『トラウマインフォームドシステム — 支援者と子どもを支える安全な組織づくり』(編:野坂祐子)
はじめに
トラウマの視点を踏まえて関わるトラウマインフォームドケア(Trauma Informed Care:TIC)の有用性が広く認識されるようになり,さまざまな現場での活用が進んでいる。TIC とは,「トラウマのメガネをかける」という比喩で表されるように,人々の言動を「トラウマの影響があるかもしれない」という可能性を踏まえて理解し,叱責や非難,誤解や見逃しといった支援者の対応によって当事者の傷つきをさらに深める再トラウマ化を防ぎながら,適切なケアを行うものである。再トラウマ化は,トラウマをかかえる人に「また裏切られた」という悲しみや怒りを生じさせ,絶望感を深めるだけでなく,支援者にとっても,悪化していく支援関係のなかで無力感をつのらせる要因になる。その結果,支援の悪循環が生じやすくなる。
従来,トラウマの影響による行動化は「問題行動」とみなされ,個人の気質や特性に起因するものと解釈されてきた。当人が責任を負うべきだとされ,罰則や制限が課されることも少なくなかった。あるいは,過剰適応のような迎合反応は「問題のない状態」として見逃されてしまい,社会的に望ましい態度としてより強化され,個人の生きづらさは軽視されてきた。こうした状況に対して,「どこが悪いのか」から「何があったのか(何が起きているのか)」という視点への転換は,「トラウマを無視した対応(Trauma Denied Care)」から「トラウマを理解した対応(Trauma Informed Care)」への移行を意味する。それは,対人援助の方針や対応の見直しにとどまらず,社会システム全体の変革へとつながるものである。
「トラウマのメガネ」を活用することで,あらゆる人々や支援の関係性に「何が起きているのか」というまなざしを向け,トラウマがもたらす影響への「解像度を上げる」ことができる。これは,支援の質を高めるだけでなく,トラウマをかかえる人々が支援者や周囲の人々と共にトラウマの否認や回避に向き合い,一人でおそれに耐え続けなくてもよいという生き方への転換をもたらす。同時に,それは,そうしたおそれを一人でかかえさせないという社会のあり方への転機ともなる。トラウマというこころの傷をどのように扱うかは,コミュニティや社会のあり方を映し出している。対人援助を中心にさまざまな領域で TIC の導入が進められている一方で,このアプローチへの新たな疑念や抵抗も生じているように感じられる。TIC は高度に専門的な概念ではないが,トラウマに対するおそれや忌避感はすぐに拭えるものではない。また,トラウマのみに注目するわけではなく,包括的なアセスメントが求められる。心理教育の資材は増えているものの,効果的に活用するには臨床的な力量が問われる。さらに,トラウマの影響が理解できたとしても,対処していくのは至難の業である。それでもなお,TIC に取り組もうとすれば,従来のやり方を重視する同僚や他機関とのあいだに溝が生まれ,認識のずれから話がかみあわなくなることもある。孤軍奮闘の状況のなかで,支援者自身の意欲や気力がそがれていくことも少なくない――「TIC なんて理想論にすぎない」と。
TIC への期待の高さに反して,現場への導入がたやすく進まないのは,TIC が従来の支援モデルのオプション(追加機能)ではなく,支援や組織のあり方そのものを変えるパラダイムシフト(枠組みの転換)であるからだ。ぬかるんだ地盤のうえに TIC という新たなアプローチを「建て増し」しても,安全で快適な「家(組織)」はできない。TIC の実装化を進めるにあたっては,職員の意識や知識の向上にとどまらず,組織(システム)そのものをトラウマインフォームドにする視点,すなわちトラウマインフォームドシステム(Trauma Informed System:TIS)の視点が求められる。
システムとは,複数の要素が集まり,特定の目的に向かって全体として機能する仕組みをいう。対人援助の現場(組織)は,法的・制度的に位置づけられた機関に,多様な立場や職能の職員が集まり,目的や方針に沿って動いている「生態系」といえる。「生き物」としての組織は,「部品」を取り替えれば新しくなるようなものではない。一部を動かしても変化が生じないこともあれば,逆に,わずかな変化が全体に波及し,組織全体の機能停止を招くこともある。組織をシステムとして捉え,かつ,トラウマインフォームドな職場を実現するには,個人に着目する TIC とは異なる視点や工夫が求められる。多彩な人材や資源を内包する組織が一体となって TIC に取り組むには,その原則を再認識したうえで,TIS という概念から捉える必要がある。
そのため本書では,個人がかかえるトラウマの理解にとどまらず,システムを構成する支援者と組織の傷つき,そして変化の可能性に着目する。支援者は,対象者との関わりによって傷つくだけでなく,トラウマティックな組織のなかで消耗していく。本来,支援の現場は,トラウマをかかえた人が回復するための安全なサンクチュアリ(安全で安心な場)であるはずである。しかし,支援者自身が同僚や組織に守られず,批判や評価をおそれて他者に頼ることができず,失敗の責任を押しつけられ,率直な意見や提案が受け入れられず,弱音を吐くことさえ許されないのであれば,それは暴力的で抑圧的な価値観や文化を再演するものといえる。このような状況は,管理職や個々の職員の責任ではなく,システム全体の問題として捉えられるべきである。支援者が安全に,安心して働ける環境を目指す TIS は,TIC 実践を進めるうえでの大前提となる。
