『ビジネス・エコノミクス』(著:石川竜一郎)
はじめに
21 世紀初頭における情報通信技術の進歩は,私たちの日常生活や経済活動のあり方を根本から変えました.とりわけ,スマートフォンの普及,クラウドサービス, SNS, AI (人工知能) ,そしてプラットフォーム型ビジネスの拡大は,「経済価値はどこで生まれ,企業はそれをどのように維持しているのか」という基本的な問いを,改めて私たちに突きつけています.
消費者の観点からは,無料あるいは安価で提供されるサービスを基盤として,世界規模の経済圏が形成されています.検索エンジン, SNS,動画配信,生成 AI といったサービスは,無料で利用できるサービスであるにもかかわらず,巨大な付加価値と影響力を生み出しています.こうした現象は一見すると,従来の経済学の枠組みでは捉えきれない「新しい経済」に見えるかもしれません.
では,デジタル化・ AI 化・プラットフォーム化が進む現代の経済を理解するためには,まったく新しい経済学が必要なのでしょうか.
本書の立場は明確で,答えは NO です.
現代のビジネスを理解するために必要な理論の多くは, 20 世紀に確立されたミクロ経済学で十分に提供されています.したがって重要なのは,新しい理論や概念を持ち込む前に,既存の経済学的な考え方によって,現代のビジネスモデルをどこまで読み解くことができるのかを丁寧に考えてみることです.
本書では,トヨタやユニクロに代表される製造業・小売業から, GAFAM を中心とするデジタル・プラットフォームやネットワーク型サービスに至るまで,現代の企業社会を象徴する多様なビジネスケースを取り上げ,企業行動を経済学の視点から読み解いていきます.そこで中心となるのは,「なぜそのビジネスモデルが成立するのか」「どのような条件のもとで企業が競争戦略を策定しているのか」「どのような制約が企業の意思決定を方向づけるのか」という問いです.本書は,こうした問いに答えるために,ミクロ経済学の基本的な考え方を学びながら,現実の企業と市場の関係を考察する力を身につけていきます.
近年では,初学者向けに書かれたわかりやすい経済学の教科書が数多く存在します.しかし,理論を理解することと,それを現実のビジネス分析に結びつけることとのあいだには,なお小さくない距離があります.筆者自身も学生時代,経済学の論理は理解しているつもりでも,それを用いて現実の企業行動をどのように分析すればよいのか,戸惑うことが少なくありませんでした.
そこで本書では,発想を少し転換し,具体的なビジネスモデルを起点として,それを分析するための視点を養い,そのうえで必要となる経済学のトピックを学んでいく構成にしました.すなわち,理論を先に学んでからあとで応用を考えるのではなく,現実の企業行動に触れながら,その背後にある経済学の論理を理解していくことを目指しています.特に重視したのは,以下の点です.
- 企業の費用: 費用構造の違いが販売戦略や企業間競争に与える影響.特に,デジタル技術の普及による固定費縮小の影響.
- 市場構造: 価格支配力とライバル企業の有無が企業の意思決定に与える影響.
- 企業組織と経済活動: 企業組織内の雇用契約の違いが,労働者の意思決定に与える影響.
これらを通じて,読者がビジネスや経済現象を分析する際の視点を提供します.ビジネス・エコノミクスがどのような分析の切り口や枠組みを提示しているのか,さらにそれらを現実のビジネス分析にどのように応用できるのかを,読者の皆さんに身につけていただければと思います.
本書の構成:
本書は,これまで経済学を学んだことのない初学者に向けて書かれています.予備知識は必要ありません.経済学に関心を持つ読者が,現実のビジネスから離れない形で学べるよう,具体的なビジネスケースを重視して説明しています.
本書は四部で構成されています.
第 I 部では,ビジネスを分析するための経済学的視点の基礎を学びます.ここでは,分析するうえで欠かせない「顧客行動」を説明するとともに,企業理論の根幹となる生産技術と費用構造の関係を扱います.特に本書では,生産技術を,ものづくりに典型的な収穫逓減技術と,テックビジネスに典型的な収穫逓増技術とに分けて説明します.入門レベルの教科書で収穫逓増技術を扱うものは多くありませんが, Google のようなテック企業をはじめとして,情報技術 (IT) を活用する企業の行動を理解するためには,この視点が不可欠です.
第 II 部では,第 I 部で整理した生産技術の違いを踏まえ,企業の生産活動と市場取引との関係を分析します.異なる生産技術をもつ企業が市場に参加するとき,価格支配力の有無が企業の意思決定にどのような影響を与えるのかを学びます.言い換えれば,企業の技術的特徴と市場構造のあり方が,価格設定や生産量の選択にどのような差異を生むのかを考えていきます.
第 III 部では,テック企業の分析をさらに深めます.とりわけ,異なる市場構造のもとで企業行動がどのように変化するのかを検討し,あわせてプラットフォーム型ビジネスの基礎をなすネットワーク効果やマッチングの問題も分析します.現代のテック企業を理解するうえで重要な論点を,経済学の枠組みで位置づけることが第 III 部の目的です.
第 IV 部では,市場取引とは異なる「企業組織」と,その内部での活動に焦点を移します.ここでは企業と市場の境界,そしてブラックボックスとされてきた企業内部の経済活動を分析します.特に,企業が外部から資材や中間財を調達する「垂直的取引」と,それを自社の内部に取り込む「垂直的統合」という二つの形態を取り上げ,企業の境界の違いがどのような効果をもたらすのかを考えます.また,近年進展している「契約理論」も扱い,企業内における雇用主と従業員の関係を経済学的に分析します.
