『データ分析のための経済数学入門—初歩から一歩ずつ』(著:丹野忠晋)
はじめに
この本は,データ分析のための基礎的な数学や,経済分析のための数学を学ぶ教科書です.IT 技術の発展により大量のデータを機械学習や経済学で分析し,その結果を政策やビジネスに反映することが可能になりました.本書の目的は,このような急速に発展する分野で,文系大学生がデータ分析に必須の基礎数学を修得することです.特に,データ分析ではベクトルや行列の知識が不可欠です.しかし,私の知る限り,データ分析に焦点をあててこの分野の数学の基礎を学べるテキストはほとんど存在しません.本書は,この重要な空白を埋めることを目指しています.
例えば,経済学部の学生が微分を用いた最適化手法を学んだ後,データ分析を学ぶための基礎数学をスムーズに修得できるよう本書は設計されています.最近,大学では「データサイエンス学部」など,データ分析を学ぶ学部・学科が相次いで設立されています.本書は,そうした学部の学生が初歩的な内容の数学を学ぶ際に役立つ 1 冊です.また,そのような学部で教える教員にとっても,専門のデータ分析や計量経済学,機械学習を教えるうえで必要不可欠な基礎数学の教科書となることを目指しています.
私の前著『経済数学入門—初歩から一歩ずつ』は,基本的な関数や微分を用いた初等レベルの最適化手法が学べる教科書として,好評を博しております.本書は,その『経済数学入門』を読んだ後,さらにベクトルや行列,多変数最適化,最小 2 乗法を学びたい読者にとって,次のステップとなるテキストとして位置付けています.しかし,『経済数学入門』を読んでいない人にとっても,独立してデータ分析のための基礎数学を学べるよう工夫を凝らしています.
『経済数学入門』は,従来の経済数学や数学の教科書に囚われることなく,学習者に分かりやすい章立てや説明を心掛けました.高校レベルの基本的な事項を丁寧に解説して,できる限り図や数値例を用いて直観的な理解を促すため,様々な工夫を施しました.本書でもその精神を引き継ぎ,データ分析のための数学を学んでいきます.データ分析で主に使用される数学やその学び方に関しては,まだ確固としたコンセンサスが得られていない状況です.しかし,できるだけ従来から学ばれてきた数学の基礎をしっかりと修得できるよう配慮しています.
ベクトル・行列はデータ分析にとって必須でありながら,高校の学習指導要領の改編により,学習の機会が限られています.2022 年度から実施の学習指導要領 (平成 30 年告示) では,ベクトルが「数学 C」に移動して (前の学習指導要領では「数学 B」),多くの文系学生はベクトルを学ばずに大学に入ります.行列は「数学 C」で学ぶことになっていますが,その前の指導要領では「数学活用」で扱われていました.
高校のカリキュラムに関係なく,データ分析や経済分析の基礎を固める必要があります.そのため,基礎的な関数や 1 変数の微分を学んだら,早い段階でベクトルや行列に慣れて平面や空間の図形に親しむことが,大学高学年のデータ分析や経済学の勉強にとって重要だと考えています.経済学を長年教えてきて,多変数のトピックスになると学生の理解が著しく落ちることを見てきています.2 変数関数で関数値を含めて 3 次元で数学対象をイメージすることは,データ分析や経済学の理解に大変役立ちます.
一方で,確率・統計分野は「数学 I」「数学 A」「数学 B」で取り上げられ,高校の段階で広範囲に推定や検定の基礎を学んでいます.標準的な文系の大学のデータ分析では,データをエクセルシートの配列にして各種の操作を行ない,最小 2 乗法などでモデルのパラメータを推定します.このような分析を行なううえで,データを格納する行列や,その推定手法の背後にある数学的な構造に親しむことは大変重要です.
本書の第 1 の目標は,ベクトルと行列の計算を通じて最小 2 乗法を深く理解することです.この手法によるパラメータ推定が,本質的に最適化問題であることを強調しています.経済学を学んだ人にとって,最適化は馴染み深い概念でしょう.また,機械学習を学び始める人でも,最初に最小 2 乗法に触れることが多いはずです.この手法を徹底的に理解することで,ニューラルネットワークやサポートベクターマシンなど,より複雑な機械学習アルゴリズムの理解も容易になります.つまり,本書は最小 2 乗法のマスターを通じて,ベクトルと行列の特徴,計算方法,そして有用性を学び,その操作に習熟することを目指しています.
第 2 の目標は,2 変数関数やベクトル値関数の微分を分かりやすく解説することです.ベクトルや行列を用いて,これらの概念をより明確に表現します.初学者向けの入門書として,過度な一般化は避け,具体例や図を多用しながら解説を進めます.2 変数関数の分析で得られる直観を活かしつつ,n 変数の場合では 2 次形式を中心に学びます.さらに,多変数最適化問題の 2 階の条件や制約付き最適化問題を,行列で簡潔に記述する方法を学びます.制約付き最適化問題では,ラグランジュ乗数法を用いて問題を表現する手法を習得します.これにより,制約のない最適化と同様のアプローチが適用できることを理解し,最適化の体系的な解法を身に付けることができます.
