『実証ビジネス・エコノミクス』(著:上武康亮,遠山祐太,若森直樹,渡辺安虎)
はしがき
■「データ$\times$経済理論」で反実仮想を描く
新商品を導入する際、企業はどう価格付けをすべきだろうか? 事業拡大を進める際、企業はどの市場に参入すべきだろうか? これらはビジネスの現場でよく直面する重要な問いである。しかし、簡単に答えが出せるような問題ではないと感じる人が多いのではないだろうか。というのも、1 つ目の問いは、まず新商品導入による消費者行動の変化を捉えることが必要となるが、それに加えて、自社だけでなく競合他社の価格付けの変化も読まなければならないかもしれない。また 2 つ目の問いは、自社が新たに参入を考える市場の売上見込みなどを考慮する必要があるのはもちろん、競合企業の参入戦略をふまえて、どう参入すべきか、あるいは、参入自体を見合わせるべきか否かも考えなければならないかもしれない。このように、考慮すべきポイントが非常に多く、何から手を付けてよいか必ずしも明らかではないからだ。
ビジネスで直面するこうした複雑な要素が絡み合った状況で、未実施の施策の影響を定量化して評価するためには、仮にその施策が行われた場合にどうなるかを想定した「反実仮想分析」が必要となる。その際に有用となるのが、経済理論を活用したデータ分析である。これが、この本の内容の核となるテーマだ。筆者 4 人がこの本を執筆しようと考えたのは、経済学の「実証産業組織論」と呼ばれる分野において、この 30 年ほどで急速に開発されてきた反実仮想分析を可能とする一連のツール群を、より多くの人にわかりやすく届けたいという思いからである。詳しくは第 1 章で触れるが、われわれはこのツール群を「実証ビジネス・エコノミクス」と呼んでいる。
この「実証ビジネス・エコノミクス」は、アカデミックな研究だけでなく、ビジネス戦略や政策 (特に競争政策などの企業の意思決定に影響を与える政策) の立案・評価にも極めて有用である。事実、ビジネスの現場でこれらのツール群や後述する因果推論の手法の有用性にいち早く気が付いた Amazon をはじめとする米国のテック企業は、2010 年代からミクロ経済学者を多数雇用し始めた。日本でもこの流れを受け、一部のテック企業が経済学者を採用し始めた。そして、東京大学は 2020 年に東京大学エコノミックコンサルティング株式会社を設立し、企業や官庁向けにこれらのツール群を用いたコンサルティングを開始した。筆者 4 人も、アカデミックな研究に従事するだけでなく、企業や政府との共同研究や、東京大学エコノミックコンサルティング株式会社の案件で、これらのツール群を活用して反実仮想分析を行い、企業のビジネスや政府の政策に関する意思決定をサポートしてきた。
しかし残念なことに、これまでは、われわれが「実証ビジネス・エコノミクス」と呼ぶツール群の具体的なモデルや推定手法を体系的にまとめ、丁寧に解説した書籍は存在しなかった。そのため、これらの手法を身に付けたいと思う人の多くは、大学院の授業で論文を読み、コンピュータでコードを書きながら実地で身に付けるしかなかった。本書は、そうした実証ビジネス・エコノミクスのツール群を整理し、初学者はもちろん、実務でデータ分析に取り組む方々にも手に取りやすい形で提供することを目的としている。
■経済学における 2 つの実証分析アプローチ
経済学における実証分析のアプローチは、大きく 2 つに分けられる。1 つは経済理論を前提においた「構造推定アプローチ」、もう 1 つは経済理論は用いずに統計的手法によって変数間の関係を推定する「因果推論アプローチ」である。近年、どちらのアプローチもビジネスや政策の現場で活用されており、特に後者の因果推論アプローチに関しては、すでに入門書から専門書まで幅広い層に向けた書籍が多く出版されている。「A/B テスト (ランダム化比較実験)」「回帰不連続デザイン」「差の差法」といった手法を耳にしたことのある読者は少なくないのではないだろうか。これら因果推論アプローチの手法は、実際に行われた施策の効果を過去の観察データから因果的に捉えるために非常に有効である。しかし、現実に実験ができる環境は実際のところ限られており、未実施の施策の影響を測るには制約が多い。
