(第2回)電気椅子の使われた時代

渋谷重蔵は冤罪か?―19世紀、アメリカで電気椅子にかけられた日本人(村井敏邦)| 2018.10.23
日本開国から24年、明治の華やかな文明開化の裏側で、電気椅子の露と消えた男がいた。それはどんな事件だったのか。「ジュージロ」の法廷での主張は。当時の日本政府の対応は。ニューヨーク州公文書館に残る裁判資料を読み解きながら、かの地で電気椅子で処刑された日本人「渋谷重蔵」の事件と裁判がいま明らかになる。

(毎月下旬更新予定)

電気椅子の誕生

電気椅子は、死刑執行方法の人道化の掛け声とともに導入された。発明者は、発明王で知られるトーマス・エディソン(Thomas Edison 1847-1931)である。エディソンは直流電流を発明し、発明当初は大変な評判を呼び、電気会社を作るまでに至った。ところが、交流電流が発明されると、エディソンの直流電流の販売は低減の一途を辿った。エディソンは、交流電流のイメージを悪くすることで対抗しようとして、1889年に交流電流を使用した電気椅子を発明し、動物実験を公開して、交流電流が人を殺す手段として用いられるほど危険なものだと宣伝した。

電流戦争(War of currents)は、直流側の負けになるのであるが、いずれにしても、エディソンの逆宣伝の手段として電気椅子が発明されたのであって、人道化の建前とはまったく違った本音があった。まことに皮肉なことというべきであろう。

アメリカでの死刑執行状況(1890~2002年)

発明1年後の1890年、電気椅子による死刑執行第1号がオーバン刑務所において実施された。この時処刑されたのは、斧で人を殺したとして死刑の言い渡しを受けたウィリアム・ケムラー(William Kemmler 1860-1890)である。このケムラーに対する処刑は、エディソンらの宣伝にも関わらず、非常に残酷なものだった。2度にわたって電流を流しても、ケムラーは生きていた。3度電流を流して彼はやっと死亡した。その間、肉は焼け、ひどい悪臭と煙で大変な状態であったようだ。第2号が、シンシン刑務所におけるJugigoら4人の処刑である。

1889年、電気椅子が発明され、絞首刑の執行は徐々に減少した。

ところで、合衆国における最後の公開処刑は、1936年のレイニー・ベシー(Rainey Bethea)である。 ベシーの罪は、強姦であった。彼の処刑は、ケンタッキー州オーウェンスボロで、2万人の公衆の面前で絞首刑で行われた。現在でも、執行に被害者遺族などの立会いを認める州は多いが、これは一般への公開ではない。

ベシーの公開処刑後、絞首刑による死刑執行はさらに減少し、1996年のデラウェアにおけるビリー・ベイリー(BILLY BAILEY 49歳の白人男性。殺人罪)が絞首刑を執行された最後の人とされている。

2010年2月12日 ニューヨーク州オステンド シンシン刑務所博物館にて。左は筆者。

電気椅子処刑は、2002年10月5日にアラバマ州で行われた、54歳の白人女性リンダ・ライオン・ブロック(Lynda Lyon Block 1948-2002)に対するものが最後である。その後は、ガス室における処刑が主流となり、さらに、薬物注射による処刑がこれに代わった。しかし、薬物注射による処刑についても、苦痛があるということで、この方法にも疑問がもたれているというのが、最近の状況である。

すでに述べたように、1889年から2002年までの電気椅子の処刑の歴史の中で、日本人は、渋谷重蔵と斉藤泰三の2人である。このうち、斉藤泰三については、1922年2月28日の読売新聞に次のような記事が掲載されている。

斎藤泰蔵(宛字)(23)は4月3日シンシンに於て電気仕掛の椅子を以て死刑を執行される旨言渡された同人は昨年10月中安原(宛字)なる日本人を絞殺して金銭を強奪せる者で日本人にして紐育で殺人罪の宣告を受けた者のは同人が始めてである。

この記事に、斉藤泰蔵が「日本人にして紐育で殺人罪の宣告を受けた」はじめての人物としているのは、誤りである。「電気椅子で処刑された二人目の者」というのが正しい。また、斉藤泰蔵の死刑執行は1922年7月20日である。

そのほか、1922年8月28日の読売新聞に、「疑問の男斎藤泰蔵が死刑の電気椅子」として電気椅子の写真とともに、寄贈者の「栗原」という人の次のような談話が掲載されている。

貴紙にシングシング監獄に於ける日本人死刑囚の記事がありましたので、昨年5月私が同監獄を訪づれ典獄フェーガン氏の案内で内部を一覧し、小柳といふ一人の日本囚人に面会した時のことを回想し、現に私も腰かけて見た電気椅子のエハガキをお送りいたします。聞く所によれば10数年前これが出来た時の第一の刑人は日本人であったさうです。国際的にも気の毒だといふので引受人があれば助けたいとて官憲から日本領事館に交渉があったが領事が不問に付したということです。

記者は、後半の死刑囚を斎藤泰蔵だと勘違いして、「疑問の男斎藤泰蔵」と書いたのであろうが、それは渋谷重蔵のことである。斎藤泰蔵には、これ以上の情報がない。

このことを含めて、渋谷重蔵については、電気椅子処刑の全米第2号、シンシン刑務所における第1号であるということ、また、冤罪の可能性があるということで、より強く筆者の関心を引いたのである。

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村井敏邦(むらい・としくに 弁護士・一橋大学名誉教授)
1941年大阪府生まれ。一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授などを歴任。『疑わしきは…―ベルショー教授夫人殺人事件』(日本評論社、1995年、共訳)、『民衆から見た罪と罰―民間学としての刑事法学の試み』(花伝社、2005年)ほか、著書多数。