『感染症流行を読み解く数理』(編著:西浦博)

一冊散策| 2022.07.06
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

まえがき

これまで新興感染症の流行を繰り返してきたが,僕自身を含めて人間は,どうしてここまで愚かなのだろうかと悔やんでいる.新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) の流行が起こる前まで,何度も何度も本分野を真剣に考え,飛躍的に改善させるチャンスは十分にあった.1980 年代の HIV/AIDS はもちろん,重症急性呼吸器症候群 (SARS) や高病原性鳥インフルエンザ,バイオテロの脅威,さらには,新型インフルエンザの汎世界的流行,エボラ出血熱,ジカ熱….COVID-19 によって,皆さんの生活がここまで深刻に影響を受ける前から,われわれは感染症に対する備えや共生のあり方について日々問われ続けてきた.僕たちはずっとチャンスを与えられ続けてきたのだ.

しかし,僕たちは幾多のチャンスをみすみす逃してきてしまった.感染症の流行データは,数理的・理論的手法を駆使することにより日々分析されている.例えば, 2009 年に発生した新型インフルエンザのパンデミックに際し,「どれくらい感染者数・死亡者数が見込まれるか」という疑問に回答し,「どういった対策を講ずればよいか」「ワクチンの数はどのくらい必要か」を明らかにするために,インフルエンザの流行メカニズムを考慮した数理モデルを利用して,さまざまな分析が実施された.また,国連機関などから報告される世界のマラリア患者数推定やエイズ患者数の将来予測が毎年ニュースで報じられるが,それらは数理モデルを利用した統計学的推定に基づいて算出された値を利用している.感染症の数理モデルに対する社会的ニーズの増大はとどまるところを知らず,感染症に関わる社会のあらゆる場面で数理的手法の応用が求められる時代になったと言っても過言ではない.

一方で,数理モデルを使うための体制は,感染症流行対策を真に左右するほどまでに発展していなかった.理論的な落とし穴を回避しつつ,人類を救うためにはまったく十分ではなかった.今日までの問題をもっと予見できたはずであるし,研究体制を拡充してもっと若手を鍛えることができたはずである.データサイエンスを基盤とした憂国の若者たちが,真剣な目つきで迫りくる感染症に対して構える体制を何重にも構築できていたはずなのだ.

本書はその後悔の上に立っている.というのも,編著者と『数学セミナー』元編集長の入江孝成氏は,氏が編集部に入門したての頃からの付き合いであり,本書は過去 12 年間を通して連載や特別記事などとして執筆してきた著作の集大成としてできている.編著者は,今回の流行で多くのつらい思いを感じ,また,人々がつらい日々を過ごすのを目の当たりにして,本書をもっと早く世に出しておけばと身に染みている.自身の論文や原著研究活動ばかりを優先し,こうやって出版に至ったのは,恥ずかしながら COVID-19 流行開始後 2 年以上が経過した後になったのだ.

感染症流行の観察データを利用した分析手法を理解するためには,「感染過程」と呼ばれる伝播のメカニズムを数理的かつ理論的に深く理解しなければならない.つまり,「感染症がどのように集団内で増えるのか」や「感染メカニズムや接触パターンを理解した上でデータ分析を実施する手段はどのようなものか」に関して,基礎理論を習得することが不可欠である.しかし,感染症の理論疫学に関してまったく経験のない方が数学の話を聞くと,即座に「感染症流行の理論は難しい」という印象を学ぶ前から抱いてしまうことになる.そして,そういった気持ちを少しでも有する限り,感染症が流行る理 (ことわり) を深めていくことが大変難しくなってしまう.そんな食わず嫌いの印象を (特に一般読者の方に向けて) 打破する必要があると編著者は常々感じてきた.このことは,雑誌『数学セミナー』に幾度となく連載をすることになった第 1 の動機である.表現が悪いかも知れないが,本書は基礎理論と応用に関して,最も重要な事項だけを「つまみ食い」した.このようにすることで,読者が持つ数学的な前提知識によらず,最もやさしく解説した「感染症の理論疫学入門書」を提供することを目指した.数理モデルは基礎的なコンセプトと重要な想定さえ理解すればまったく難しくなく,「数学者ではない」という理由だけで尻込みする必要は一切ないことをまず冒頭で述べておきたい.まったく専門外の場で勉学・労働している一般読者の皆さんにとっても,本書が感染症の流行理論に関する理解を少しだけでも深めるきっかけになれば,これ以上の喜びはない.