本書では、前者の構造推定アプローチを取り上げる。この手法では、経済理論を用いて消費者や企業の直面するインセンティブ構造と意思決定をモデル化し、実際のデータを使ってその構造モデルを推定する。消費者については、その選好を効用関数で表し、消費者の行動を効用最大化問題として記述したうえで、このパラメターを推定する。企業については、その行動を利潤最大化問題として記述し、価格設定や製品戦略や広告などの意思決定がどのような利潤構造に基づいてなされているのかを推定する。さらに、税制 (エコカー減税や酒税) や規制 (酒類や医薬品の取り扱い免許を含む出店・販売規制や企業結合規制) といった企業にとって外的な要因も、ビジネス上の意思決定に影響を与える要素として理論モデルに組み込んで分析することができる。構造推定の最大の強みは、こうした理論モデルを用いることで、見えないもの見ようとする反実仮想的な分析を行うことができる点—すなわち「もし別の政策や施策がとられていたらどうなっていたか?」という問いに答えられる点—にある。たとえば、新商品の価格戦略や税制度の変更のように、現実には事前に実験できないようなケースを考えてみよう。このような場合でも、市場を描写する理論モデルを構築・推定し、異なる施策や制度を想定したシミュレーション分析を通じて、消費者や企業の行動変化を予測することができる。これは、ビジネス上の制約や倫理面での理由などから A/B テストなどの実験が困難な場面において、有用なアプローチとなる。
■本書の構成と読み方
本書では、主にビジネス上の課題への応用を想定した構造推定アプローチのアイデアと手法、すなわち「実証ビジネス・エコノミクス」のツール群について、基礎から順に積み上げながら解説していく。まず、離散選択問題から始め、続いてその応用として消費者の需要推定を解説したうえで、単一の主体 (シングルエージェント) の時間を通じた動学的な意思決定、静学ゲーム、そして最後に動学ゲームの推定を扱う。
本書の読み進めるうえでは、すべての章の議論が離散選択問題を発展させた形にとなるため、まずはイントロダクションである第 I 部の第 1 章と、第 2 章で導入する離散選択問題の基本的な部分から読み始めると理解しやすいだろう。その後の第 II 部の需要推定、第 III 部の動学的なシングルエージェントの意思決定、第 IV 部の静学ゲームについては、それぞれが独立した構成となっているため、関心の高い部から読み進めることができる。ただし、各部の中は基礎な内容を解説する章から発展的な内容を扱った章へと進むため、章の順番通りに読んでいくとよいだろう。また、第 V 部の動学ゲームについては、第 III 部および第 IV 部の第 9 章の内容をもとにして議論が進むため、この 2 つの部を先に読むことをお勧めする。
本編が始まる第 2 章以降のすべての章は、実際のビジネスで直面するさまざまな問題と、新米コンサルタントである「あなた」がその解決に向けて実証ビジネス・エコノミクスのツール群を駆使して奮闘するシーンを描いたストーリーからスタートする形で構成している。分析手法の詳細は本文で分析の実践例とともにじっくり解説するが、どのような問題を対象とし、どのように分析していくことができるのかは、各章の冒頭とむすび、および随所に配置されたストーリー部分を読むだけでも理解できるように工夫している。
加えて、各章で導入する分析の実践例は、これらを再現するためのデータとコードを本書のサポート GitHub) で提供している。実際に手を動かしてコーディングすることで初めて理解が明確になる部分も多いので、本書の解説とあわせて、ぜひコーディングにもチャレンジしてみてほしい。さらに、本書の本文では触れていないテクニカルな解説も、サポート GitHub でウェブ付録として公開しているので、必要に応じて参照していただきたい。
■前提知識
