『印象派物理学入門—日常にひそむ美しい法則』(著:奥村 剛)

一冊散策| 2020.02.05
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

まえがき

この本は,何より,私たちの行っている研究の面白さを伝えたくて書きました.印象派物理学入門---日常にひそむ美しい法則

特に,高校1年生になり物理を勉強し始めて身のまわりの現象が式を使って説明できることを知って驚いている人.そろそろ理系に進もうかと思い始めて研究者という職業にも興味が湧いてきた人.そして,大学の物理学科ではどんなことを学んだり研究したりしているのかを少し先取りして知ってみたい人.そんな人たちを念頭において,この本を書き進めていきました.

いざ,書きあがったものを見直してみると,このような意欲的な高校生だけでなく,大学合格直後の高校生,そして大学生,中学・高校の理科の先生や物理に興味のある一般の方,さらには,企業や大学のプロの研究者や社会で指導的立場にある方々にもぜひ読んでいただきたい内容となりました.研究の面白さに加えて,物理学における新しい潮流・汎用性のある手法を紹介し,現代物理学を俯瞰し,それに対する私なりの歴史観も示しています.

私は,お茶の水女子大学という小さな歴史のある大学で,長い間,物理学の研究や教育を行ってきています.この大学に,自分の研究室を持ったのが2000年10月,もう20年近く前のことです.赴任当初は,素粒子の理論をベースとして幅広いことに興味を持って,「理論」物理の研究を行っていました.

現代物理学においては,専門化が進み,基本的には,理論を研究するグループと実験をするグループに分かれています.しかし,物理の理論が正しいか,正しくないかを決定するのは,最終的には実験です.一方,実験には多額の費用と年月がかかることも多くなってきています.このような状況では,理論研究者は,自分の作った理論が正しいのか正しくないのか,自分で確かめることができないことが多くなっています.

一方,私は,お茶の水女子大学に赴任する少し前に,当時,カリスマ性をもって世界中の研究者に大きな影響を与えていた故ドゥジェンヌ先生(1932〜2007)の研究室に滞在し,共同研究をする幸運を得ました.ドゥジェンヌ先生は,細分化する現代物理学において,他に例をみないほど幅広い分野で卓越した業績を残し,1991年に「現代のニュートン」と讃えられてノーベル物理学を受賞しています.彼は,ノーベル賞受賞講演を「ソフトマター」というタイトルで行い,それがきっかけで,この言葉が分野の名称となったため,彼は「ソフトマターの父」と呼ばれることもあります.私は,このような偉大な科学者と直接コミュニケーションをするなかで「物理学における印象派の精神」にふれ,その素晴らしさに魅了され,虜になってしまいました.この精神とはいわば「印象派画家が詳細を描かないことでかえって美の本質を浮き立たせているように,数学的詳細を大胆に切り落とすことで背後にあるシンプルな物理的本質を浮かび上がらせるというスタイル」です.

ドゥジェンヌ先生は理論家ではありましたが,まわりの実験家とつねに対話をして,強い好奇心で次から次へ新らしいアイデアを生み出していました.一方,私は,実験研究の経験は皆無でしたが,小学生の頃から筋金入りの天文マニアとして,望遠鏡の自作や星の写真撮影などの経験がありました.そこで,いまから15年くらい前,思い切って,自分の研究室で実験研究を始めてしまいました.その結果,多くの優秀な学生が,目の前の現象の面白さに引き込まれて研究にのめりこんでいき,質の高い実験結果が次々と得られました.私たちはそのデータと,日々,にらめっこしながら一緒に理論を考えてきました.そして,このような共同作業の結果,実験と理論が「迫力のある美しさ」をもって一致することに何度も感動し,その成果を基幹的な国際学術誌に発表してきました.私は,このように,日々,実験と理論を比較し,一喜一憂しながら進めている最先端の研究の中身を皆さんにお伝えして,研究の面白さを知ってもらいたいのです.

物理学の最先端の研究の内容を,一般の人々に伝えることは,大変に難しいことです.ただ,幸いなことに,「印象派物理学」という手法は,特に,一般の人々にもなじみがあったり,イメージしやすかったりする日常の自然現象にも威力を発揮し,その成果がシンプルなために分野外の研究者にもその成果を分かりやすく伝えることができます.そこで,私たちの研究は,一般の人々にも,その研究の中身を理解してもらえる可能性がある,とずっと考えてきました.それを,具体的に形にしたものが本書です.

