(第2回)権力の行使に恐れを抱いた首相がいた—宮沢喜一のこと〔憲法施行79年〕

現在史のプリズム(三浦俊章)| 2026.05.03
第二次世界大戦後に築かれた国際秩序がいま大きく変容し、崩れつつあります。その秩序をつくったアメリカのトランプ大統領自らが「法の支配」を無視し、むき出しの強者の論理を押し付けているのです。私たちは、視界不良のまま海図なき航海に乗り出しているのではないでしょうか。とはいえ、現在の私たちがあるのは、過去の歴史の積み上げの結果なのです。世界と日本のこれまでの歩みを振り返り、歴史の知恵を生かして私たちの現在と未来を考える連載を始めます。

(毎月上旬更新予定)

日本国憲法は施行から79年目の記念日を迎えた。先の4月14日に開かれた自民党の党大会で、高市早苗首相(党総裁)は「日本人の手による自主的な憲法改正は党是だ。時は来た」と述べ、来年の党大会までに改憲の発議のめどを立てたいとの考えを明らかにした。具体的な改憲項目こそ挙げなかったが、憲法9条が念頭にあるのは確かだろう。国会の慣例を無視する先の予算案審議の進め方を始め、国家情報局の設置や男系男子を優先する皇室典範の改正を目指すなど、首相は「国論を二分する政策」をしゃにむに実現しようとしている。参院で半数に満たない状況でも、先の総選挙で示された個人的人気で突破を図るつもりなのだろうが、首相の姿勢で何よりも危惧を覚えるのは、自らが持つ政治権力を行使することへの恐れがないことである。

30年以上にわたる政治記者生活で、竹下登以来20人の首相を見てきたが、権力観において高市首相のもっとも真逆なタイプが宮沢喜一(1919~2007、在任1991~1993)だと思う。

宮沢は護憲派、リベラルで知られる知性の政治家だったが、政治の表舞台から去って20年以上が経ち、今の若い人にはピンとこないかもしれない。試みに現在高校で使われている教科書(山川出版社の『歴史総合――近代から現代へ』〔2022年〕と『詳説日本史』〔2023年〕)を参照してみると、宮沢については、国連平和維持活動(PKO)法を成立させてカンボジアへ自衛隊を派遣したこと、それから1993年に自民党が分裂して40年近く続いた55年体制が崩壊したときの首相だったことが言及されているくらいだ。実は宮沢の真骨頂は、占領期から保守政権の中枢で重要な政策決定に関わる参謀役を務めてきたことなのだが、それについては記事の後半で改めて語ることにしよう。

政治記者として、首相宮沢を間近で観察していたが、ひとことで言うと記者泣かせの政治家だった。外国首脳との会談や海外の著名人の来訪などは、政治家として自らをアピールできる絶好の機会のはずである。しかし、宮沢はカメラマンからの、ああしてくれこうしてくれといった注文には一切答えず、「パフォーマンスは嫌いです」と愛想のかけらもなかった。自分が仕事をしているあるがままの姿を撮ってくれればよいということだったのだろう。政治を語る言葉も時として簡潔過ぎていて、謎めいていた。政治の役割を山手線の運転士に例えたことがあった。山手線がダイヤ通りに動くような社会を維持するのが政治だというのだ。かみくだいていえば、世論受けを狙うのではなく、淡々とやるべきことをやり、人々が日々の生活で政治権力を意識しないですむ政治が理想だということだ。自らの存在を消し去ると言わんばかりである。

こういう権力観はどこから来たのだろうか。

宮沢は最晩年、ずっと固辞してきた日本経済新聞の企画「私の履歴書」に登場した。亡くなる前年の2006年4月1日から新聞休刊日を除いて29回にわたって連載された。その初回を読んで、長年の疑問がようやく解けた。

連載は、小学生時代に「満州に行った兵隊さん」あての慰問袋に入れる手紙を書かされた話から始まる。浜口雄幸首相の銃撃事件、五・一五事件、二・二六事件、そして太平洋戦争へと突入する時代に宮沢は育った。常に重苦しい、いやな圧迫感を感じ、軍部の横暴に強烈な反発を覚えたという。

すこし長くなるが、宮沢の言葉を引用してみよう。

「戦後の日本で何が一番よくなったか――。そう問われれば、私は躊躇することなく『自由があること』と答える。戦前、戦中に徐々に言論の自由が封殺されていった時代に生きたつらさは、経験したものでなければ分からない。誰を恐れることなく、言いたいことが言える。これこそが言論の自由があるということだろう。戦争の惨禍は忘れ難いし、いろいろひもじい思いもしたけれど、私には精神の自由を奪われていたことが何よりもこたえた」

「それは空気の中の酸素がどんどん薄くなっていくような感覚だった。日々、息苦しさがましていく。ついに酸素がなくなってしまえば、人であれ国であれもう死ぬしかない。そういう死滅寸前のところまでいったのが、敗戦を迎えた日本の姿だったろう」

「半生を振り返って思うことは、再び自由が失われた社会にだけはしてはならないということである。それは私のような戦前、戦中の日本を知る人間の使命だと思っている。子供たちが慰問袋を見ることのない時代が六十年余り続いてきた。慰問袋や千人針が本当の死語となり、歴史のかなたに忘れ去られてしまうことを私は強く願っている」