本書の主な読者は、データを用いて企業や消費者の行動を分析することに関心を持つ大学学部生や大学院生、研究者、実際に企業内部でさまざまなデータを用いて価格戦略やマーケティング等の分析に従事するデータ・サイエンティスト、競争当局をはじめ政府や公的部門で政策的な分析を行う政策エコノミストなどを想定している。もちろんそれ以外にも、幅広い関心を持つ方に手にとっていただければ著者としては嬉しく思う。本書を読み進めるための前提知識として、ミクロ経済学とゲーム理論に関しては、神取 (2014) やギボンズ (2020) を読了し、間接効用関数やベイジアン・ナッシュ均衡などの基本的な概念を理解していることを想定している。計量経済学に関しては、線形モデルに関する計量経済学 (線形回帰モデル、操作変数法、2 段階最小 2 乗法) および一般化モーメント法、最尤推定法などの非線形モデルの推定方法に関する理解が前提となる。不安がある読者は、西山他 (2019) や末石 (2015) を参照しながら本書を読み進めていくとよいだろう。産業組織論に関しては、特に前提知識は不要であり、必要に応じて本書の中で説明を加えている。参考になる産業組織理論の教科書としては、学部レベルでは花薗 (2018)、小田切 (2019)、明城・大西 (2022)、石橋 (2021)、大学院レベルでは Tirole (1988) や Vives (2000) が挙げられる。
■謝辞
本書は、『経済セミナー』で 2021 年 4・5 月号から 2023 年 6・7 月号まで、全 12 回にわたって行った連載がベースとなっている。本書の執筆にあたり、日本評論社の尾崎大輔さんには、同誌での連載から長期にわたりご尽力いただき、大きな内容の構成から書きぶりの細かな点まで議論に貢献いただき、著者の 1 人といってもまったく過言ではないほどにお世話になった。
本書内での分析例の計算、およびサポート GitHub で提供されているプログラムの作成では、五十嵐優一さん、石野有真さん、新比惠理志さん、哥丸連太朗さん、小磯慎士さん、塩田凌平さん、島本幸典さん、高倉一真さん、新田凜さん、牧野圭吾さん、箕輪創太さん、安田公大さん、山田雅広さん、山田渉生さん、渡辺了太さんにご尽力いただいた。また、鈴木瑞洋さんには連載時の内容について大変有益なコメントをいただいた。本書内の分析例で触れているデータの収集に関しては、楠井俊朗さんにお手伝いいただき、藤田光明さん (自動車)、橋本千代さん (MRI)、菅原慎矢さん (航空) にはデータをご提供いただいた。
また、渡辺研究室の黒谷美和さんには事務手続きをお手伝いいただいた。これらの方々に心から感謝したい。
2025 年 7 月
目次
- 第 I 部 イントロダクション
- 第 1 章 実証ビジネス・エコノミクスとは
- 第 2 章 消費者の購買パターンを浮き彫りにする:個票データを用いた離散選択モデルの推定
- 第 II 部 需要の推定
- 第 3 章 需要を制する者はプライシングを制す
- 第 4 章 プライシングの真髄は代替性にあり
- 第 5 章 合併の効果は需要次第
- 第 III 部 動学的なシングルエージェントの意思決定
- 第 6 章 将来予想のインパクトを測る
- 第 7 章 価格戦略をダイナミックに考える
- 第 IV 部 静学ゲームの推定
- 第 8 章 参入すべきか否か,カギは戦略的思考にあり
- 第 9 章 未知のライバルの行動を捉える
- 第 V 部 動学ゲームの推定
- 第 10 章 相手の将来の行動を読んで競争優位につなげる
- 第 11 章 市場のダイナミクスから利益構造を見通す
書誌情報など
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- 『実証ビジネス・エコノミクス』
- 著:上武康亮,遠山祐太,若森直樹,渡辺安虎
- 紙の書籍
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定価:税込 2970 円(本体価格 2700 円)
- 発刊年月:2025 年 12 月
- ISBN:978-4-535-54081-1
- 判型:A5 判
- ページ数:304 ページ
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サポートサイト
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