『離散幾何解析へのいざない—数学から物質科学へ』(著:小谷元子,内藤久資)
はじめに
数学は科学の言葉を作る学問である.ガリレオ・ガリレイが「宇宙という書物は数学の言葉で書かれている」と言ったことは有名である.17 世紀の科学革命では,「科学」とは自然界の現象をつかさどる機構を理解するものと定義され,そのために「自然の数理化 (数理モデル化)」と,それを確かめるための「実験」という手法が確立された.数学は,科学の言葉を提供すると同時に,そこから触発されて発展してきた.本書は,物質を記述する数学として,特に現在の物質科学が関心をもつ物質の「微視的構造」と「巨視的性質」の関係を明らかにする「離散幾何解析」の最近の発展を紹介する.物質は,お互いに相互作用をする原子たちの集合体である.現代の観測・制御技術は,微視的な世界,例えば原子を一つ一つ見て,扱うことを可能にした.一方で我々が日常的に使用する物質に対しては,それらの持つ巨視的な性質が興味の対象である.例えば,ある物質がどのような伝導性を持つかは巨視的な性質であるが,これを実現する物質の創成には,微視的な構造が関わってくる.
巨視的な世界における現象は,物質の幾何構造と解析的な性質の関係を解き明かすことで理解できる.「幾何解析学」は,このような問題に,幾何と解析の両面から関わる数学の領域である.一方で,微視的な世界は,離散的な構造から成り立っているため,従来の幾何解析では扱えない.「離散幾何解析」とは幾何解析の離散版であるが,離散の世界のなかで展開すると同時に,離散と連続の間をつなぐ幾何学ともいえる.物質の言葉でいえば,巨視的世界と微視的世界の間をつなぐ,より正確には,階層構造の異なるスケールの階層間をつなぐ幾何学である.つまり,与えられた原子の集合体と物質の性質の関係を解明することが,離散幾何の動機である.我々の文脈でいえば,離散的ネットワーク構造で相互作用する原子配置と,それを巨視的に観測できる物質としての連続体の関係を数学によって解明したいということになる.
物質がどのような性質や機能を持つのか,それらがどのようにして発現するのかという機構は,非常に複雑である.物理現象には,さまざまな特徴的なサイズがあり,それぞれを司どる物理法則がある.しかも,それらは特徴的なサイズに閉じているのではなく,異なるサイズが相互作用し,有用な性質や機能を発現するのである.このことをよく理解するためには,物質を階層構造をもつものとして理解する必要がある.すなわち,原子が原子クラスターや分子を構成し,このクラスターがネットワークを構成する,……というように,あるサイズの構造が一つ上の構造を構成するという階層に注目し,各階層について詳しく調べると同時に,階層間の関係を理解することが鍵になる.我々はこの階層構造を「階層ネットワーク」として理解することを目指している.
一般的に関心を持たれる物質の機能は,機械的な機能と電子的な機能である.機械的な機能には,さまざまな変形に関する強度や変形の力を加えたときに現れる粘性・弾性などがあり,電子的機能には,伝導性や磁性などがある.原子配列が与えられれば,「原理的には」シュレーディンガー方程式を解くことでその原子配列を持つ物質の性質を予言できる.しかしながら,実際には,現代の高性能計算機をもってしても,それは簡単な計算ではない.扱える原子数は意味のある原子数とはほど遠い.そのために上手な近似手法が開発されている.
また,仮に計算機の性能が向上して大規模計算を可能にしたとしても,その計算が完全なブラックボックスとなる場合には,必ずしも,物質の「構造と機能の解明」という意味での理解が深まったことにはならない.そこで,データを直観的に意味が理解できる「幾何学的なデータ」へと変換し,そのデータに階層構造を与えることで,ブラックボックスを透明化することが求められる.
よい性質や機能を持つ物質を生成することは,物質科学・材料科学の根源的な課題である.そのためには 2 段階の理解が求められる.すなわち,求める機能を生み出す「構造の特定」と,その構造を生成するための「環境の特定」である.この第一段階を意識せずに,物質を生成するときの環境を表す物理変数 (温度,圧力など) や組成などと物性や機能の関係を調べることで物質生成を目指すことは効率がよくないし,さらに,そのように環境変数と原子配置から機能を計算することは,多くの有益な情報を見逃し,物性や機能を発現する本質的な構造を特定する機会を失うことにもなる.数学には「形」を記述する言葉がたくさんある.これを導入することで,直接的に構造と物性・機能の関係を調べることができる.特に冒頭にも述べたように,原子などの微視的な離散構造を記述し,巨視的な物性を表す解析的な性質を調べることが,現代の物質科学の要請に応える数学であるといえる.そこで離散幾何解析学の登場ということになる.
本書では,離散幾何解析の基礎と物質科学への応用例を,なるべく平易な言葉で紹介する.特に数式などはできるだけ避け,図を多用してアイデアを伝えることに力点を置く.
第 1 章では,離散幾何解析の数理的な知識を速成的に学ぶ.この章は本書で扱う数学の基礎知識を紹介しているので,必要に応じて読んでほしい.以降の章では,これらの知識を前提とはせずに,話題を提供している.第 2 章ではスケール変換による離散的な現象と連続的な現象を「結晶格子」を題材に,第 3 章では結晶の持つ大域的な秩序 (周期性) 構造は持たないが,観測される回折像から隠れた秩序を持つと考えられる「準結晶」について紹介する.特に,回折像は構造のフーリエ解析で表現できるので,フーリエ解析の一般化の動機付けにもなっている.ここまでは,空間のなかに広がった構造に関する離散と連続の関係を解明するための離散幾何解析についてであるが,第 4 章では「低次元構造」について紹介する.曲面の離散化である「離散曲面論」の定式化と,離散曲面の背後の連続図形を見出す手法を構築する.第 5 章では物質科学,材料科学と数学が連携することで可能となった研究例を紹介する.
2025 年 3 月