本書では,まずはじめに,最新の研究例を,個々の物理には深入りせずに二つ紹介し,印象派の方法論を説明します.ついで,西洋絵画の歴史と物理の歴史を比較しながら,印象派物理学とはなんであるかを説明します.そして,表面張力を例に,物理的内容にも立ち入って基礎を紹介,その知識をもとに最先端の研究へ導きます.さらに,理論やシミュレーションの研究の例がメインになりますが,やはり,印象派の精神に支えられた,物質の強靭性にかかわる最先端の研究の理解へと進みます.

随所に,自分で手軽にできる実験を「実験してみよう」というコラムで紹介しています.これらの実験をしてみることで,理解が格段に深まると思います.ぜひ,億劫がらずにトライして,自分の目の前で見たことを,数式で理解する面白さを味わってください.

この本を読み進むうちに,大学で,物理を学んで研究者になってみたいと思う人もいるかもしれません.そんな人たちのためにも,最後の章では,大学ではどんな物理を学ぶのか,私はどのようにして物理学者になり,そして印象派物理と出会ったのか,にもふれています.ここでは,現代物理学の歴史,その背景となる物理学者の美意識についても私なりの考えを述べ,物理が芸術の一形態であることを説明します.そして,最後に,先人の言葉を引いて,基礎科学をする心の大切さを説いて締めくくります.

想定している最低限の知識は,中学までの数学と物理です.それと,高校1年生の前半に学習することが多い,高校の入門レベルの力学の知識があるとよいでしょう.ただ,これらについては念のため,適宜,説明しながらお話しします.なお,これらは,本文の流れとは少しそれる一般的な事柄なので,背景を灰色にして,少し小さい文字で表しますが,記憶が不確かだったり,高校1年生になりたてでまだ学んでいない項目でしたら必ず読んでください.

なお,少しレベルが高い部分は,「参考」というマークを付けて小さめの字で記しました.この部分は,余力のある人向けですので,難しければ読み飛ばしても,全体が理解できなくなることはありませんので,ご安心ください.

2019年10月 奥村剛

あとがき

2012年3月22日の朝日新聞の科学欄に私の顔写真とともに「印象派物理学」の文字が掲載された頃から,私たちの研究を一般の人々に伝える啓蒙書を書きたいとずっと思ってきました.しかし,数式を極力使わないという制約の下でずいぶん頑張ってみたものの,どうしても一番書きたい部分を書くことができずに何度も挫折していました.一方,その間に,高校生向けに話をする機会を何度も持ちました.その結果,最近では,私の話を聞いたことがきっかけとなり,お茶の水女子大学の物理学科にきてくれたという学生も毎年1名程度(学科の定員は20名程です),入学するようになってきてそれなりの手ごたえも得てきました.

また,私たちの研究に興味を持ってくれる非専門家もちらほら現れ,2018年5月18日には日経新聞に顔写真入りの研究紹介もしていただきました.そんな経緯があった末に,日本評論社の佐藤大器さんからお話をいただき,高校生にわかるレベルのものならば数式を使ってもよいということになり,書き始めてみると一気に書くことができ,この啓蒙書が生まれました.きっかけを与えていただいた佐藤さんには深く感謝しています.

また,吉川研一先生(京都大学名誉教授),岸根順一郎氏(放送大学教授),および,高井優衣さん(お茶の水女子大学数学科)には,原稿に目を通していただき,それぞれの立場から有益なコメントをいただき,本書に反映させていただきましたこと,感謝いたします.

この本を書くにあたり,改めて,印象派物理学とは何だろうか,と考えてみました.そうして得た私の結論は,私にとっては「いかにも物理屋らしく感じる美学が貫かれている研究,それが印象派の物理だ」という思いを新たにしました.いわば,一般の人に物理屋の美学のイメージをうまく伝えることができる言葉,それが印象派なのだと.だから,何度か繰り返してきましたが,印象派物理は物理の正攻法であり,多くの物理学者が当たり前のように行っている研究手法の1つを表現しているに過ぎないと言えます.

ここで,私が「いかにも物理屋らしく感じる美学」とは,美しくてシンプルなものを求めて極限的な状況に着目し,そこから物理的な本質を理解しようとする姿勢です.これが印象派の精神です.これが「いかにも物理屋らしい」というのは第8章で示した現代物理学の歴史に重ねてみると納得していただけるでしょう.そして,このような精神をもって研究を進めると,スケーリング則がとても有効になることもすでに見てきたとおりです.

