『分断と反知性主義のアメリカ — 知性の敗北と再建の政治経済学』(著:廣光俊昭)
はじめに
ベセスダ宣言 — 学問の自由と卓越した科学の実現という約束を、国立衛生研究所 (NIH) および保健福祉省 (HHS) の指導部が果たすことを求めて
バタチャリヤ博士殿
国立衛生研究所全体の職員として、我々は、国立衛生研究所の使命を損ない、公的資源を浪費し、アメリカ国民および世界の人々の健康を害する政権の政策に対して異議を唱えます。国立衛生研究所を生物医学研究の最前線にとどめるためには、我々自身が不断の改善に強い責任感を持つ必要があります。しかし、我々の仕事は人命に関わるものであり、変更は慎重に検討され、十分な審査を経る必要があります。我々の指導部が、人命の安全や公的資源の誠実な管理よりも政治的動機を優先する場合、声を上げざるを得ません。 (以下略)
研究者は、政治の舞台に立つつもりで研究をはじめるわけではない。それでも、政治が研究の側に踏み込んでくる局面がある。
2025 年 6 月、国立衛生研究所の職員 92 名 (科学者、プログラムディレクター、部門長、審査官など) が署名し、さらに 250 名が匿名で支持した公開書簡『ベセスダ宣言』が発表された (AP, 2025) 。書簡はトランプ政権下で国立衛生研究所長に任命されたジェイ・バタチャリヤに宛てられ、助成金の停止などの研究への政治的圧迫を訴えた。職員たちは健康格差に関する研究のほか、ワクチン関連の研究などが停止されたと主張した。
ある署名者は記者会見でこう語っている (AP, 2025) 。
子どもたちに読み聞かせる本に、『怖くなければ、それは勇気とは言えない』という一節があります。私は今回の行動が本当に怖い。でも、子どもたちのために勇気を出そうとしています。これから先、声を上げるのはもっと難しくなるでしょう。もしかすると、このことで自分の子どもたちを危険にさらしているのかもしれない。それでも、黙っている自分を許せないのです。
本書の問いは単純である。
なぜ、知は民主主義のなかで敗れるのか。
そして、それでもなお、知は何をなしうるのか。
本書の答えは次の通りである。
分断と反知性主義は、愚かさではない。
それは「分かりやすさ均衡」という政治的均衡である。
だから対処方法は啓蒙ではない。必要なのは制度である。
本書はその制度を「知の公共化回路」と呼ぶ。
その回路は、診断 → 翻訳 → 比較 → 選択 → 検証 → 学習という、六つの過程からなる。
知の役割は、この回路を通じて、対立する利害と価値のあいだにある制約条件とトレードオフを可視化し、民主主義のなかで選択可能な形に構造化することである。
アメリカは深い分断のなかにある。
それは一時的な政治的対立ではない。民主主義の作動基盤そのものが揺らぐ事態である。
この状況を象徴する出来事として挙げられるのが、 2025 年 1 月に発足した第二次トランプ政権である。しかし重要なのは、この政権が誕生したという事実そのものではない。むしろ注目すべきことは、それが国民的な「合意」や「連帯」の雰囲気のなかで成立した政権ではなかったという点である。世論調査で支持と不支持が拮抗するだけでなく、評価は「強い賛否」へと鋭く分裂した (Pew Research Center, 2025a) 。この政権は分断を収束させる政権というより、「どちらの側に立つのか」という踏み絵を有権者に突きつける政治の上に成立した。
もっとも、アメリカ政治が激しい対立とともにあるのははじめてのことではない。
我々は同じ原則を奉じる兄弟であるのに、ただ名を異にしているにすぎない。われわれはみな共和党員であり、みな連邦党員である。
1801 年、激しい選挙戦の末に第三代大統領に就任したトーマス・ジェファーソンは、その就任演説でこう呼びかけた。対立の存在を認めながらも、それでもなお共和国の統一を言葉によって再確認する — それがアメリカ政治の古典的な作法であった。
しかし今日、この作法はかつてほど自明ではない。
近年の世論調査では、自分を「代表してくれている」と感じる政党がないと答える有権者が 4 分の 1 に達し、共和党支持者と民主党支持者が互いを「自分の価値観を脅かす存在」とみなす度合いを強めている (Pew Research Center, 2025b) 。党派を超えて共有される「アメリカ」という想像の共同体は、以前ほど確かなものではなくなっている。
