『圏論の歩き方(改訂版)』(編:圏論の歩き方委員会)
まえがき
圏論とは何か? 一言で言うと,現代数学のさまざまな場面で使われる「数学のコトバ」です.圏論のコトバは,さまざまな具体的概念に共通する抽象的性質を記述する上で便利な抽象力と一般化力を持っています.それゆえに,数学の中の異なる分野—代数学,幾何学,解析学…これらそれぞれの中にも,とても多くの分野がありますね—の間の,(普通の数式による表現では予想もしなかったような) 関係性を明らかにしてくれることがあり,現代数学では圏論はもはや基本的な道具です.
また,その一般性の及ぶ範囲は数学の中の諸分野にとどまらず,物理学や論理学,計算機科学,システム生物学など,圏論の使われる学術分野はどんどん広がりつつあります.そもそも何より,方程式や等式でなく矢印と可換図式を使って議論を進めていく圏論のコトバは (この本をパラパラめくるとすぐに出てきますが),「なんだかよくわからないがそこがカッコイイのではないか」というふうに,前途洋々たる (というよりちょっと背伸び気味の) 若者をひきつけてやみません (編著者のうちの多数もそうだったことでしょう).さらに言うと「コトバが思考を規定する」ということがあります.圏論を使って数学や他の分野の問題を考えることで,ある特定の考え方のスタイル・研究の視点をその問題に適用することになります.このことが常によいとはまったく限りませんが,そのようにして得られたいろいろな成果があることも事実です.
今日,このような「数学のコトバ」たる圏論について,興味を持っている人は少なくないようです.数学者はもちろん,最近では関数型プログラミングの関わりを通じて興味をもったプログラマーの人たちも,さかんに圏論の勉強会をしているようです.しかしながら,「コトバ」を「習得」することはとてもむずかしいのです-生まれたての赤ん坊が話せるようになるまでの過程は,学校の授業や講義とはだいぶ違いますよね.実際「圏論の勉強をしたくて教科書を読んでみたがどうにもわからない」という話はしばしば耳にします.
そこでこの本はどういうものなのか,説明します.いきさつや詳細は本文の座談会の章 (1,8,16,21 章) を見てほしいのですが,上記の流れで何か言うとすれば,
- 情報処理能力をはるかに超えた量の情報の洪水と,
- トライ・アンド・エラーの機会
という,コトバを習得するうえで有益だと思われる二つのことに力点を置いた「圏論の入門書」,ということになります.実際,赤ん坊がコトバを話せるようになるまでには,周囲の大人の (赤ん坊にとっては最初は意味がわからない) 話しかけ・問いかけが大切だし,また,「ぶーぶー」「あれはバスって言うんだよー」というような試行が大切ですよね.
このような「情報の洪水」と「トライ・アンド・エラーの機会」は,ある程度まとまった人数のいる研究室のような場だとかなりの頻度で発生しますし,実際にそのような場だと学生さんたちは驚くべきスピードで圏論を「身につけて」行きます.この本の元になったプロジェクト「 Adventures of Categories 」はまさにそのようなものであり,この本はそのプロジェクトの実況中継としても読めます.
上記の二つの力点に対応して,最初にこの本の読み方 (「歩き方の使い方」) について,注意しておきますね.まず,決して最初から一つ一つ完全に理解していこうとしないでください.そもそも分量的にそのような書き方はされていませんし,むしろ,わからないこと・わかることの間から,ご自分なりの「圏論観」を作っていただきたいのです.なので,最初はともかく,この本の最後まで流し読んでみてください.各章の扱うトピックは純粋数学から物理学,計算機科学,システム生物学などさまざまなので,読者のそれぞれに「なじみのある章」「なじみのない章」があるはずです,またたとえば,むずかしい章の後の座談会で「まったくわからなかったよ」という話になっていたりしますし,最終章 (22 章) には「圏論のつまづき方」というボーナスステージもあります.
もう一つの注意は:ぜひ何度も読んでみてください.章ごとに著者の違うこの本では,「読めばわかるふうになっている章」もあれば「読んでもわからないが研究の奥深さや著者の熱意が伝わる章」もあります.特に後者はいわば「かみごたえのある」章であり,何度も読んでもらううちに少しずつ内容が明らかになっていったとしたら,コトバの習得に必要なトライ・アンド・エラーを行っていることになるでしょう.実際編著者たちの多くにとっても,自分が書いた以外の章に関しては,『数学セミナー』(2011 年 7 月号〜2012 年 11 月号) 連載時から数年経った今初めて理解できることがたくさんあります.
最後に:圏論というコトバの習得についていろいろと語ってきましたが,実はこの「コトバの習得」のむずかしさは圏論だけに限りません.特に,学術分野が急速に細分化しつつ,かつインターネットを通じてそれらのフラット化が進行する今日において,異なる学術分野の間の異分野協働はとても重要だし,知的にとてもエキサイティングです.このような,たとえば「天文学と地質学」「数学とデータサイエンス」「システム生物学とシステム工学」というような異分野協働の現場においても,お互いのコトバを習得することが重要だし,かつ,とてもむずかしいのです.異分野協働のプロである Piet Hut 先生のおかげで,この本は異分野協働の方法論の考察としても裏読みができるようになっています.読者の方が自分のこれまでの興味から一歩踏み出して,より広い範囲の仲間たちと話をなさることのきっかけに,この本がなるとしたら,編著者として何よりの幸福です.
それでは,楽しんでください!
