だったりバイアスがあったりする現状認識のもと、手持ちの知識だけで解決しようとしてしまう例が後を絶たない。その結果、膨大なリソースを費やして的外れな解決策や運用を想定しない机上の空論で政策が立案され、使えないシステムが構築され、後から専門家やユーザーに批判されるという状況が頻発している。本書で示す現場と最先端の理論を融合させるアプローチは、今後の行政課題への対応に参考になると信じている。

本書は、保育の現在地に関する全体像を解説した第 1 章から第 3 章までの第 I 部「保護者、行政、リアル保育所の実態と向き合う」と、実際にわれわれが課題解決に挑んだ実例をまとめた第 4 章から第 8 章までの第 II 部「現場の課題を『AI と経済学』で解いていく」の、大きく 2 つの部で構成されている。まず日本の保育が直面する課題を把握したい方は第Ⅰ部から、具体的な解決策の実例を知りたい方は第 II 部の目次をご覧いただき、気になるトピックから読み進めていただきたい。ぜひ広くお気軽にお手にとっていただければ幸いである。

目次

  • はじめに 「AI と経済学」で保育の現場を変える
  • 第 I 部 保護者,行政,保育所の実態 (リアル) と向き合う
    • 第 1 章 保育政策の現在地
    • 第 2 章 保育政策の現場のリアル
    • 第 3 章 自治体と一緒に保育現場を変える
  • 第 II 部 現場の課題を「AI と経済学」で解いていく
    • 第 4 章 情報を制する者は「保活」を制す
    • 第 5 章 エビデンスに基づく公平な利用調整基準~きょうだい加点の事例~
    • 第 6 章 正直者が損をしない保育所選びを実現する
    • 第 7 章 誰もが納得できるアルゴリズムを創る~マーケットデザインの最前線~
    • 第 8 章 ChilmAI にみる自治体システム開発の実践とデジタル公共財としての未来
    • おわりに インパクトを生む社会実装に向けて

書誌情報など