(第8回)法律の最上の解釈者は慣習である/事物の最上の解釈者は慣習である/法はすべて正義(公平)と慣習とに由来する/よい慣習はよい法

悪しき隣人―ようこそ法格言の世界へ(柴田光蔵)| 2019.04.11
「よき法律家は悪しき隣人」。この言葉が何を意味しているのか、知っていますか?
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年5月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典 法学入門への一つの試み』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています。

(不定期更新)

Cōnsuētūdō est optima lēgum interpres. / Optimus interpres rērum ūsus. / Von Ehe und Gewohnheit kommen alle Rechte. / Gute Gewohnheit, gutes Recht.

3番目は中世ドイツの法格言。他はいずれも出典不明。

前二者をあわせた意味は、一つの立場によるなら、法律であってもなくても、とにかく、ある事柄の意味づけを探り、行動の指針を求める際には、事柄それ自体はもちろん、そのまわりに時間的・歴史的に付着している「しきたり」も射程にいれるべきである、というように解せようか。「法律の最上の解釈者は法律家である」というようにはとてもならないのがミソである。

まず、ただの慣習(慣行)=事実タル慣習と、慣習法=法タル慣習とが異なることを注記しておかなければならない。慣習法が成立するには、慣習が事実として存在していること、この慣習が社会から規範(ルール)として認められていること、そして、最も重要なファクターとして、国家が慣習を法として認めていることが必要である。近代国家のなかには、たとえば、イギリスの憲法のかなりの部分が慣習法からなるというような大きな例外はあるにしても、とりわけ成文法主義の国家(制定された法律を法秩序の中心においている国々。日本もそうである)においては、タテマエとして慣習法のウェイトは低くおさえられている。さきにあげた格言は、この点からすると、過去の遺産であって、現代ではそれほど重要でないかもしれないが、筆者としては、日本の歴史的法文化の重要な部分が前二者の法格言に示されるような考え方と決して無関係でないことを、この際、明らかにしておきたいと思うのである。日本はイタリアについで、世界で最も新しい法体系を誇る近代国家であり、日本の近代化が、成文法的な外国法の継受によって一挙に成功したことで世界の優等生であることはたしかだが、もう少し長い射程で考えてみると、その経験はまだわずか1世紀間にすぎない。日本の建国以来1400年もの長い一貫した歴史のなかで、成文法と慣習法(不文法)はずいぶんと気の長い綱引きをやってきている。もはや勝負がついたと見る人が圧倒的に多いだろうが、筆者は、紀元前6世紀から19世紀の末まで、紆余曲折や浮き沈みはあったにせよ、2000年以上生きつづけたローマ法の観察者として、ずいぷんと遠視になってしまっているので、その特別な眼球を利用しながら、日本の慣習・慣習法の行方をしっかりと見定めておきたいと考えている。

ここで、日本の法の歴史をふりかえってみよう(この部分の記述は、主として、高柳真三氏の御業績によっている)。

(a)国家の成立前にはもちろん成文法など存在しえない。あるのは、せいぜい氏族の不文の法であり、これさえも、タブー・習俗・道徳などと複雑にまじりあっている。この段階では、慣習と言っても慣習法と言っても同じことであろう。(b)604年に聖徳太子が憲法一七条を作成する。これを法と見るか否かは大いに問題だが、一応最初の成文法とみたい。(c)大化の改新(645年)の後、天皇を頂点とする貴族支配を整備・強化するために、隋・唐の優れた法制が導入された。公法中心の成文法である律令格式がこれである。「律」は刑罰法規、「令」は非刑罰法規、「格」は臨時の単行法令、「式」は施行細則にそれぞれ相当する。大宝律令が手直しされて生まれた養老律令(718年)は長く生命を持ちつづけた。(d)律令のある程度の濃度を持った支配は約300年にもおよんだが、平安中期に入ると、荘園の発生もあって、律令は次第に実効性を失っていき、「傍例・通例・習」などと呼ばれる慣習(慣習法)が現実的に重要性を増していった。(e)鎌倉幕府を組織した武家政権は、かなり後になって、荘園的慣習法を抜萃調整し、御成敗式目(貞永式目)を法典のかたちで制定する(1231年)。これも江戸時代まで影響力を失わなかった。成文法としての武家法の成立がこれである。なお、この時期にも、公家法としての律令の支配する領域は残存した。(f)室町時代の初期では、幕府の統制力は強く、式目系統の成文法が前代からうけつがれたが、後に幕府の力が低下しはじめ、権力の分裂を招くようになると、律令・式目などの成文法とならんで、広い範囲の慣習法(先規、先例、先蹤、傍例)が対等あるいはそれ以上の立場で法と観念されるようになる(この法を「大法」「通法」「定法」と名づける学者もある)。(g)没落した守護大名にかわり、戦国大名があらわれた。彼等は、武力を背景に、最高権力の保持者として自らが定立した成文法(分国法・家法)を唯一絶対のものとして提示した。したがって、これは、さきの「大法」にも、また伝統的な規範の一つである道理にも優越する。(h)江戸幕府法(幕藩法)も前の時代の流れをくむもので、ここで武家法が完成される。前代には分国法群が並列的秩序をかたちづくったのに対して、この時代には幕府法を頂点とする上下の関係が確定された点が異なる。また、立法活動ははるかに活発化した。(i)明治期には、周知のとおり、ヨーロッパ法が法典のかたちで継受され、成文法のシステムは一応完成する。

つぎに第3番目の格言は、中世ドイツ特有の状況を示すものであって、一切の法の源が慣習にあることを明瞭にうたいあげている。有名な「古きかつよき法( das alte, gute Recht )」の形容から察知していただけると思うが、「新しい法」などと言うのは形容上の矛盾であって、法は古来の伝統に本質的に由来していたのである。しかし、「悪習は法を作らない( Böse Gewohnheiten machen kein Recht )」、「100年間不正が行なわれようとも、これは一時でも法ではない( Hundertjahre Unrecht ist keine Stunde Recht )」、「誤った慣行は慣習法ではない( Missbrauch ist keine Gewohnheit )」などが明示しているように、慣習それ自体が正義にかなったものであることが要請される点に注目しておこう。一般に、中世ヨーロッパでは、制定法に対して慣習法が圧倒的に優位に立っていたと見てよい。ドイツが、大陸法系のモデル的な国家として、制定法中心の法体制をとっている事実とこのような長い歴史的伝統とはどのように調和できたのであろうか? 法典化されたドイツ法をかなりの比率でとりいれた日本とドイツにおいて、法律と慣習の関係について同じことがあてはまるのだろうか? この点については将来考えてみたい。また、日本における慣習・慣習法と欧米のそれ(それも大陸法系の国々の場合と判例法系の国々の場合とでは事情が異なろう)との間に異質なものがあるかも、重要な課題として残っている。

 

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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。