『家庭裁判所物語』(著:清永 聡)
はじめに
皇居に近い北の丸公園に「国立公文書館」があって、誰でもここで古い歴史文書を見ることができる。
私は以前、取材で3年あまりここに通い、戦争裁判の記録と政府の公文書を閲覧していた。歴史文書を読むと、自分の思い込みや誤った先入観に気づかされることが少なくない。
例えば、敗戦直後の政府は、戦争に負けた衝撃からすっかり虚脱し、しばらく機能停止に陥ったと思っていた。ところが中央官庁の役人たちは、昭和20(1945)年8月15日がすぎると、すぐに戦後の課題処理に向けて動き出している。
「次官会議事項綴」というタイトルの文書がある。敗戦直後の8月22日から9月末までの1か月あまりで、実に27に上る議題を検討し、処理していることが記録されている。
8月24日には「臨時復員対策委員会規程」、8月30日には「外地(樺太含む)及び外国在留邦人引揚者応急援護措置要綱」を決定している。敗戦時、国外にいた日本人は、軍人・軍属と民間人合わせて600万人を超す。これだけの人が、荒廃した日本へ引き揚げてくるのである。準備を急がねばならなかったのだろう。
その後も罹災都市に簡易住宅を造ることや、食糧の輸入を連合国と交渉することなどを、矢継ぎ早に検討している。8月30日には「戦災者越冬対策要綱」もまとまった。まだ8月なのに、もう冬のことを考えている。
残された文書からは、統制や抑圧から解放された官僚たちが、在外邦人の保護や、国内立て直しのため、むしろ生き生きと活動していたことが分かる。
その次官会議。9月20日の議題は、「戦災孤児等対策要綱」だった。
空襲などで両親を亡くした孤児は、12万人と言われる。政府は対策の必要性を、早い時期から認識していたのだろう。要綱には保護の方法として「個人家庭への保護委託」「養子縁組の斡旋」「集団保護」の3つが書かれていた。
では、示された方針は、どの程度実行されたのか。
国立公文書館でさらに文書を探してみた。見つかったのは、「国内処理(引揚児童・戦災孤児)」という、広辞苑ほどの分厚い束だった。
そこには全国の自治体で、孤児を収容する施設を造る計画が書かれていた。当時「集団合宿教育所」と呼ばれている。空襲による被害が大きかった東京や大阪、そして原爆で多くの命が奪われた広島などが対象である。しかし食糧も予算も乏しく、1つの施設で受け入れる孤児の数は、数十人程度だった。文書に書かれた計画段階では、全国の収容予定数は1万5,000人。これでは、孤児全体の1割あまりしかない。
文書には、自治体が別の対応に追われている様子も記されていた。
学童疎開をしていた児童が、敗戦後も農村地帯に数多く取り残されていた。こうした児童を、都市部へと送り帰さなければならなかったのだ。だが、両親の安否が不明な子も多い。実際に自宅が焼失し、両親が死亡していたケースが少なくなかった。本来は疎開先でしばらく保護を続けるべきだろう。
ところが子どもたちは、親の安否が確認されないまま、都市部へと強制的に戻されている。文書からは自治体がただ送還を急ぐ印象を受ける。戻されても、親も家も失った子どもたちには、自立することができない。おそらく多くは、そのまま浮浪児となったのだろう。
その後、昭和23(1948)年9月には「浮浪児根絶緊急対策要綱」が閣議決定された。その文書も残っている。
――浮浪児を根絶できない大なる理由が、人々が浮浪児に対して安価な同情により又は自己の一時的便宜によって、彼らの浮浪生活を可能ならしめていることにあることを、一般社会人に深く認識せしめ「浮浪児に物をやるな」「浮浪児から物を買うな」の運動を強く展開して浮浪児生活存続の温床を絶つこと。
どうしてこのような、冷たい言葉になるのだろう。戦災孤児をまるで野良犬のようなやっかい者とみなしている。3年前に示した保護の方針とは正反対である。
そもそも浮浪児が増え続けたのは、前に作った「戦災孤児対策要綱」が成果を上げないためではないのか。そして、疎開先から無理に都市へと送還したことも、原因の1つであるはずだ。
文書には「浮浪児に対する保護取り締まりを連続反復して徹底的に行うこと」とも書かれている。犯罪者のような扱いだ。また、取り締まっても、子どもたちを保護する場所が足りない。児童福祉法は作られたが、まだ施設の不足は深刻だった。結局、送り先のない孤児たちは、多くが再び路上に戻るしかなかったのである。
