(第15回)「渋谷重次郎」か「渋谷重蔵」か

渋谷重蔵は冤罪か?―19世紀、アメリカで電気椅子にかけられた日本人(村井敏邦)| 2019.11.26
日本開国から24年、明治の華やかな文明開化の裏側で、電気椅子の露と消えた男がいた。それはどんな事件だったのか。「ジュージロ」の法廷での主張は。当時の日本政府の対応は。ニューヨーク州公文書館に残る裁判資料を読み解きながら、かの地で電気椅子で処刑された日本人「渋谷重蔵」の事件と裁判がいま明らかになる。

(毎月下旬更新予定)

「渋谷重蔵」の名前問題

この連載には、「渋谷重蔵は冤罪か?」というタイトルが付けられている。当時の読売新聞に従った結果である。筆者は、かつて「電気椅子で処刑された最初の日本人」と題した文章を書いた(株式会社教育システム発行「BAN」2009年9月号)が、その中では、処刑された日本人の名前は、「渋谷重次郎」としていた。この連載の書き出しも、「Jugiro」とした。

しかし、読売新聞1890年1月25日号の記事に接した結果、本連載の主人公の名前を「重蔵」とすることにした。そのことについては、第1回の記事を参照していただきたい。上記の読売新聞の記事は、かなり詳しく電気椅子での処刑を宣告された日本人について紹介したうえで、名前を「神奈川縣高座郡茅崎村農渋谷武兵衛の二男重蔵」としていた。これをタイトルに採用したのである。この時点では、この人物の事件を扱ったニューヨーク州の裁判所の記述では、その名前を「Shihiok Jugigo」としていたし、日本語の資料がほとんどないという状態であった。

ところが、その後、外交史資料館に「重蔵」のパスポートが保管されていないかの調査に赴いたところ、すでに紹介した『神奈川縣平民渋谷重次郎謀殺罪ニヨリ「シンシン監獄」二於テ電気死刑ニ処分一件』(第12回参照)という綴が見つかった。そこでは、電気椅子で処刑された人物の名前は「渋谷重次郎」とされていた。これは、主としてニューヨーク領事藤井三郎によって日本国外務省宛に発信された公信に基づいていた。

この時点で、主人公の名前を「重蔵」から「重次郎」に変更することも考えた。しかし、まだ決め手がない。できれば、戸籍、少なくともパスポートで確認したい。そう思って、上記読売新聞の記事にある「重蔵」の出身地茅ヶ崎市役所に戸籍についての情報を得たいと連絡したが、残念ながら、プライバシーの観点から戸籍の閲覧、関連情報の提供を断られた。その他の手づるによる情報の取得もできなかった。

そこで残されたのは、パスポートからの情報である。

パスポートの発行情報は

「重蔵」ないし「重次郎」のパスポートはいつ、どこで発行されたのか。

パスポートがいつ、どこで発行されたかを知ることができれば、主人公が日本のどこから船に乗って、どのような経路でニューヨークに、いつニューヨークに到着したかということを、少なくとも推測することができる。

主人公は、法廷で地元の役所を通じて神戸市にパスポートの発行を申請して受けたと証言していた。パスポートは証拠として法廷に提出されたので、当初は、記録に綴られていたと思われる。しかし、現在閲覧のできる記録には、パスポートは編綴されていなかった。一旦、証拠として法廷に提出されたパスポートが刑の執行後に日本政府に返還されている可能性もある。

そこで、外交史資料館で保管されているパスボートの一覧表を丹念に調べてみた。法廷証言では、神戸市にパスポート申請が出されたことになっている。公信72号では、「神奈川縣高座郡茅ヶ崎村15番地当時兵庫縣神戸大字神戸三ノ宮五百九十八番地高橋末吉方寄留平民渋谷重次郎」となっている。パスポートの申請地は、神戸でまず間違いがないようだ。

また、事件が1889年11月10日であり、「重蔵」は事件の1か月前からニューヨークに滞在していたということであった。遅くとも、同年の10月10日にはニューヨークに到着していたことになる。

当時、横浜港を出発した船がバンクーバー経由でニューヨークに到着するには、早くても1か月かかった。そうすると、1889年9月10日以前に横浜港を出発していると考えられる。法廷証言によると、主人公は、イギリス船籍のアビシニア号に乗船したという。

横浜開港資料館の資料によって、当時の横浜出発、バンクーバー行きのアビシニア号をある程度特定することができた。これによると、アビシニア号によるカナダ航路で、1889年9月10日出発に最も近いのは、1889年7月4日横浜港出航の便であった。

この便に主人公が乗船していたとすれば、パスポートの発行は1889年7月4日以前ということになる。

このようにして、パスポート発行の日付をある程度特定し、上記一覧表の記載を丹念に見て行ったが、残念ながら、渋谷重蔵または重次郎の名前を見つけることはできなかった。

まだ特定をあきらめたわけではないが、この連載も終了間近となったので、本人も「重次郎」と称していた可能性があるということで、以後は、「重次郎」で統一することにして、名前問題に一応決着をつけることにする。

なお、次回は、重次郎の死刑執行をめぐる問題についてみていくことにする。1891年7月7日のシンシン刑務所では、同時に4人の人間が電気椅子によって死刑を執行されている。われらが主人公は、その4人の最後に執行されている。そして、公式の死後解剖が行われたのは、彼だけである。どうしてこうしたことが起きたのか、また、解剖の結果はどうだったのか、次回はこうした謎に迫る。

外務省外交史料館の資料に編綴されていた新聞の一部。死刑執行された4人のイラストが描かれている。

◆事件発生から処刑までの年表はこちら


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村井敏邦(むらい・としくに 弁護士・一橋大学名誉教授)
1941年大阪府生まれ。一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授などを歴任。『疑わしきは…―ベルショー教授夫人殺人事件』(日本評論社、1995年、共訳)、『民衆から見た罪と罰―民間学としての刑事法学の試み』(花伝社、2005年)ほか、著書多数。