『経済学で読み解く大相撲 300 年史 — 本所、そして両国の磁場』(著:山村英司)
はじめに
相撲。時には相撲道とも称される。屈強で巨大な男たちのぶつかり合うことからは、格闘技と考えられる。そう考えるなら、スポーツの一種である。しかし、単なるスポーツの範疇に収まりきらない面もある。相撲は日本の江戸時代から続く「国技」である。力士志望者は入門すると同時に相撲部屋での共同生活が始まる。早朝から激しいけいこにいそしむ。鍋など大量の「ちゃんこ」をたいらげた後は、昼寝をして体を大きくする。当番を決めて、食糧の買い出し、食事の用意なども自分たちで行う。風呂の順番など細かなことにも暗黙に共有される規範がある。
共同生活を営んでいくためのコスト (労力・時間) は、平等に負担されるわけではない。番付によって決まる序列が、そのまま日常生活の上下関係に持ち込まれる。相撲社会は日常生活にもおよぶ堅固な縦関係によって特徴づけられる。明確な上下関係の中では、下位の者は上位に者には黙して従うことが求められる。
相撲部屋に入門後、相撲部屋という閉じた生活空間の中で、肉体を鍛え、技量を磨いていく。そして、若者たちは力士へと成長していく。あまりの厳しさやプライバシーの欠如から、脱落していく者も多い。約 700 名の力士の中で、真のプロフェッショナルとして認められるのは幕内と十両に属する「関取」のみであり、その数は 70 名と定められている。この 10%の「関取」にたどり着く前に多くの者は相撲界を去る。厳しく閉じた世界の中で生き残るためには、心身とも相撲に捧げる覚悟と根気が求められる。
昭和時代、経済発展に伴い、都市への人口の流入が増大した。人口は地理的に移動したばかりではなく、就業する部門も農業から工業、そして商業へと急速に移り変わった。日本社会の変化に呼応するように、相撲界も変容していく。江戸時代から力士は都市からの入門者割合が高かったが、昭和に入ると地方から東京の相撲部屋に入門する若者が増加し、出身地の多様化が進んだ。
伝統的かつ閉鎖的な印象がある相撲界だが、実は昭和から平成にかけて日本社会の中で最も早く外国人労働力 (外国出身力士) が急速に増加し、その影響を受けてきた。外国出身の若者も日本人と同じく、入門後に相撲部屋で共同生活を送る。言葉はもとより生活習慣、価値観など全く異なる背景を持つ若者が力士になるコストは、他の「プロスポーツ」とは比べものにならぬほど大きい。野球、サッカーなど海外のプレイヤーが活躍する競技は存在するが、必ず通訳が傍らにいる。とりわけ日本語を学ぶ必要性に迫られていないからである。一方、外国出身力士はインタビューなどで、日本語をあやつり受け答えしている。生きていくためには、日本語が必要。だから、日本語が上達していく。それが嫌なら荷物をまとめて母国へ帰ることになる。
現代の相撲界を分析するには、その背景を理解する必要がある。国境を越えた労働力の流入は「国際化」である。本書で考える「グローバル化」はより広い意味を持つ。本書では特定地域内における「ローカル」な経済活動が、地域外に開かれ労働力が流入することを「グローバル化」と定義する。国内でもそれまで経済的結びつきが弱かった地域から、東京に労働力が移動することは「グローバル化」である。戦前から戦後にかけて昭和時代にすでに、相撲界は一種の「グローバル化」を経験している。グローバル化は何かのきっかけで急進展したのではない。過去の経験をもとにして、本格的なグローバル化の前提条件が整えられてきたのである。大河小説のように歴史は連続しているのである。
21 世紀に入ると国内の遠隔地からの入門にかわって、急速に海外からの入門者が増加した。量的な拡大ばかりではない。最高位の横綱、それに次ぐ大関の力士の大半は外国出身力士が占めるようになり、外国出身力士の番付上の地位も高まった。様々な職業があり、自由を享受できる現代社会でなぜ、外国出身力士が増えていくのか? その背景には、日本の経済発展、社会主義国家の崩壊、世界経済のグローバル化の相互作用がある。これら諸条件が連動し、伝統社会が変容していった。