だが、翌年の昭和24(1949年)年になると、戦災孤児関連の資料に「家庭裁判所」という言葉がたびたび出てくるようになる。
各省庁の文書には、まるで相談窓口のように「家庭裁判所に連絡」「家裁と協議」と書かれている。そして家裁もまた、戦災孤児、とりわけ浮浪児となった子どもたちの救済へ、積極的に乗り出していく。
家庭裁判所は、新憲法の理念に基づいて生まれた。
昭和24年1月1日にスタートした、新しい裁判所である。その仕事は幅広い。戦災孤児の「保護」や「養子縁組」。さらに、外地から引き揚げ、戸籍をなくした人たちの「就籍」も、戦地で不明になった人の「失踪宣告」も、家庭裁判所の担当だった。日本国憲法が法の下の平等を保障しても、戦争の被害によって、特に女性や子ども、高齢者の権利は損なわれがちだった。家裁は、戦争で傷つけられた弱い人々を救う役割を、担っていたのである。
その家庭裁判所は、2019年で設立から70年を迎える。
社会は大きく変わったが、家庭裁判所には、社会の中で弱い立場の人々を支援するという一貫した理想がある。それは、戦前の伝統的な司法からは、「異端」とも言われた。この「異端」の裁判所は、果たして誰が作り、どのように整備されていったのだろう。そして、設立当時の理想は、時代に沿ってどのように受け継がれ、あるいは変化していったのか。
取材を始めると、そこには「家庭裁判所の父」というべき裁判官がいることが分かった。
強い個性とリーダーシップを持つこの人物は、家庭裁判所と同様に異端の存在であったがため、没後も顕彰されることなく、半ば忘れ去られた存在だった。今回、長く消息が判明しなかった遺族がようやく見つかり、今まで知られていない多くの話を聞くことができた。
それだけではない。彼のまわりには、開戦前年にアメリカの家庭裁判所を視察した“殿様”裁判官や、戦後初めて最高裁に採用された女性裁判官など、司法の理想を託し、あるいは少年や女性の権利を守りたいと願う人々が続々と集まって、家庭裁判所を作り上げていたのである。
目次
第1章 荒廃からの出発
1 「家裁の父」帰国する
2 みじめな最高裁
3 家庭裁判所の前身
4 「愉快そうなオジさん」
5 BBSの生みの親
6 アイデアマン
7 殿様判事ニューヨークを観る
8 新少年法と「ファミリー・コート」
9 女性法律家第一号
10 「少年」と「家事」の対立
11 進まない設立準備
12 元旦の家裁発足
第2章 家庭裁判所の船出
1 屋根裏の最高裁家庭局
2 家裁の五性格
3 家裁職員第一期生
4 「高級官吏」調査官
5 二つの雑誌
6 村岡花子と対談
7 戦争被害者のために
8 戦災孤児を救う
9 民間の施設に託す
10 孤児の養子縁組
11 ヒロポン中毒
12 少年審判の心得
第3章 理想の裁判所を求めて
1 日本婦人法律家協会
2 夜に裁判所を開く
3 履行確保
4 建物の苦労
5 GHQとの交渉
6 滝に打たれる
7 日本一の所長さん
8 司法の戦争責任
9 理想の学校
第4章 少年法改正議論
1 多忙な第三課長
2 少年事件の「凶悪化」
3 示された試案
4 「原爆裁判」
5 女性裁判官の代表として
6 少年友の会発足
7 真っ向からの反論
8 長官を怒らせる
9 「首を絞められてじっとはしない」
10 ゴールト判決
11 もう一つの東大裁判
12 宇田川の遺言
第5章 闘う家裁
1 再結集した人々
2 波乱の幕開け
3 長官のバックアップ
4 烈しい応酬
5 場外戦へ
6 「誤算と誤解」
7 水面下の妥協案
8 日弁連の猛反発
9 管理と統制へ
10 「整備点検の時代」
第6章 震災と家裁
1 烈しい揺れ
2 家裁は弱者のために
3 被災者に寄り添う
4 少年事件
5 震災孤児を救う
6 家裁は死なず
あとがき
書誌情報など
- 清永 聡:著
- 紙の書籍
- 定価:税込 1,944円(本体価格 1,800円)
- 発刊年月:2018年9月
- ISBN:978-4-535-52374-6
- 判型:四六判
- ページ数:284ページ
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