(第3回)雑誌「日本評論」11巻4号(1936年4月号)

目次からみる「日本評論」と時代| 2024.02.01
本コーナーは、日本評論社が1935(昭和10)年から1956(昭和31)年まで発行していた総合雑誌「日本評論」について、目次とその周辺(広告、口絵そのほか)の画像を公開するという試みです。雑誌は時代を映す鏡とも言われます。現在の世界/社会情勢を、さまざまな角度から読み解く一助にしていただければ幸いです。なお、その趣旨から、現在では不適切と思われる表現がございますが、画像に変更は加えず出版当時のまま掲載しております。(不定期更新)

今回ご紹介するのは、創刊の翌年、1936(昭和11)年4月号です。
日評アーカイブズでは、「日本評論」を復刻しています。本号は、こちらから。

1 表紙

「日本評論」は、表紙にある通り、前身の「経済往来」を引き継ぐかたちで刊行されました。総合雑誌と銘打ち、政治、経済、社会、文学と幅広い記事を掲載しており、本号の頁数も532頁と、分厚いものでした。

 

・価格:80銭(都税4銭)
・発行:昭和11年4月1日

「日本評論」の価格は、現在の単位に換算すると1500円程度でした。
ちなみに、1935年当時の蕎麦1杯の相場は10銭ほど、蕎麦8杯食べられるお値段でした。

2 目次

特集/時局特集
二・二六事件の教訓……長谷川如是閑、杉森孝次郎
社会主義と自由主義の相関と相剋……山川均、新明正道
無産党の進出と明日への展望……麻生久、加藤勘十
ファッショの旋律……木下半治、鈴木東民
廣田内閣を批判する……室伏高信、清澤洌、金近靖、和田日出吉
馬場財政の検討と将来……山崎靖純、香月保、八木澤善次
社会記事の再認識……石浜知行、大宅壮一、杉山平助
ジャーナリズムは文学を殺戮するか……尾崎士郎、福田清人、阿部知二、龍膽寺雄

 

1936年2月26日に起きた、二・二六事件。本号では「時局特集」として、大きく取り上げています。そのほか、五・一五事件で暗殺された犬養毅の書簡、ジャーナリズムと文学の関係を論じた小特集、徳田秋声の「仮装人物」をはじめとした文芸創作などが掲載されています。

3 二・二六事件特集

二・二六事件とは、陸軍皇道派青年将校によるクーデタ未遂事件で、高橋是清大蔵大臣や齋藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害されました。事件翌日から、天皇の名のもとに戒厳令が敷かれました。この事件をきっかけに岡田啓介内閣が総辞職、廣田弘毅内閣が発足しました。

 

編集後記からは、本号制作の最中に事件が起こり、情報が集まりきらないなか記事を出すことに苦悩する編集部の様子がうかがえます。

◇こんどの編集はその真最中に、二・二六事件にぶつかり、狼狽はなしママかったものの、しばらく手を拱いて成行きを見ているほかなかった。
◇一日、二日、三日、四日、私たちは待機の状態で、ただ空と街とビルディングを眺めていた。

◇原稿の予定も大部はずれたし、はずれなかった人も大部手こづらせられた。雑誌編集者たるまたかたい哉。
◇二・二六事件について言論があまりに限られているので思うように扱うことのできなかったのへ読者諸君とともにまことに遺憾至極である。

(「編集局から」より、一部現代仮名遣いに変更。)

二・二六事件の経緯と「日本評論」1936年4月号制作スケジュール

「日本評論」の発売日は毎月1日なので本号は4月1日、表紙の記載をみると印刷納本日は3月16日でした。事件勃発以後の制作期間はわずか20日間、編集後記を読むと、そのうち事件直後の4日間は成り行きを見守ることしかできなかったとあるため、特集の執筆者への依頼から校了までのスケジュールはかなりタイトなものであったと想像できます。特に、廣田内閣発足以後は納本まで8日間しかなく、つぎので紹介する「廣田弘毅内閣を批判する」は、非常に速報性が高い記事であったといえます。

4 廣田弘毅内閣を批判する

「廣田弘毅内閣を批判する」という小特集も組まれており、廣田内閣の外交政策・軍事政策を厳しく批判した論稿が見られます。

 

5 第二次世界大戦へと向かうヨーロッパ

イタリア・ドイツのファシズムに揉まれる大衆の混乱を、分析しています。本号の刊行から約半年後、日独防共協定が締結され、その1年後にはイタリアが加盟して日独伊の三国協定が結ばれることになります。

 

6 わが闘争の記(加藤勘十)

第19回衆議院議員総選挙は、選挙の腐敗を是正するために全国に設置された、選挙粛正委員会のもとで行われた初めての選挙でした。当時の有権者は、満25歳以上の男性、有権者数は約1450万人でした。この選挙で全国最高得点で当選し、のちに芦田均内閣で労働大臣を務めた加藤勘十の選挙奮闘記が掲載されています。選挙費用の工面の方法や、選挙中の演説活動に対する当局からの不当な干渉について書かれています。

7 蘆花を語る(徳冨愛子)

明治屈指のベストセラー『不如帰』作者であり、徳富蘇峰の弟、徳冨蘆花の没後10年。妻の徳冨愛子氏のインタビューが掲載されています。結婚生活の様子のほか、蘆花が同志社大学に通っていた際、学長の新島襄の姪にあたる山本久栄と恋愛関係になったエピソードなどが語られています。

オマケ:広告を見てみよう!

他社広告

たくさん掲載されていますが、いくつかご紹介します。

 

つけているだけで頭が良くなる(⁉)合理的健脳器「エヂソン・バンド」。大正時代からつづき、昭和時代も多くのひとに愛された「明治チョコレート」。しかし、戦争の影響で、本号の刊行の翌年(1937年)には、カカオ豆などの輸入制限が発令されてしまいます。

自社広告

美濃部達吉『法の本質』の第1版は1935年に刊行されましたが、発行まもなく発売頒布を禁止されました。発禁処分から1年後、こうして大きく広告が打たれています(「日評アーカイブズ」1)にて取り扱いがあります→『法の本質』)。

 

法律時報2)は、現在も刊行されている法律専門雑誌です。
ここに掲載されているのは第8巻第2号の広告。
責任編集として銘打たれている末広厳太郎の連載もあります。

 

なお、本号(「日本評論」1936年4月号)の復刻版は、日評アーカイブズから購入できます。

脚注   [ + ]

1. 日評アーカイブズ」では、雑誌「日本評論」ほか、戦前の書籍を中心に、電子書籍(PDF)・紙の本(POD)を販売しています。
2. 「法律時報」とは、時事法律解説をはじめ、中堅法律家のライフワークともいえる研究論文発表の場として定評のある唯一の専門誌。創業以来、「市民のための法律学」の立場に立ち、問題提起を行ってきました。最新の法律問題、判例情報にも素早く対応しつつ、理論的に深みのある本格的な分析を行っており、特集は、学界のオピニオンリーダーともいわれます。