初回分はこう結ばれている。また宮沢は連載の別の部分で、自分の政治観を述べている。

「私は本来、権力の行使にはあまり強い関心はなく、実際に自分が首相になった時もそういう信念で行動した」

宮沢の「私の履歴書」のこうしたくだりを読んで、かつて憲法学者の樋口陽一東北大・東大名誉教授から聞いた「憲法9条は戦後日本の安全弁だ」という話を思い出した。

それはこういう話だった。

「憲法9条は単なる軍事の話ではありません。軍事的価値の肥大を抑えることで、日本社会における批判の自由を支えてきた役割が大きいのです」

戦前の日本において、言論の自由を始めとする人権を抑圧し、戦争への道を推進したのは軍部であり、その軍部の横暴の前に、人々は沈黙し、最後は国家自体の崩壊に至った。軍事的価値を抑えることなしには、戦後デモクラシーを定着させることは不可能だったということだ。それは、宮沢喜一の思想のバックボーンでもあった。宮沢は戦争より平和が好ましいという単純なハト派ではない。何よりも人間の自由を重んじるという確固たる信念が、その憲法観や権力観を支えていたのである。

宮沢についてもうひとつだけ語っておこう。宮沢は戦中から戦後にかけて大蔵官僚としてのキャリアを歩んでいたが、その卓越した英語力で、占領期に米側との交渉で頭角を現した。同郷の広島出身の池田勇人(後に首相)の側近として活躍し、1951年のサンフランシスコ講和会議にも参加している。宮沢の果たしたいちばん大きな役割は、60年安保改定を分水嶺とする保守路線の転換の舵取りだろう。

当時、安保条約の改定を進めていたのは故安倍晋三元首相の祖父であった岸信介である。対米開戦を決めた東条英機内閣の一員であった岸は敗戦後A級戦犯容疑者となったが、裁判は行われずに釈放され、政界復帰を果たすと、憲法改正によって強い国家を目指す復古路線を進めた。安保改定もその一環だったのだが、なんとか条約改定は成ったものの、その強引な政治手法ゆえに高まる反対運動の前に退陣を余儀なくされた。

そして岸内閣に代わった池田勇人内閣で、「寛容と忍耐」をキャッチフレーズに低姿勢の政治を進めた裏方が宮沢だった。「寛容と忍耐」の「寛容」は、自由主義思想家ジョン・スチュアート・ミルの言葉から取ったというのは、宮沢らしいエピソードである。

宮沢は60年安保改定時の反対運動を後に、オーラル・ヒストリーの中でこう回想している。

「あの時に起こった国民的なエネルギーは、おそらく岸さんという戦前派を代表した人の戦前回帰的な権力主義の政治に対する反発ではなかったか……そこで(岸内閣の退陣で)戦前回帰が終了したといえるのではないか。そして、新しいデモクラシーがそこから生まれた」(『聞き書 宮澤喜一回顧録』岩波書店、2005年)

その後の池田内閣は所得倍増路線を取り、高度経済成長の時代が始まった。国民の関心は政治より経済へと向いていく。それが結果的に自民党の長期安定政権の時代を招いた。歴史を変える鮮やかな路線転換だった。

振り返ってみると、戦後日本のあり方、それは戦後デモクラシーとも平和国家とも言い換えてもよいと思うが、そこにはふたつの柱があったと思う。ひとつは、あのような戦争の時代に決して戻ってはならないという悔恨に満ちた戦争の記憶である。もうひとつは、日々暮らしが楽になっていくという経済的豊かさを実感できたことである。そのふたつともが今大きく失われている。戦争や敗戦直後の現実を知る者は去り、豊かさのシンボルだった戦後日本は、いまや経済停滞で先進国の地位すら危うい。国際環境の変化は、軍事力を増強しさえすれば外交問題を解決できるといった安易な軍事リアリズムを生み、行き場のない怒りや不満はスケープゴートしての「外国人」を標的とし、排外的なナショナリズムが横行し始めている。防衛力の強化、アメリカとの軍事的一体化、対外的な強硬姿勢を打ち出す高市首相が高い世論の支持率を維持する理由はそこにあるのだろう。

だが、戦争の記憶が薄れ、経済的豊かさが揺らいでいるとしても、これまでの戦後日本の生き方と違う選択肢が、我々にあるのだろうか。

もっと深い社会の潮流にも目を配るべきだろう。ネット上にヘイトや偏見があふれている一方で、ジェンダーの平等や価値の多様性を認める見方は広がっている。男系優位の皇室典範改正をしようとしても、世論調査で8割以上が女系・女性天皇に賛成する社会では、そんなことをすれば、天皇制の存続そのものが危機に瀕するだろう。会社や組織のために生きるより自分の私的生活や家族を優先するのは、いまや常識である。「国を守る」と言ってアメリカからいくら高価な武器を買っても、それを使いこなす自衛隊に人が集まらなければ始まらない。勇ましい言論を消費するだけのナショナリズムでは出口がないのである。

宮沢は先に紹介した「私の履歴書」の初回で、「慰問袋や千人針が本当に死語となり、歴史のかなたに忘れ去られてしまうことを私は強く願っている」と書いたが、ここの部分だけには異論を述べておきたい。過ちを繰り返さないためには、過ちを忘れてはいけないはずだ。戦争を体験した世代がいなくなるとまた次の戦争が来る、とは言い古された言葉であるが、戦争を記憶することは自覚的な努力であり、戦争体験の制約を超えることでなければならないはずだ。

憲法記念日という日に権力の行使に恐れを抱いた首相がいたことを思い出すのも、その作業の一環である。


三浦俊章(みうら・としあき)
元朝日新聞記者。政治部、ワシントン特派員、論説委員、編集委員、テレビ朝日系列「報道ステーション」コメンテーターなどを歴任。主著に『ブッシュのアメリカ』(岩波新書、2003年)、共訳に『アメリカ大統領演説集』(岩波文庫、2025年)など。

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