これまで相撲を経済学の視点から考察した先行研究がいくつか存在する。しかしながら、相撲社会の変容を長期的かつ巨視的に俯瞰する視点から、データを用いて数量的に相撲社会を分析した研究は存在しない。本書はデータを用いて江戸から現代までの大相撲の変容の全体像を描き、そのダイナミズムと文化的な意義を考察していく。
本書の前半では、江戸から戦後の高度経済成長期にかけての相撲界の長期的変容を取り上げ、主に国内における労働移動について考察する。1970 年代以降の分析を行い、世界的な現象であるグローバル化の進展が日本の相撲界に及ぼす影響を分析した。このようなダイナミックな相撲社会の変容の中に、数多くの実証経済学のテーマが隠されている。さまざまな経済学分野の知見を手掛かりに、本書では日本社会全体の経済発展と相撲界の変容を結びつけ、海外からの移民ネットワークの形成、外国出身力士の流入が日本人力士へ及ぼす影響などを分析する。グローバル化は現実的な政策にかかわる問題である。しかし、日本国内を対象に日本語で書かれたグローバル化と外国人労働力の問題を論じた研究は数少ない。わずかに存在する外国人労働の経済分析の研究書では、個別産業の実態や制度に関して歴史的経緯は考慮していないため統計分析と実態がどのように結びつくのか不明な点が多い。2000 年以降の本格的グローバル化において、現実の労働市場における制度やルールを踏まえて、外国人労働者の影響を分析した書籍は存在しない。本書の隠れた狙いは、相撲界の変容を通してこの点を明らかにすることである。そのため外国出身力士という代替労働力の増加が日本人力士に及ぼした影響、さらに、グローバル化に対応するためのルールの変化とその帰結を紹介する。
本書は数々の実証分析結果に基づいて記されている。しかし本書の目的はその分析方法の詳細や妥当性を説明することではなく、「大相撲 300 年の真実」を経済学の視点で大局的に捉えることにある。したがって、本書では学術的な記述は割愛し、直観的にわかりやすい説明を心掛けた。より厳密な議論に興味のある読者には、各章の注で紹介した文献や、巻末の参考文献に挙げた私の学術論文をお読みいただければと思う。
本書で対象にするのは相撲界という伝統社会である。真実に迫るために欠かせないのは、歴史的経緯、制度や実態の理解である。そして、その時代に生きた人々の息遣いを感じ取ることだ。相撲界における文脈を踏まえ適切に研究を進めるために歴史資料、写真・地図、さらには文学者や随筆家の手記などを使用する。相撲の 300 年をカバーするために、各章は時系列順に並べてある。書籍の構成は大まかに、前半で江戸期から高度経済成長期まで、後半で高度経済成長期後の外国出身力士の流入によるグローバル化時代を取り上げる。
各章にはコーヒーブレイクのために「相撲コラム」を挿入し、相撲界の人間模様に目を向ける。本書執筆時に私はイタリアに居住していた。なので、「コラム」では比較文明的視点から観察した相撲の姿も素描する。
「経済学者による、経済学者のための」分析が目的ではない。目指したのは、各時代の相撲界を取り巻く空気感を味わいつつ、多様な読者と共に大相撲 300 年を旅することだ。週末や祭日の午後などに気軽に大相撲 30 0 年の旅に出てみませんか? 読後はたぶん、両国の街を訪れるあなたがいるはず。
目次
- 第一部 近代日本の中の相撲
- 第1章 江戸から昭和へ、力士はどこからきたのか?—グローバル化は高度経済成長期から
- 1・1 江戸から明治へ/1・2 初土俵力士数の長期推移/1・3 農村の力自慢はなぜ東京へ向かったのか?/1・4 大相撲の集積化と江戸っ子力士/1・5 江戸っ子から道産子の時代へ/1・6 グローバル化の拡大プロセス
- 第2章 村一番の力自慢が、花の都へ向かった理由
- 2・1 江戸幕府に認められていた大阪相撲、京都相撲/2・2 明治維新のインパクトと相撲部屋の移動/2・3 産業構造の変化と「力士」志願者の増加/2・4 出稼ぎ少年の野望/2・5 相撲部屋のインセンティブ/2・6 相撲産業の集積化/2・7 東京から離れた地域からは入門者が少ないのか?/2・8 力士の大移動
- 第3章 力士の「ヤル気」と生涯成績
- 3・1 地方出身力士の「ヤル気」/3・2 故郷の特徴と力士パフォーマンス/3・3 なぜ道産子力士は一流だったのか?
