女性の安全安心を脅かすものは何か――LGBT理解増進法案に関する議論の混迷(立石結夏)

特集/LGBTQ・性的マイノリティと法――トランスジェンダーの諸問題| 2023.06.23

LGBTQあるいは性的マイノリティの人権問題が日本社会の中で注目を集めるようになってから久しいですが、未だその人権保障状況が充分に改善しているとはいえません。本特集では、まず「トランスジェンダー」といわれる人々の人権問題について、特に法的な観点からの分析や議論を紹介します。

なぜ、シスジェンダー女性の安全の話になったのか

2023年6月16日、「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」(いわゆる「LGBT理解増進法」)が成立した。この法案をめぐる国会議員の発言や報道において、次のような言説が頻繁に聞かれるようになった。

すなわち、「性の多様性が尊重されるようになると、トランスジェンダー女性や女装した男性が女性用トイレや公衆浴場の女湯を利用するようになり、シスジェンダー女性の安全を脅かす可能性がある」というのである。

この言説は、あらゆる点で誤解に基づくもので、トランスジェンダー女性に対する差別と偏見に基づいている。このことは、すでに拙稿「トランスジェンダー女性と「性暴力論」を切り離す」で述べた。したがって、トランスジェンダー女性の女性用施設の利用と、性犯罪・性暴力が無関係であることは、本稿では繰り返さない。

また、シスジェンダー女性、トランスジェンダー女性のそれぞれに、等しく、個人として尊重され、自分らしく生きる権利がある。この当然の前提も、ここで詳細には述べない。

むしろ、ここで筆者が問いたいと思うのは、なぜ、今、そのような言説が止まないのか、なぜ、性の多様性と女性の安全安心を天秤にかけるような議論が始まったのか、である。

なぜ、トランスジェンダー女性が怖いのか

そもそも、トランスジェンダー男性の男性用トイレの利用については、まったく問題視されていない。したがって、性別を越境すること自体の批判は、あまり挙がっていないようである。集中的に議論されているのは、圧倒的にトランスジェンダー女性についてである。

思うに、トランスジェンダー女性の出生時の性別が男性であり、しばしば「生物学上男性」「身体は男性」等と言われて「男性」のカテゴライズで議論がなされている。したがって、この言説は、「男性」が女性用施設に立ち入ること、そのことへの抵抗感は正当なものではないか、そういう問いかけとなっているのである。

その背景には、男性は女性に暴力をふるう、男性は女性の性を搾取する、男性中心社会で女性の安全は保たれていない、そう実感させる過去の事例と将来の可能性が、社会で暗黙に共有されている。そういう社会だから、「トランスジェンダー女性が怖い」という意見が挙がり、そのような意見にも十分な理由と説得力があるのではないか、と一部の人が思ってしまうのである。

つまり、「トランスジェンダー女性が怖い」のではなく、「男性が怖い」のであり、男性が女性を抑圧する社会構造が変わらないかぎり、このような女性の声は止まないのではないか。

どうすれば安全安心を守れるか

これまで、女性たちは、女性だからという理由で、嫌な思いをし、不快な思いをし、満員電車は被害と隣り合わせであり、夜の街で不愉快な掛け声をかけられてきた。家に帰れば安全であるとも限らない。たとえ家庭が安全であったとしても、家事、育児、介護を、女性だからという理由だけで押し付けられる。そういう女性は、2023年現在でも少なくない。

そのような中、メディアやインターネット上の議論において、女性用施設(女性用トイレや女性用浴場等)ですら、「男性」と共有しなければならないかのように言われていたら(そもそもこのような見解は誤解に基づくとしても)、それに抵抗感を感じても不思議ではない。

それでは、トランスジェンダー女性を排除することで、シスジェンダー女性は安全になるのかというと、そうではない。男性による女性の性暴力・性差別がなくならない限り、この言説はなくならないであろう。

むしろ、筆者は、トランスジェンダー女性を排除するような言動こそ、女性の安全安心を後退させると考えている。なぜなら、トランスジェンダー女性に対し、一方的に負担を押し付けること、あるいは一方的に制限をかけること、それはまさに権力的抑圧的男性が女性に行ってきたことと同じである1)。誰かを排除したり、制約をかけることで自分たちの居場所を確保しようという発想が、これまで権力的抑圧的にふるまってきた男性の言動そのものだからである。