2015 年 7 月
改訂版まえがき
本書の初版の発行から 10 年,きっかけとなった「Adventure of Categories」プロジェクト開始から 15 年経って,幸いにも改訂版の出版の機会をいただきました.今見返すと「若気の至り以外の何物でもない」という試みでしたが,同時に「若気の至りの時期もキャリアのどこかでは必要」という思いも間違いなくあります (研究者に限らずいろいろなキャリアで).これから何かやろうという読者の方が若気の至りの例を見て勇気をもらえるように,また,もうキャリア的に落ち着いた読者の方が昔を懐かしむ機会になるように,本書がお役に立てば幸せです.
(著者である我々は,この機会にもう一度,本書からエネルギーをもらって,若気の至りをやらかしてやろうと思っています.そのような読者の方もぜひ!)
改訂版では新たな章が 5 つ加わっています.これらのうち 2 つについては,もともとの著者たちよりずっと下の,次世代の研究者に執筆していただきました.圏論の新たな展開について,また,異なる世代の研究者が協力してコミュニティを維持発展させていく姿について,ぜひご覧いただければと思います.
数学というと,とかく「不変の真理を語る」静的なものだと思われがちですが,学問の最先端では (他の学問分野や仕事と同様) 試行錯誤を繰り返す動的な営為です.その様子と楽しさを伝えることが,本書の目標のひとつだと考えています.
最後に,日本評論社の入江孝成さんには,(特に主編者の) 遅れに遅れた作業にお付き合いいただきました.厚く御礼申し上げます.
2025 年 8 月
謝辞
本書のきっかけ,また,本書のもとになったプロジェクト「 Adventures of Categories 」のきっかけになり,さまざまなサポートをくださった,次の方々・組織・偶然のできごとに感謝します.
- 科学技術振興機構「数学と諸分野の協働によるブレークスルーの探索」領域.特に
- 若手がわいわいやる創造的カオスを許容し,全力でサポートしてくださった領域総括の西浦廉政先生
- ときに厳しく,しかし,とことん寛容に,面白がって見守ってくださった領域アドバイザーの先生方,特に織田孝幸先生
- 実務的サポートをいただいた事務職員のみなさん,特にその底抜けの明るさから元気をもいただいた野水昭彦さん
- プロジェクトの会合の場となった京都大学数理解析研究所,特に事務職員のみなさん
- 自由な議論をうながしてくれるような京都のまちの雰囲気,特に座談会や継続議論の場となった飲食店のみなさん
- 圏論の本を読んでいた浦本武雄さんに対して Piet Hut 先生が繰り出した,京都三条大橋のスターバックスでの「圏論ナンパ」
- 本書および,その元になった雑誌連載を支えてくださった,日本評論社の入江孝成さんと大賀雅美さん (また,編集部へ圏論がブームであることを最初に教えていただいた山田裕史先生)
- 各章の著者のみなさん,そして,プロジェクト「 Adventures of Categories 」の会合で講演いただいたり,議論に参加したりしてくださった,すべてのみなさん
この中の一つでも欠けたら本書はできあがりませんでした.心から感謝します.
2015 年 7 月
目次
- 第 1 章 [座談会] 圏論と異分野協働…今出川不純集会
- 第 2 章 圏の定義—矢印でいろいろ書いてみる…蓮尾一郎
- 第 3 章 タングルの圏…鈴木咲衣 + 葉廣和夫
- 第 4 章 プログラム意味論と圏論–計算の「不変量」を圏論で捉える…長谷川真人
- 第 5 章 モナドと計算効果…勝股審也
- 第 6 章 モナドのクライスリ圏—圏論による一般化とは?…蓮尾一郎
- 第 7 章 表現を〈表現〉する話—ミクロ・マクロ双対性(1)…小嶋泉 + 西郷甲矢人
- 第 8 章 [座談会] 歩き方の使い方—今出川不純集会,ふたたび
- 第 9 章 ガロア理論と物理学—ミクロ・マクロ双対性(2)…小嶋泉 + 西郷甲矢人
- 第 10 章 圏論的双対性の「論理」—圏論における抽象と捨象,あるいは不条理…丸山善宏
- 第 11 章 圏論的論理学:トポス理論を越えて…丸山善宏
- 第 12 章 すべての人に矢印を—圏論と教育をめぐる冒険…西郷甲矢人
- 第 13 章 ホモロジー代数からアーベル圏,三角圏へ…阿部弘樹 + 中岡宏行
- 第 14 章 表現論と圏論化…土岡俊介
- 第 15 章 圏論と生物のネットワーク…春名太一
- 第 16 章 [座談会] 「数学本流」にはなりたくない—今出川不純集会,三たび
- 第 17 章 高次圏論…前原悠究
- 第 18 章 たいていの物理量は圏論的射である—古典物理と量子物理の圏論…谷村省吾
- 第 19 章 選択の構造としての Kan 拡張—圏論とネットワークの数理モデル…春名太一
- 第 20 章 圏で圏を集める?—ファイブレーション入門…郡茉友子
- 第 21 章 [座談会] 新たなる希望—今出川不純集会,15年後
- 第 22 章 圏論のつまづき方
書誌情報など
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- 『圏論の歩き方(改訂版)』
- 編:圏論の歩き方委員会
- 紙の書籍
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定価:税込 4400 円(本体価格 4000 円)
- 発刊年月:2025 年 9月
- ISBN:978-4-535-79035-3
- 判型:A5 判
- ページ数:392 ページ
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