(第14回)社会のあるところに法がある

悪しき隣人―ようこそ法格言の世界へ(柴田光蔵)| 2019.09.12
「よき法律家は悪しき隣人」。この言葉が何を意味しているのか、知っていますか?
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年11月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています。

(不定期更新)

Ubi societās, ibi jūs.

人口に膾炙(かいしゃ)しているけれども出典は不明である。

ここでは「法」という訳をあてたが、これはラテン語の〈ユース〉の意味にひきずられてそうなっただけのことで、どちらかと言えば、「法」のかわりに、「ルール」「準則」「規範」「掟」「定め」などを用いたほうがよいように思われる。日本においては、他の民族・国家の場合以上に「法」をもちだすと、法律、制定法(成文法)――とりわけ刑法・行政法などの公法――がまず思い浮かべられてしまうので、「法」と訳すのなら、「社会」のほうを「国家」とうけとることが自然となってきて、せっかくの格言の妙味が大半は失われてしまうからである。いずれにしてもこの格言は、法学者からは、「あまり適切な表現ではない」との留保つきながら、法の位置についての真理の一側面を端的にあらわすものとして、つねづね偏愛されている。さて、「社会生活の営まれているところに社会規範が存在する」というようにこの格言を理解してみれば、このことはしごく当然の命題であって、その社会規範としては、法のほかに、道徳、宗教、習俗(慣習・慣行)などがある。この命題は動物の世界についてもあてはまるだろうが(たとえば最も高級なものかもしれないチンパンジーの社会について)、人間社会でのこととして考えてみると、われわれは、さまざまなレベルでこの命題が妥当していることに容易に気づく。そのうち興味のあると思われるいくつかの事象をサンプルとして取り上げてみよう。

(a) 村八分……これは、村共同体の住民が、ムラの掟やシキタリを破った構成員との交際を断つかたちで一団となって加える制裁を意味し、言うなれば封建遺制の一つであって、現在でも根絶されたとはいいがたい。もちろん、場合によっては脅迫罪が成立するが、村人たちはそういうソトの裁きよりもウチの裁きの方をずっとおそれていて、多分そういうことは意に介すまい。「八分」というのは、10分から2分をさしひいた残りで、2分とは、葬式と火事のときだけ見舞ってよいことである。一般論として言うと、法的に正当な行動であっても、共同体の秩序をみだすと考えられた者には、その共同体からいわゆる正義の鉄槌が容赦なくふりおろされる。狭い共同体の社会においては、人々は逃げるに逃げられず、末代まで「村八分」の制裁に苦しめられるから、この社会規範のほうが、キレイごとの法規範よりもはるかに強力なのである。

(b) 仁俠の世界……古きよき時代の YAKUZA のことを考えてみよう。これは、もともとアウトロー集団であることを誇りとする一面ももっていたから、国家法の介入を体質的に拒絶するとともに、自集団の掟を固守する姿勢をはっきりと示す。「素人さんには御迷惑をかけない」とか「強きをくじき、弱きを助ける」とか「一宿一飯の恩義」とか「上の命令には絶対服従する」とか、数々の掟の厳しさは部外者には想像もできないくらいである。彼らの制裁方法も多種多様で、デュー・プロセス(適正手続)などもちろん保障されるはずもないから、制裁のおそろしさはいっそう増す。

(c) 政治集団……旧左翼は議会制法治国家のもとでの組織体へと脱皮したけれども、新左翼の方は、かつてほどのパワーは保持していないものの、今でも各セクトに分裂して、殺しあいの血みどろの戦いをつづけている。この政治集団の社会にもさまざまな掟や仁義があるともれ聞いている。

(d) 国家と法……「社会」のある意味での最高の存在が「国家」であるとすれば、そこでの「社会規範」は「法」である。「国家のあるところに法がある」これはまず明白な事実であろう。しかし、「国家のないところに法はない」とまで言いきれるかどうかには疑問が残る。この小冊子が「法学入門」をうたっているからには、「法とは何か?」について何か語らなければならないので、つぎに、法哲学の権威による法の定義を比べて法の本質に少しでもアプローチしてみよう。

碧海純一氏(『新版・哲学概論』75頁以下)によると、「〈法〉とは〈法規範の総体〉であ」り、その法規範とは「〈政治的に組織された社会(A)の、その成員によって一般的に承認され(☆)、かつ究極において物理的強制力(B)にささえられた支配機構によって定立され、または直接に強行される規範〉である」となり、加藤新平氏(『法哲学概論』309頁)によると、「法は全体社会(A)を基盤として存立し、正義(*)実現の要求のもとに立つ所の、強要的、外面的(*)、一般的な社会規範であって、典型的には、その全体社会における組織的強制(B)――或は少なくとも萌芽形態としての、社会的に是認された一定の定型的強制――をその効力保障手段としてもつ所のもの」となる。(A)と(B)の部分は似通っているが、(☆)と(*)の部分は独特のものであり、両氏の考え方の違いがよく現われていると言えよう。熟考の末に編みだされた法の概念・定義の詳しい中味については、それぞれの書物を参照していただきたい。

(e) 日本社会と法……さきの格言をもう少し個別化して表現しなおすと、「このようにして社会が、このようにして法がある Sīc societās sīc jūs. 」(わかりやすく言い換えると「それぞれの社会にそれぞれの法がある」となる)わけだから、日本の社会にもそれなりの法があるのだが、現在われわれが直面している法が、明治期以後に継受された欧米産の法であるところにやっかいな問題が潜む。タテマエとしては、われわれは継受法を尊重しそれに恭順の意を表明しているのだが、ホンネの部分では、古い日本社会に固有の法的発想にしたがってなおも生活をヤリクリしているところがある。学生諸君がとりあえず学ぶのはタテマエとしての日本法であるが、いずれ社会に船出した折には、ホンネの日本法の波をいやというほどかぶるであろう。本書においても随所にこの手の日本法について目くばりをしておきたい。

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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。