本書の第Ⅰ部「概論――トラウマインフォームドな組織とは」では,編者(野坂)が TIS の考え方を整理し,主に児童福祉領域の現場での協働から見えてきた現状と課題を述べる。TIC に関心のある支援者は確実に増えており,臨床実践も積み重ねられている。しかし,多くの熱心な支援者が「職場がつらい」「仲間がいない」「取り組みが継続されない」といった悩みを口にしているのも事実である。組織が変わらないまま,TIC の「建て増し」を続けることの限界は目前に迫っているように思われる。TISの観点から組織を捉えなおし,トラウマの影響を考慮しながら方針に基づいて対応を行うことで,支援者が生き延びる道が開けるのではないか。
第Ⅱ部は「実践編――さまざまな領域での挑戦」とし,児童福祉領域を中心に,医療機関や学校,さらに子どもと同じく社会のなかで周辺化されている障がい者や女性の福祉についても取り上げた。いずれも日本において先進的な取り組み,もしくは挑戦的な活動であり,これから TIC に取り組もうとするさまざまな現場に役立てられるだろう。これらの実践は,TIS の「正解」を示すものではない。むしろ,苦難のなかで模索されてきた実践の軌跡というべきものであり,どの章からも,過重で困難な業務に向き合う支援者の切実な声が伝わってくる。しかし,そのような状況にあっても,トラウマをかかえる子どもや人々の痛みに思いを寄せながら,執筆者たちは仲間をつくり,創造力を発揮させ,ときにユーモアを交えて前向きに実践を続けている。同じように日々奮闘している支援者にとって,本書がそれぞれの現場における最初の一歩,もしくは取り組みの継続を後押しするものとなれば幸いである。
また,TIS の萌芽的取り組みや実践者の思いをコラムで紹介している。TIS の理念や価値観を共有しながらも,執筆者の持ち味や切れ味は多様であり,支援や教育のさらなる可能性を感じる。本書を通して,さまざまな読み手との TIS をめぐる対話が広がることを期待したい。
目次
【第Ⅰ部 概論――トラウマインフォームドな組織とは ……野坂祐子】
第 1 章 トラウマインフォームドケアの基本
第 2 章 トラウマが支援者と組織に与える影響
第 3 章 安全・安心な組織をつくる――トラウマインフォームドシステムの実装に向けて
【第Ⅱ部 実践編――さまざまな領域での挑戦】
第 4 章 支援者はトラウマインフォームドケアで何を見るか――みずからに気づき,仲間とつながり,組織に広げる ……辻野琢也
第 5 章 だれも触れないボールは転がってくるものである――“問題行動”の背景 ……奥野美和子
第 6 章 傷ついた組織に気づく,安全な組織をつくる――「高知県 気づくとできてた けもの(TIC)道」 ……宗光加代
第 7 章 対話が安全をはぐくむ――大分県でのトラウマインフォームドな組織づくり ……佐藤慎也
第 8 章 思春期病棟でのトラウマインフォームドなチーム支援 ……岩垂喜貴
第 9 章 職員室を教員の避難所に――教員にとっての安全な学校づくり ……長澤良作
第 10 章 障がい福祉実践におけるトラウマインフォームドケア――二次受傷と支援をめぐる沈黙・再演・そして希望 ……松岡由美
第 11 章 こころと生活をつなぐ――心理職と生活支援職との協働 ……高田紗英子
第 12 章 困難な問題を抱える女性への支援――周辺化された分野における安全な組織づくり ……浅野恭子
第 13 章 会議が「自分たちと子どもを守る場」になる――若手職員と中堅職員のピアサポートガイド ……吉村拓美
[コラム 1]子どもの命,そして,家族を支える児相職員を守りたい ……北千恵
[コラム 2]教員が癒され合う関係が,生徒を支える ……松澤佳子
[コラム 3]児童相談所で直面するトラウマと喪失 ……坂田香織
[コラム 4]LIFE GOES ON――トラウマに圧倒されず日々の生活を支援する ……高下洋之
[コラム 5]なぜ支援はすれちがう? ……坂東希
[コラム 6]学校のなかで小さくつながる ……大澤功
[コラム 7]トラウマインフォームドな発達支援を目指して ……宮野原勇斗
[コラム 8]養護教諭にできる安全な学校づくり ……菊池美奈子
[コラム 9]トラウマへの態度を自己覚知し,安全な組織をつくる ……吉田博美
書誌情報
- 野坂 祐子 編
- 紙の書籍
- 定価:税込 3,080 円(本体価格 2,800 円)
- 発刊年月:2026 年 6 月
- ISBN:978-4-535-56446-6
- 判型:A5 判
- ページ数:288 ページ
- 日本評論社で紙の本を購入
- Amazonで紙の書籍を購入
- 楽天ブックスで購入
- セブンネットショッピングで購入
- Amazon kindle 版
関連情報
出版記念ウェブセミナー「どうする?トラウマまみれの支援者と組織のケア」

日時:2026年7月4日(土)15:00~17:00
定員:500人(Zoomウェビナー使用)
参加費:オンライン参加(アーカイブ視聴込み)2,000円(税込)