私たちの研究グループは,このスケーリング則を得ることに特にこだわり,徹底している点は際立っているかもしれません.しかし,本書をきっかけに「印象派の精神」を一般の人が理解することで,この言葉が広い意味で「物理屋らしさ」を表す言葉として世の中に認識してもらえたらと思っています.そうしたら一般の方々の「物理学」に対するイメージがずいぶん変わると期待しています.

この本では,私たちの研究を中心に紹介しました.しかし,物理学の分野ではいろいろな研究が,このような広い意味での「印象派の精神」を支えに行われています.ですから,この本をきっかけに,広く物理学に対する関心が高まることも期待しています.

私は,本書が,中学・高校の物理教育に良い影響を与えることも期待しています.私は中学や高校の物理教育おいて,表面張力などの身近な題材がもっと積極的に使われるべきだと思っています.そして,次元に着目した議論を早い段階から導入することが重要であると確信しています.

本書で紹介した「実験してみよう」に取り上げた実験はどれも小学生や中学生でも簡単にできるものばかりです.式を使わなくても,物理的な概念を子供たちの興味をひきながら説明するのは有益なことです(特に第6章に紹介した実験は準備も簡単です).さらに,これを説明する道具として簡単な次元に基づいた議論まで立ち入れば,高校の教材としても適切でしょう.

なお,訂正などの追加情報は適宜,本書のWebページ(1ページ参照)で発信していきます.

最後になりますが,私は,この本を書くにあたり,改めて,多くの人の恩恵を受けてきたことに思い至りました.この本を書くことを通し,自分がこれまで歩んできた道を振り返り,多くの偶然の重なりを感じました.そして,キーとなる場面で,誰かに助言をもらったり,助けてもらったりしてきました.また,この本の内容の多くは,私の研究室に所属した学生たちが若いエネルギーを注いで打ち込んできた文化的な活動の結晶です.このようにお世話になった方々と学生さんには,文中や図中の参考文献でごく一部の方々の名前を載せたに過ぎません.ここで,こうした方々すべてに感謝をして筆を置きます.

2019年9月14日 奥村剛

目次

  • 第1章 身近な現象にひそむシンプルな法則
    • 1.1 切り紙がよく伸びるわけ
    • 1.2 バブルの引きちぎれ
  • 第2章 印象派物理学とは
    • 2.1 印象派とソフトマター物理
    • 2.2 西洋絵画における写実主義と印象主義
    • 2.3 物理学における写実主義
    • 2.4 物理学における印象主義
  • 第3章 表面張力の静力学
    • 3.1 小さな滴(しずく)の物語
    • 3.2 大きな滴(しずく)の物語
  • 第4章 表面張力の動力学
    • 4.1 液体や気体の動力学:ニュートンの運動方程式
    • 4.2 ニュートンの粘性力
    • 4.3 毛管上昇の動力学
  • 第5章 最先端の研究:流体・粉粒体編
    • 5.1 滴の融合・バブルの破裂
    • 5.2 滴・バブルの上昇と下降:抵抗則
    • 5.3 微細加工表面への毛管上昇
  • 第6章 物質の強度と破壊力学
    • 6.1 応力集中のあらまし
    • 6.2 線形弾性体
    • 6.3 グリフィスの破壊応力と破壊力学
    • 6.4 応力集中を表すスケーリング則
  • 第7章 最先端の研究:物質の強靭性編
    • 7.1 なぜ,真珠は丈夫なのか?
    • 7.2 なぜ,クモの巣は丈夫なのか?
  • 第8章 物理学者の世界
    • 8.1 物理学者の美意識の系譜:大学の物理へのいざない
    • 8.2 芸術・文化としての物理学
    • 8.3 現代物理学の社会的インパクト
    • 8.4 私のたどった印象派物理への道
    • 8.5 物理学の楽しみ
    • 8.6 基礎科学する心
  • おわりに:物理学の無限の可能性

書誌情報など

関連するWebサイトなど

  • 奥村研究室Webサイト
  • ※本書で参照している4つのムービーをご覧になりたい方は、下記のリンク先をクリックしてください。ただし、「引きちぎれのムービー」から3つについて、スマートフォンでは、動画再生アプリが必要な場合があります。
    • 「切り紙のムービー」はこちらをクリックしてください。
    • 「引きちぎれのムービー」はこちらをクリックしてください。
    • 「引きちぎれのムービー(正面拡大図)」はこちらをクリックしてください。
    • 「引きちぎれのムービー(側面拡大図)」はこちらをクリックしてください。