このような発想は、ジェンダー不平等の構造を強固にするであろう。このような社会構造こそが、女性たちの真の敵であり、私たち女性を苦しめてきたものである。

権力的抑圧的な発想を手本にしてはならない

一部の人たちが、どういう意図であれ、シスジェンダー女性の安全安心を理由に、性の多様性を尊重する動きを積極的に封じようとしている。純粋に、シスジェンダー女性を守ろうという動機によるものかもしれない。そうだとしても、このような一部の人たちは、これまで女性の性被害等、ジェンダー不平等について真剣に取り組んできた様子が見えないのであるが、そのことに加え、あまりに性的マイノリティやその家族に配慮を欠く発言を公に行うことがある。そのような言葉の刃が向けられたその当事者たちに、刃を向けられる理由があるとしたら、その人が性的マイノリティだから、以外に理由は見当たらない。

これはまさに、女性たちが女性であるがゆえに遭ってきた性被害と同じである。

抑圧的権力的な人たち2)が行ってきた言動を手本にし、繰り返すようなことをしてはならない。「法は家庭に入るべからず」という理由で、DV防止法が制定されるまで、夫から妻への暴力は家庭内の問題として内々に解決するよう求められてきた。職場や教育機関内での性暴力は、セクハラが法で禁止されるまで、個人のプライベートな問題として済まされてきた。そして、これらの内々の解決に、男女の力関係が大きく影響してきた。そういうことが当たり前であったのも、まさに性差別的な社会構造の中で、政治家も、組織の上層部も、弁護士も、権力的抑圧的な男性ばかりで構成されていたことと無関係ではない。

ジェンダー不平等の解消に向けて

繰り返すが、女性の安全安心を脅かしているのは、ジェンダー不平等の社会構造である。一部女性が男性と同じように働くことができていたり、一部男性にジェンダーに偏りのない価値観で行動できていたとしても(そういう男性はたくさんいる)、それだけで、男女が平等になったとはいえない。

ジェンダー不平等は根強く、一人ひとりが向き合い、一人ひとりが行動を起こさないと事態は変わらない。

その不平等さゆえに、自分の生活、仕事、家庭それぞれの状況に余裕がなく、居場所がなく、この国の社会構造の話など無関係に思えたとしても、誰かを抑圧して女性たちの自由と権利を確保しようとすれば、それは結局女性たちを苦しめるジェンダー不平等を強固するふるまいである。そしてそのようなふるまいが大きな力となれば、ますます、女性の性差別、性被害はこの社会からなくならないであろう。

それでも、さまざまな情報に接し、トランスジェンダー女性が怖いと思ってしまう女性が安心を得るには、どうすれば良いのだろうか。例えば、性犯罪の実態を知ることは、有益である3)。トランスジェンダー女性を女性用施設に入れることにより、「男性」の入場を許す契機となり、危険が舞い込んでくるのではないか、と不安をあおっても、女性たちの安全が確保されないことは確かである4)

新法を活かす

LGBT理解増進法に対する評価はさまざまにある。

特に、シスジェンダー女性の安全安心を脅かす、という言説によって、同法案の衆議院提出の直前に、急遽、「全ての国民が安心して生活できるよう留意する」という文言が追加された。性的マイノリティへの理解を促進することによって、他の国民の生活の安全安心が損なわれるかのような書きぶりで、不適切である。

しかし、この文言を追加したからには、この法案を提出した与野党、そしてこのような言説を公に展開した人たちには、性犯罪、セクハラ、DV等、特に女性とLGBTQ当事者に押し付けられているジェンダー不平等の解消に向けて、正面から取り組むことを期待したい。


◆この記事に関するご意見・ご感想をぜひ、web-nippyo-contact■nippyo.co.jp(■を@に変更してください)までお寄せください。


「特集 LGBTQ・性的マイノリティと法」をすべて見る

脚注   [ + ]