さらに注意を要することは、この分断が単なる社会的な「空気」にとどまらず、統治の技術や制度設計のなかに書き込まれつつあることである。単純な物語が報われ、複雑な説明が罰せられるとき、社会はある種の均衡に落ち着く。本書はこれを「分かりやすさ均衡」と呼ぶ。この均衡のもとでは、分かりやすい物語は政治的報酬を得る一方で、複雑な分析や専門知は不利な位置に置かれる。官僚機構や大学、メディアといった制度は、「国民の意思に背くエリート」として疑いの対象となる。
本書でいう反知性主義とは、専門知の内容そのものへの反発ではない。専門知が公共的意思決定に関与する正統性を疑う政治的態度である。
本書の関心は、こうした現象を単なる病理として断罪することにはない。むしろ、その背後にある社会のロジックを理解し、より良い社会の仕組みを考えることにある。そのとき必要となるのが、社会を理解し選択肢を示すための知の視点である。この知は、正誤を裁く裁判官ではない。価値判断を超越した最終的真理の供給者でもない。それは対立する利害と価値のあいだに潜む制約条件とトレードオフを可視化し、選択肢を構造化する診断と設計の営みである。分断の時代において知が果たしうる役割は、勝敗を決めることではない。対立を制度のなかに翻訳し、民主主義が前に進むための回路を設計することである。
日本の読者にとって、本書で描かれるアメリカの姿は遠い国の特殊な物語ではない。日本でもまた、人口減少、生活不安、専門家への不信といった文脈のなかで、分断と反知性主義と同型の力学が潜んでいる。ただし日本では、対立が鋭く露わになるよりも、争点が衝突に至る前に曖昧に「溶ける」。アメリカが火花を散らす「知の摩擦」の現場だとすれば、日本は知性が砂のように崩れ落ちる「知の溶融」の現場である。本書はこの現象を「無知性主義」と呼ぶ。
分断と反知性主義が広がる時代に必要なのは、上からの啓蒙でも、単一の正しさの押しつけでもない。選択肢とトレードオフを可視化し、異なる利害を同じ地図の上に載せ、対立を抱えたままでも共同体が前に進む条件を組み立てることである。すなわち、知を民主主義のプロセスへ翻訳する制度 — 知の公共化回路が不可欠である。本書は、この回路がいかに壊れ、そしていかに再建されうるのかを探る試みである。
目次
- 第一章 分断と反知性主義の基礎 — 「分かりやすさ」が勝つ社会
- 1 分断 — 歴史とメカニズム
- 分断の三次元/分断のメカニズム
- 2 反知性主義 — 特殊アメリカ的な文脈
- リチャード・ホフスタッター/宗教復興運動/ジャクソニアン・デモクラシー/パラノイド・スタイル/ドナルド・トランプ
- 3 分かりやすさ均衡
- 我々は「部分均衡マシン」である/確率、時間、他者/「分かりやすさ均衡」
- 4 分断と反知性主義に寄り添う
- ラストベルトから出ていかない者は怠惰なのか/リベラルも科学も純粋ではない/オリジナルのポピュリスト/コラム1 「空洞化」として現れる日本の反知性主義
- 1 分断 — 歴史とメカニズム
- 第二章 コロナ期における公衆衛生対策と経済財政政策 — 専門知という名の「信頼財」
- 1 不信のなかの公衆衛生対策
- 世界で最も準備ができていた国のコロナ対策/実証分析からみえること — 信頼という構造条件/信頼と非薬理学的介入/感染症に潜む二つの部分均衡/コラム2 日本のコロナ対応は「成功」だったのか
- 2 専門知という信頼材
- 信頼財/不信は「愚かさ」ではなく構造的な帰結
- 3 遅れてくるインフレ
- 大規模経済対策/ミクロ経済学の成果 — 現在進行形のフィードバック/アメリカ救済計画という「過大な一押し」/財政インフレ、火消しに遅れた金融政策/マクロ経済の分かりやすさ均衡
- 4 完全雇用下の大幅赤字
- 予算制度の建付けと議会予算局(CBO)/積み上がる赤字と債務/「現実認識の分断」のもとでの財政悪化/議会予算局という「控えめな警鐘」
- 5 知の公共化回路 — 疾病予防管理センターと議会予算局
- 公衆衛生専門家はフロンティアを描く/経済政策におけるトレードオフ/「知の公共化回路」 — 土俵を作る、土俵を広く、懐深くする
- 1 不信のなかの公衆衛生対策
- 第三章 格差の正当化 — 顧みられない格差
- 1 「消えゆくアメリカン・ドリーム」
- 分配の上方集中/格差の決め手は事前分配/米欧で異なるオートメーションの帰結/アメリカン・ドリームの統計学
- 2 政治はいかに格差を見えなくするか — みせかけの再分配
- 共和党政権 — 三つの政治技法/バイデン — 再分配への厚い壁、事前分配の未成熟/コラム3・1 分配が政治になる瞬間