- 第4章 力士志望者の職探しと天候不順、地縁ネットワーク
- 4・1 相撲界の地縁ネットワーク/4・2 高度経済成長期の「金の卵」の相撲界入門動機/4・3 相撲界における絆の役割
- 第5章 弁慶と牛若丸の相撲
- 5・1 力士人気の数値化/5・2 相撲界にスーパースター効果はあったのか?/5・3 大きな力士は人気者?/5・4 相撲界の環境変化とテレビの普及/5・5 テレビ普及が力士の人気度に及ぼす影響/5・6 力士の多様性の意義
- 第1章 江戸から昭和へ、力士はどこからきたのか?—グローバル化は高度経済成長期から
- 第二部 グローバル化の本格化
- 第6章 傍流親方が構築する国際労働ネットワーク—掟破と「創造的破壊」
- 6・1 戦後の相撲とベースボールの意外な接点/6・2 親方の特性と海外労働ネットワークの形成/6・3 創造的破壊が作る絆/6・4 「企業家」としての前田山と朝青龍
- 第7章 体が資本とは言うけれど—グローバル化の帰結と怪我の増加
- 7・1 双葉山と大鵬、どちらが大きい?/7・2 巨体力士の参入効果/7・3 日本人力士と外国出身力士の比較/7・4 力士の体格変化を検証する
- 第8章 社会主義崩壊と相撲界の「グローバル化」
- 8・1 外国出身力士の存在感/8・2 外国出身力士の内訳と特徴/8・3 社会主義の崩壊と力士の流入/8・4 グローバル労働力移動の検証/8・5 不完全な市場を補う、グローバル人材ネットワーク
- 第9章 外国出身力士の所属部屋のパフォーマンス
- 9・1 相撲部屋にとっての外国出身力士の受入れ/9・2 幕内力士比率の出身地比較/9・3 各国出身比率が部屋の幕内比率に及ぼす影響/9・4 大相撲とプロスポーツ市場の比較検討
- 第10章 大相撲の昇進の仕組み
- 10・1 ピラミッド型序列:「アマチュア以上プロ未満の力士」/10・2 相撲界の勢力図/10・3 最高峰における力士の特徴/10・4 横綱になりそこなった「小錦」は差別されたのか?
- 第11章 大相撲ルネッサンスと日本人力士
- 11・1 外国出身力士の人数制限の経緯/11・2 規範の役割/11・3 「品格」要件の合理性/11・4 市場メカニズムと「筋書きある」闘いの合理性/11・5 公傷制度廃止、八百長の排除の帰結としての戦略的休場/11・6 制度変化と日本vs外国出身力士パフォーマンス
- 第12章 市場競争のグローバル化と「生ける文化財」としての「相撲の品格」
- 12・1 実は江戸末期にグローバル化は始まっていた/12・2 道産子力士はどこに消えた?/12・3 グローバル市場の中の「生ける文化財」の価値/12・4 相撲の「質」が維持されるシナリオ/12・5 グローバル化と「生ける文化財」の価値
- 第6章 傍流親方が構築する国際労働ネットワーク—掟破と「創造的破壊」
- 《相撲コラム》
- 両国の磁場
- 力士はなぜセクシーなのか?
- 二代目若乃花のバツイチ体験
- Netflix「サンクチュアリ」:昭和の相撲界のファンタジー
- 「柔よく剛を制す」:大相撲と旧約聖書
- 化粧廻しの楽しみ方
- 大相撲の魂と食生活
- 双羽黒の実像と永遠の愛
- 「おかみさん」の眼差し
- 九州男児の「慈しみ」:魁皇、千代大海
- 寺尾関の面影
- 「日本の相撲」と「イタリアのオペラ」
書誌情報など
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- 『経済学で読み解く大相撲 300 年史—本所、そして両国の磁場』
- 著:山村英司
- 紙の書籍
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定価:税込 2640 円(本体価格 2400 円)
- 発刊年月:2025年1月
- ISBN:978-4-535-54096-5
- 判型:四六判
- ページ数:272ページ
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