もう 1 つの執筆動機は,応用をする際のニーズに対応できる感染症数理モデルに関する入門書を提供することである.日本の医学や公衆衛生の現場では,他の先進諸国と比較して感染症の理論疫学に関する研究や数理モデルを応用した分析機会がきわめて少ない.日本の医学研究・疫学研究と数理科学の間では使用される言葉自体が大きく異なり,特に社会実装に役立つモデル活用となれば大きな谷のようなものが存在する.本書では,それぞれの分野を一定の度合で経験した編著者が,橋渡しをする潤滑油の役割を担う書籍を提供することを試みた.もちろん,『数学セミナー』での執筆に相当するテーマばかりが本書に散りばめられているので,学問的視野の重点配分が不十分である可能性は否定できない.日が当たりにくいが内容的にきわめて重要なテーマがカバーできておらず,今後も書籍などを通じて伝授しなければならない本分野内の専門的事項は山積している.

これまで編著者は,幸運にも素晴らしい指導者に出会ってきた.日本においては専門家が数少ない中,入門以降,稲葉寿,中澤港,梯正之の各氏からは基礎理論を教わるだけでなく, 1 つひとつのターニングポイントで適切な道標さえ示唆いただく機会に恵まれた.また,ロンドン大学,チュービンゲン大学およびユトレヒト大学において,感染症流行理論の先駆的実績を有する Roy Anderson, Klaus Dietz, Hans Heesterbeek の各氏からは数多くの解析・応用的方法を学び,盗み取らせていただいた.上述の通り,日本評論社の入江孝成氏の根気なくしては,本書の出版は成し遂げることができるものではなかった.また最後に,新型コロナウイルス感染症の流行対策でいつも遅くに帰ってきてしまう私と,時をともにしてくれる妻・知子と子どもたちに御礼を述べたい.

2022 年 5 月 12 日
京都
西浦 博

目次

  • 第1章 緒論—感染症のコンパートメントモデルと基本再生産数
  • 第2章 エボラ流行の基礎理論
  • 第3章 新型インフルエンザの重大度レベルの数理――感染リスク
  • 第4章 デング熱の数理モデル
  • 第5章 MERSは日本にとってどれくらい危険なのか?
  • 第6章 大規模流行の発生確率にまつわる数理
  • 第7章 直接に観察できない感染イベント
  • 第8章 新型インフルエンザの重大度レベルの数理――死亡リスク
  • 第9章 MERS死亡リスクを早期探知せよ
  • 第10章 ワクチン接種の集団での自然史
  • 第11章 新型インフルエンザの予防戦略(1)—ワクチン接種効果の推定
  • 第12章 新型インフルエンザの予防戦略(2)—望ましいワクチン接種のあり方
  • 第13章 あなたと私の予防接種の駆け引き
  • 第14章 予防接種が「効く」ことの数理
  • 第15章 日本の風疹大流行を解剖する
  • 第16章 予防接種評価の落とし穴—疫学的干渉
  • 第17章 エボラ流行の対策効果と国際的拡大
  • 第18章 汚れた空気はキレイにできるのか
  • 第19章 流行への警戒はどのように終わるのか
  • 第20章 新型コロナウイルスのクラスター収束にまつわる数理
  • 第21章 あとがきにかえて—感染症数理モデル元年に機構と外挿の狭間に立つ

書誌情報など