1. 女性専用車両について若干のコメントをする。女性専用車両とは、電車や地下鉄車両に女性だけ使用できる車両を確保し、男性の利用を排除して、女性の安全安心を確保する民間企業のサービスである。これも一種の、一方の性別が他方の性別を排除して安全安心を確保する取り組みであるが、これは権力的抑圧的であるとはいえない。公共交通機関内の痴漢事犯の発生は年間1000件を超え、駅構内やエレベーター内等を含めると年間2000件以上に上る。加害者・被害者の男女の別がデータにないが、加害者が男性、被害者が女性の組み合わせが最も多いことは公知の事実である。
警察庁生活安全局生活安全企画課「令和4年中の迷惑防止条例等違反(痴漢・盗撮)に係る検挙状況の調査結果」(令和5年5月)
「痴漢事犯の検挙状況等の推移(平成27~令和元年)」(e-Govデータポータル)
2. 当然ながら、権力的抑圧的な言動は、男性ばかりでなく、女性が行うこともあるし、性的マイノリティその他マイノリティが行うこともある。そして、権力的抑圧的な言動を受けた者が、他人に対し、権力的抑圧的な言動を取ることも少なくない。
 当然に、権力的抑圧的でない男性もたくさんいる。他方、権力的抑圧的男性について、個人が尊重され、自由に生きているともいえない。男性特有の生きづらさや心理的社会的圧力が、ジェンダー不平等な社会の原因の一つであるともいえる。
3. ここで、いくつかの情報を提供したい。まずは、性被害のステレオタイプについてである。 女性用トイレで発生する性犯罪とは、見知らぬ人から突然に襲われるようなイメージがある。これは、古くからある強姦神話の一つである。強姦神話とは、性暴力・性被害に持たれているステレオタイプがあるがゆえに、実態と離れ、かえって被害の解明や被害者救済を妨げている信念のことである。そもそも性犯罪というのは、見知らぬ人が加害をするより、何らかの関係性を作り、その関係性の中で起こることが非常に多い。知らない人から突然、というのは少数である。上司部下、親族、教育現場、知り合って数回会った、サークルの飲み会で知り合った等、こういう関係性の中で性暴力が起こっている。そのため、性犯罪被害者は自分に落ち度があると考えて被害を認識できなかったり、周りに相談することができずに悩み、心身への影響が長期化しやすい。加害者はそのような被害者の心理を十分に心得ている場合もある。
法務省において、性犯罪に関する刑事法検討会が令和2年6月から16回にわたって開かれた。ここでは、性犯罪に関し第一線の議論をしている被害者心理・被害者支援等関係者,刑事法研究者、弁護士等の実務家、及び当事者団体が、活発に議論を行った。この議論の全文は、インターネット上で読むことができる。
この検討会の裁判例調査によっても、被害者18歳未満の事件106件において、まったく面識のない人からの性被害はたった2件である。
次に、性犯罪の発生場所についても指摘しておきたい。LGBT理解増進法案の議論の中では、あたかも女性用トイレが犯罪の温床のように議論されがちであるが、全国的にみて、性犯罪の発生場所で多いのは女性用施設ではない。
例えば、大阪府のデータでは、性犯罪事案発生現場として一番多いのは、道路上、住宅、店舗の順である
だからといって、トイレが無防備な状態で良いというわけではなく、安全安心なトイレ設計の議論は必要であるが、誰にとっても安全であることが大前提であろう。
4. ちなみに、上記刑事法検討会の議論を見ても、トランスジェンダーによる性加害や、トランスジェンダーに扮した男性について問題意識を持っている有識者は皆無であったが、トランスジェンダーの性被害についての問題意識は共有されていた。

立石結夏(たていし・ゆか)
弁護士。第一東京弁護士会、新八重洲法律事務所所属。
「セクシュアル・マイノリティQ&A」(共著、2016年、弘文堂)、「セクシュアル・マイノリティと暴力」(法学セミナー2017年10月号)、「『女性らしさ』を争点とするべきか――トランスジェンダーの『パス度』を法律論から考える」(法学セミナー2021年5月号)、『詳解LGBT企業法務』(共著、2021年、青林書院)