標準的な数学の教科書では,1 変数の微分の後に積分や級数の理論が続き,多変数の微分にたどり着くまでに時間がかかります.しかし,経済学や機械学習で用いられる最適化手法を学ぶうえで,多変数の微分は特に重要です.そのため,比較的早い段階で多変数の微分に触れると,この分野での学習を容易にします.積分も重要ではありますが,確率や期待値の学習で学ぶとよいと考えております.
第 3 の目標は,上記の 2 つの目標を通じて,最適化手法を「微分してゼロ」という解析的な側面と,「直交性」という幾何学的な側面の両面から理解することです.通常,微分積分学と線形代数学は別々に学びます.ベクトルや行列を用いることで,微分に関連する概念をより便利に表現できます.さらに,両者のあいだに深い関連性があることを実感できれば,数学的な洞察力が大いに深まるでしょう.
本書および前著は,経済学の大学院入学前の準備として,経済数学の基礎を確実に固めるのに適しています.特に,社会人の方々にとっても,自習書として最適です.実際,同志社大学商学部の内藤徹先生のように,大学院進学の条件として前著で勉強することを求める先生もいらっしゃいます.
本書の学び方を紹介します.第 1 章は連立 1 次方程式を復習しつつ,推定の問題や最適化の導入を行ないます.最小 2 乗法の基本的なアイデアも提示します.授業で本書を使用する場合は,初回に基礎概念の復習と,何を修得するかを紹介するとよいでしょう.第 2 章はベクトルについて,矢線ベクトルを中心に学びます.類書と違ってベクトルの公理を提示しています.この後の第 3,4,5 章で,ベクトルの学びが 2 次,3 次,n 次と続きます.その都度前に戻って確認するとよいでしょう.また,不慣れな初学者は少しずつ勉強していくとよいでしょう.ある程度勉強をしている人やそのような学生を対象としている教員は,適宜省略していくとよいと思われます.そのなかでも内積,正射影ベクトル,1 次従属と 1 次独立はしっかりと学んでほしいと思います.
第 6 章はいよいよ行列の導入です.ここでは計算を中心に学びます.基本的には 2×2 行列を中心に学びます.計算に慣れたら,第 7 章では線形写像としての行列についてと,連立 1 次方程式への応用を学びます.時間がなければ連立 1 次方程式の理論を中心に学ぶとよいでしょう.
第 8 章では 2 変数の微分に入ります.極大・極小の学びは必須です.第 9 章のベクトル値関数の微分は,等高線と勾配ベクトルが直交する部分だけでも理解するとよいと思われます.第 10 章では条件付き最適化について,ラグランジュ乗数法を紹介します.是非とも点と直線の距離の公式をラグランジュ乗数法で解いて,ベクトルで学んだ公式が導出できることを確認してほしいと思います.
第 11 章の 2 階微分は,混合 2 階偏導関数の対称性を中心にして学んでもよいでしょう.第 12 章の 2 次形式の目標は,2 次式に限定した n 変数関数の微分をマスターすることです.最適化の 2 階の条件や,最小 2 乗法の推定量の導出をしっかり学ぶ場合は必須です.第 13 章の 2 階の条件では,1 変数関数との類似や行列の使い方を学んでほしいと思います.第 14 章は本書のクライマックスです.第 1 章の例を再び用いて多変数の微分を行ない,ベクトル・行列を操作して最小 2 乗推定量を導出します.練習問題は期末試験やレポートにも向いているでしょう.
この本を読了してデータ分析のための数学に興味をもったら,各々の分野の教科書や専門書を紐解くとよいでしょう.その際に,本書で学んだ様々な解説が,より精緻に展開されていることに気付くはずです.
本書の完成には多くの方々の助力がありました.まずは日本評論社の吉田素規氏と道中真紀氏には,執筆が滞りがちな私を励ましていただきました.日本大学経済学部の多鹿智哉先生には,初期の原稿に様々なアドバイスをいただきました.拓殖大学政経学部の講義やゼミナールで使用した際には,多くの学生からフィードバックがありました.須山郁夫氏には LaTeX のタイプを,千葉大学大学院融合理工学府の梅原舜氏には LaTeX で美しい図を描いていただきました.丹野研究室の本荘浩子氏には,いつも原稿の整理でお世話になりました.すべての方々に感謝いたします.
最後に,怠けがちな筆者をいつも笑顔で励ましてくれた家族—妻・佳花と,自宅のパソコンに興味津々な息子・日向豪—に深く感謝いたします.
令和 7 年 3 月