- 3 なぜ顧みられないのか — システム正当化理論
- パラドックス — 格差が広がると、福祉を求めなくなる/世界は概ね正しいという信念/格差が広がるほどメリトクラシーへの信念は強まる/制度の裏切り — アイビー・プラスへの入学の実態
- 4 処方箋 — 事前分配/再分配の二段構え
- 事前分配の方法論的成熟、社会保険としての再分配/機会の平等 — 競技場の平準化(level playing field)/AI仕様の事前分配/再分配/コラム3・2 数値化された価値をめぐる分断
- 1 「消えゆくアメリカン・ドリーム」
- 第四章 民主主義の「共有地」の枯渇 — 連帯という核心
- 1 アメリカ民主主義の現在地
- 侵食される民主主義/「重なり合うコンセンサス」への後退/さらなる後退?/後退の先は共同体なのか
- 2 言論の自由市場
- 二面市場モデル、公共財としての真理/レモン問題とSNS/コラム4・1 日本の言論市場/検閲ではない、三つの介入
- 3 二つのアプローチ — ルソーとマディソン
- ジャン=ジャック・ルソー — 鏡を磨く/ジェームズ・マディソン — 競争と抑制均衡
- 1 アメリカ民主主義の現在地
- 4 連帯 — 競争と討議を支える共有地
- 民主主義の共有地/熟議という回路/熟議の制度整備/カント的規範/アメリカ史からの希望/いま必要な連帯/コラム4・2 司法と分断
- 第五章 人類規模の危機 — 気候変動、AI、感染症
- 1 二つのガバナンスの欠如
- 脅威評価の出発点/気候変動 — 「知の生産」への攻撃/AI — 開発競争、人間との分業の空洞化/コラム5・1 「分からない」の政治学 — AIにみる日本の無知性主義/感染症 — 制度整備は進んでも信頼が傷ついたまま/問題は地理と時間
- 2 反知性主義との相克
- 人類規模の危機と向き合う三条件/共同体の拡張/倫理的射程の狭さ/システムへの判断対象の拡大/複雑なシステムへの無理解/不確実性の制度的処理/確実性への渇望/鏡像関係
- 3 危機の整理学
- 危機の三つの意味/政治運動としてのESG/危機の射程を問う — ジョセフ・ヒース/テールリスク、正義の問題/では、危機はあるのか
- 4 シングルトン
- 広く複雑な世界/科学と組織の力/シングルトンという思考実験/シングルトンの欠陥/グローバルな「知の公共化回路」/コラム5・2 科学者間のカント的協力
- 1 二つのガバナンスの欠如
- 第六章 日本への射程と結論
- 1 日本への射程
- 日本の無知性主義/コロナ禍 — 異時点間ガバナンスの欠如と「制度的記憶」の不在/格差 — 「二段構え」の未完成/日本の民主主義 — 日本版「知の公共化回路」の実装の必要性/人類規模の危機 — 媒介のミドルたりうるか
- 2 結論 — 知性の敗北と再建の政治経済学
- 3 結語
- 1 日本への射程
書誌情報など
- 分断と反知性主義のアメリカ— 知性の敗北と再建の政治経済学
- 著:廣光俊昭
- 紙の書籍
- 定価:税込 2640 円(本体価格 2400 円)
- 発刊年月:2026 年 6 月
- ISBN:978-4-535-54125-2
- 判型:四六判
- ページ数:280 ページ
- Amazon
- 紀伊国屋書店
- 丸善&ジュンク堂書店
- e-hon
- Honya Club
- 楽天ブックス
- セブンネットショッピング
- Knowledge Worker
関連情報
- 書評掲載案内
- 2026年8月8日付『日本経済新聞』29面にて掲載。「民主主義の挫折と処方箋」
- 2026年8月15日付『毎日新聞』9面にて掲載。「専門知に反する政策から学ぶ」評者:大竹文雄(大阪大学特任教授・経済学)
- 財務省・広報誌「ファイナンス」2026年8月号 ライブラリーにて掲載。評者:小林庸平(財務総合政策研究所総括主任研究官)https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/202608/pdf/202608i.pdf
- 『貿易と関税』2026年9月号 P53にて掲載。評者:高橋慶子(財務省関税局参事官・国際交渉担当)
- 『公研』2026年9月号P10-11にて掲載。評者:中尾武彦(国際経済戦略センター理事長)
- 『TOPPOINT(トップポイント)』2026年10月号にて掲載。https://www.toppoint.jp/library/20261001













