(第4回)学名のお話 Homō nosce tē ipsum/人間 汝自身を知れ
Homō nosce tē ipsum
ホモー ノスケ テー イプスム
(人間 汝自身を知れ)
学名のラテン語
この連載の(第1回)「ラテン語は死語なのか?」でも述べたように, ラテン語は必ずしも文学や哲学の言語ではなく, 必ずしも古代・中世の言語でもなく, むしろ近代の言語でもあり, しかも, 文学や哲学や法学等の文系だけの言語では必ずしもなく, 理系の科学の言語でもありました. ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)やニュートン(Isaac Newton, 1642-1727)の言語だったと言えば分かりやすいかと思います. 動植物図鑑や解剖学の教科書を開いてみれば, そのことが実感できるはずです. あるいは, 自動車の部品や機能を表す英単語の語源をチェックすれば, 自動車はローマ人が発明したのではないかと思われるほどです. 自動車や解剖学の専門用語に見られるラテン語はさておき, 今回は, 動植物の分類学にみられるラテン語, つまり動植物の「学名 scientific name」という現象に注目してみることにしましょう. ご存じの通り, ラテン語はいまではもう医学部や理系エリートの養成課程の必修科目ではありません. それでも相変わらずラテン語が動植物学の領域では有益な知識であるとすれば, それは何より「学名」のラテン語によってであろうと思われます.
ラテン語で名前をつけること
現代の学名における命名法の基礎を確立したのが, 18世紀の博物学者カール・フォン・リンネ(Carl von Linné, 1707-1778)であったことはよく知られています. たとえば, みなさんは伊勢海老の学名をご存知でしょうか? 伊勢海老の学名を実例として, 動植物の学名について復習してみましょう. 「伊勢海老」の学名は, Panūlirus japonicus(パヌーリルス ヤポニクス)です. 「パヌーリルス」という, 日本人の舌には非常に発音しにくい単語を含む呼称ですが, これはリンネではなく, 江戸時代に日本にやってきたドイツの医師・博物学者シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796-1866)が名づけたものなのだそうです.
Panūlirus japonicus (von Siebold, 1824) : 学名
Panūlirus : 属名 generic name
japonicus : 種小名 specific name
動植物の学名は上記のように2つのラテン語の名辞から構成されることになっています. この2つの名辞を用いた命名法(2名法, 2名式名称, あるいは2名式命名法 binōmen)は, リンネの考案によるものです. 伊勢海老の場合, Panūlirusが「属」を, Japonicusが「種」を表しています. 「属」と「種」は英語でも genus と species と呼ばれ, これらはすでに英語の語彙の一部になっていますが, 本来はそれぞれ「家系, 生まれ, 民族, 種類」, 「形, 外観, 概念」を表すラテン語の単語 genus とspeciēs です. それぞれ, 古代ギリシア語の γένος(genos)と εἶδος(eidos)の訳語です. リンネによるこの命名法の優れている点は, 学名そのものが各々の種の自然的な性質の詳細を記述することを放棄していることにあります. リンネ以前の命名の習慣は, 各々の種が持っている様々な特徴をラテン語を使って記述するという, どうかすると非常に長ったらしいものでした(正名). 数多くの類似した種の間における形態や性質の違いをこの正名を用いて詳しく記述しようとすると, 落語の「寿限無」のような非常に長い名前になってしまい, たいへん扱いづらかったというわけです. それとは異なり, リンネによって採用された2名法による命名においては, 学名は, 定義されるべき各々の種に関して, 自然界全体の中での位置づけを2語のラテン語で示したラベルに過ぎません. 学名は単なる記号, 呼称に過ぎないのです. なお, 学名に用いられるラテン語は, ラテン語とは言っても, 通常, 学名と見做される属名の主格形(=辞書の見出語)と, その属名を限定する名詞(もしくは属名と性数一致した形容詞)の主格形, あるいは, 属名を限定する名詞の属格形(「〜の」を意味する)だけです. ですから, 学名のラテン語はラテン語の初歩の初歩を学んだ人ならば誰でも簡単に理解できるようなものなのです.
信州大学人文学部教授。専門は西洋古典学、古代ギリシャ語、ラテン語。
東京大学・青山学院大学非常勤講師。早稲田大学卒業、東京大学修士、フランス国立リモージュ大学博士。
古代ギリシア演劇、特に前5世紀の喜劇詩人アリストパネースに関心を持っています。また、ラテン語の文学言語としての発生と発展の歴史にも関心があり、ヨーロッパ文学の起源を、古代ローマを経て、ホメーロスまで遡って研究しています。著書に、『ラテン語名句小辞典:珠玉の名言名句で味わうラテン語の世界』(研究社、2010年)、『ギリシア喜劇全集 第1巻、第4巻、第8巻、別巻(共著)』(岩波書店、2008-11年)など。