(第3回)非理法権天

悪しき隣人―ようこそ法格言の世界へ(柴田光蔵)| 2018.11.20
「よき法律家は悪しき隣人」。この言葉が何を意味しているのか、知っていますか?
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年5月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典 法学入門への一つの試み』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています。

(不定期更新)

一見すると中国語風であるが、滝川政次郎氏のご研究によると、これは、メイド・イン・ジャパンで、南北朝時代の楠木正成の軍旗に印されていたという言い伝えもあやしく、江戸時代初期のものだそうである。太平洋戦争末期、特攻隊の基地や回天を搭載する潜水艦にこの五文字をそめぬいた旗があったという。

意味はこうである。「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」。ここには非情なまでに価値間の序列が明記されている。

まず「非」は「是」や「理=道理=条理=日本的自然法(?)」の対立概念で、「是々非々」「是非」、「理非曲直」などの熟語でおなじみのはずである。言葉として見れば、これら両者のあいだの勝敗はまず誰の眼にも明らかであろう。問題は誰が理と非を識別する地位についているかということであるが、国家の裁判がその作業を担当しているかぎり、一応は適正な認定手続が設置されているものと見ざるをえない。他方で、理非にかんしては、多数の眼が光っている世間も、なかなかの判定力を持っている。世間の眼は決して節穴などではない。

つぎのテーマであるが、ここでの「法」とは、日本古来の用法にしたがい成文法・制定法のことで、われわれが普通「法律」と呼んでいるものに相当する。したがって、この格言によると「法がしゃしゃりでれば、道理がひっこむ」(筆者の造語――念のため)ことになるが、これは、何はともあれ法律秩序はそれ自体として尊重する、という思想を表現するものと読めよう。こういった考え方は中国における戦国時代の法家に由来しており、彼らの思想は、遠く日本に到来し、奈良・平安から鎌倉・室町にまでその影響がおよんでいるとのことである。ごく近いところでは、豊臣家滅亡の元和元年(1615年)7月7日徳川家康の発布した武家諸法度第3条には、「法をもって理を破るも、理をもって法を破らざれ」と明示してある。もっとも、20年後には家光によってこの条項は削除された。そして、ある学者によると、徳川時代も中期に入ると、儒学の影響からか、日本中世法の1つの特徴である「理は法に勝たず」の原則は崩れて、「非法理」、「理主法従」へと逆転現象が生じ、これが幕末まで不変の信条となっていたとされる。明治以後現代にいたるまでの100年間にも理と法の関係には依然として複雑なものがあるように思われる。

「権」は「帝王の権力」のことで、近代風に読みかえれば「政治権力」となろうか。支配者と法との関係については、「政治は法律に適合させられるべきである(第5回掲載予定)」で扱うことにするが、とりわけ東洋においては、支配者の制定する法は臣下を縛るものでしかなく、支配者の足かせとはならないと考えられているから、このような優劣が生ずるのである。

最後に、「天」というのは、「天網恢々疎にして漏らさず」、「天道おそるべし」、「天道見通し」、「天知る地知る我知る」、「天罰」、「天子」の「天」であり、中国人の考える「至上万能の神」である。皇帝は、自身の支配する人民に対しては一切責任を負うことはないが、天に対してはきわめて微々たる存在で、天の咎めをうければたちどころに自身の地位を奪われるのであるから、権と天には格段の開きがある。

ところで、現代において、「天」にあたるものは何であろうか? これを「経済的法則」、「歴史的社会の必然性」と唯物論的に考える人もあろうが、一方で、依然として、異説ながら、天皇制の背後に「天」のような何かが控えていると考える人もあるかもしれない(もっとも、天が天子を見放すこともありうるというドラスティックな放伐の中国思想に――革命の哲学とも形容できよう――は日本人の感覚とソリがあわず、わが国に移しかえられなかったから、この線はまずないであろう)。天に対する信仰を神道や仏教の思想とまぜあわせて、「天皇が天そのものである」とする強烈なロジックもあっただろうし、もう少しゆるいものとして、天皇が、天帝である天照大神の子孫が国土に降って肉体をもった明神(あらみかみ)・現神(あきつかみ)であるとする考え方もありうるだろうし、宗教的な色あいを加味するなら、仏教そのものが「天」になりうるかもしれない。西欧については、世俗的なものを探すとすれば、「自然法」(人間の本性に妥当根拠をもち、人間の営みにもとづかずに存在し、時と場所を超越して普遍的に妥当し、しかも客観的に認識可能な法)であり、宗教的なものを探すとすれば、キリスト教がそれにあたるのだろうか。

近代法のもとに生きる現代の日本人には、「非理法権天」の格言はタテマエからすれば過去のものとなってしまったが、それでも、われわれは、理が法にも権にも勝てないような残念な状況はもはや現代に存在しないと誇ってよいのだろうか? 「泣く子と地頭(じとう)(江戸時代の大名、旗本のこと)には勝てぬ」というようにあきらめてしまう気の弱い人はもういないのだろうか?

裁判が真の意味で庶民のものとなっていない現実のもとでは、理といえどもそれ自体を貫徹するのは容易ではなく、どうしても法機構による認定・認証が必要である以上、問題は依然として残っていよう。話は飛躍するが、テレビ番組のなかで「大岡越前守」、「水戸黄門」、「必殺仕事人」が何回となくシリーズを更新し、根強い人気を保っていることは、世間が、今もなお、理の貫徹を心から求め、せめてフィクションのなかで心を慰めている証拠だと筆者は考えている。「大岡裁き」は、史実はともかくとして(そういうことはもはやどうでもよい)、権力機構の内部において理を法に勝たせるところに1つのポイントがあるし、水戸黄門様は、理が、法はもちろんのこと権をも破るシンボルとして、拍手喝采されているし、仕事人グループは、言うまでもなく犯罪者集団ながら、さきの2つのオモテ業とはちがい、ウラのビジネスとして、法と権とをひとまとめにしてプチ破る役割を果しているのである。

理非の問題については「理の嵩じたるは非の1倍(第4回掲載予定)」でもあらためて別の視角からみてみよう。

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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。