本書の使い方 (講義で採用される教員の方々に向けて):
本書は「企業の経済学」や「ビジネス・エコノミクス」はもちろん,「ミクロ経済学」や「産業組織論」の入門講義にも対応する内容となっており,近年研究が進展している「契約理論」についても,後半で扱っています.通常のミクロ経済学よりも企業の視点をやや強調しながら,ビジネスケースの分析にミクロ経済学がどのように役立つのかを実感できるように書かれています.通常の教科書とは異なる章立てに見えるかもしれませんが,基本的な内容を一通り含んでいます.ただし企業の視点を強調している関係から,公共経済学についてはほとんどページを割いていません.一方で,企業の経済活動に関わる契約理論や情報の経済学にもふれています.
本書は 11 章構成ですが,筆者が (期末テストを除く) 半期 13 回もしくは 14 回で行った講義で用いた内容です.講義で強調したいトピックに応じて,各章を 2 回~3 回に分割することで,半期で教えるのに適した分量になります.たとえば以下の章は 2 回に分けて教えると,学生の理解が深まります.
- 第 2 章:効用最大化 (第 2.1 節–第 2.3 節) と需要関数の性質 (第 2.4 節–2.7 節)
- 第 4 章:利潤最大化 (第 4.1 節–第 4.3 節) と市場供給 (第 4.4 節–第 4.6 節)
- 第 7 章:寡占市場 (第 7.1 節–第 7.3 節) と製品差別化 (第 7.4 節–第 7.6 節)
- 第 8 章:収穫逓増技術 (第 8.1 節–第 8.4 節) と需要側の収穫逓増 (第 8.5 節–第 8.7 節)
また,講義で使用するためのスライドも用意しました.スライドのファイルは,日本評論社の HP からダウンロード可能です.
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/9787.html
本書では数学を最小限にするために,限界費用等を求めるのに微分を一切用いていません.一方で,筆者の講義では,冗長な式変形を省略するために,簡単な微分の説明をして講義を行ったこともあります.実際, $$y = f (x) = ax^n \text{ ($a, n$は正の整数) の微分は }\quad f'(x) = nax^{n-1}$$ を公式として説明するだけで,本書で用いる数学として十分です.受講者の数学のレベルや教員が目指したいレベルに応じて,調整いただければと思います.
本書の作成にあたって:
本書は,筑波大学大学院システム情報工学研究科の旧・経営・政策科学専攻において開講されていた「ミクロエコノミックス」の講義ノートを基礎とし,『経済セミナー』 2012 年 4 ・ 5 月号から 2013 年 2 ・ 3 月号にかけて連載した「ケースで学ぶビジネス・エコノミクス」を大幅に加筆・再構成して完成させたものです.
とりわけ加筆部分については,非常勤講師として担当している学習院大学経済学部経営学科「ビジネス・エコノミクス II 」の講義ノートをもとに,内容の充実を図りました.これらの講義に参加し,活発な質疑応答を通じて本書の内容を磨き上げてくれた学生諸君に,心より感謝いたします.
また,本書の編集を担当してくださった小西ふき子さん,ならびに,連載当時には大学院の後輩としてコメントを寄せてくださり,本書の出版に際しては編集にも携わってくださった道中真紀さんには,原稿を丁寧にお読みいただき,多くの有益なコメントを賜りました.連載終了後十年以上にわたり,筆者の遅筆を辛抱強く待ち,励まし続けてくださったことに,心より感謝申し上げます.
連載当時に筑波大学の私の研究室に所属していた鈴木裕雄さんと上圷宏史さん,ならびに早稲田大学で私の研究室に在籍している管野友己さんやゼミに参加していた井上真さん,峰尾陽向さん,林顔馨さんからも,本書の初稿に貴重なコメントをいただきました.加えて,本書をより実践的な内容とするために,古澤剛さんより的確な助言を頂戴しました.ここに記して,心より御礼申し上げます.
最後に,大学生だった私に,経済学の魅力とその基礎を一から教えてくださった恩師・廣田正義先生に,本書を捧げます.先生から学んだ,物事の本質を問い続ける姿勢は,本書の底流をなしています.
目次
- 第I部 ビジネスを読み解く経済学の眼
- 第1章 経済学は役に立つのか?
- 第2章 顧客の購買行動:顧客の好みと価格戦略
- 第3章 ものづくり企業の技術構造:技術と費用の関係
- 第II部 市場構造に切り込む経済学の力
- 第4章 企業の価格支配力と市場構造:独占市場と完全競争市場
- 第5章 企業の価格戦略:価格差別のビジネス
- 第6章 ブランド企業の経済学:独占的競争の理論
- 第7章 戦略的行動の経済学:ゲーム理論による寡占市場分析
- 第III部 テックビジネスに食い込む経済学の手腕
- 第8章 フリー経済学:限界費用ゼロ型技術と価格支配力
- 第9章 プラットフォームの経済学:市場をつなぐ企業の分析
- 第IV部 組織に忍び込む経済学の底力
- 第10章 企業の境界:市場と組織のあいだ
- 第11章 契約理論入門:ジョブ型 vs. メンバーシップ型
書誌情報など
- ビジネス・エコノミクス
- 著:石川竜一郎
- 紙の書籍
- 定価:税込 2750 円(本体価格 2500 円)
- 発刊年月:2026 年 8 月
- ISBN:978-4-535-54142-9
- 判型:A5判
- ページ数:280 ページ
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関連情報
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