(第29回・最終回)自白は証拠の女王である

悪しき隣人―ようこそ法格言の世界へ(柴田光蔵)| 2021.05.18
「よき法律家は悪しき隣人」。この言葉が何を意味しているのか、知っていますか?
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年11月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています(内容は付録掲載時のものです)。

(不定期更新)

Cōfessiō est rēgīna probātiōnum.

かなり後代の法格言であって、近世くらいの産物かもしれない。16世紀のカロリーナ刑法典のもとでは、格言として定着していただろう

自白という名詞が女性形であって、「女王」のもつ、えもいわれぬ古きヨーロッパ的ニュアンスもすてがたいので、「女王」と訳しておいた。異論はあると思う。

われわれ普通人の感覚からすると、一方において「天知る地知るわれ知る」であって、ある人物が犯罪に手を染めたかどうかは、天と地以外にはその人が最もよく知ってる以上、彼が「自分がやりました」と一言白状すれば、それで信用して早いところケリをつけてもらいたい、と思われがちである。川や海にすてられた凶器や死体を何も手間ひまかけて探す必要などないだろうとさえ嫌味を言われる。こういう素朴・単純な考え方からすれば、自由意思でなされる自白が「証拠の女王」であっても別にかまわないことになろう。他方において、普通の人々は、自身が本当に潔白であったなら、「やりました」などというようにウソをつくはずはないとも思いがちで、こういう人々には「自白は証拠の女王」であれ何であれ、自白するはずもない人々にはもともと関係がないことになる。ほんとうにそうだろうか? 前者について言えば、たしかに日本では、世界の他の国々に見られないほど異常に高率で自白がなされていて(80パーセント程度)、公判廷で起訴事実を徹底的に争うという硬派人間の比率は低いのだが、それでも、初めのうちは後悔の念やら良心の苛責から「やりました」と素直に観念していた犯人も、時がたつにつれて来るべき暗い運命から逃れたくなり、いったん自白しておきながら気が変って、「あの自白は全部ウソだ」「無理やり自白させられたのだ」と言いたてる輩も当然出てくる。そういうとき、女王陛下(自白)を信じきって何もしないで安心していると、証拠はきれいになくなってしまい、ウソつきが無罪放免されてしまうから、警察・検察側としては、万全の策をとって、自白を手がかりとして事実関係の糸をしっかりとたぐりよせ、物証を集め、犯人の心変りに備えておかなければならないのである。

つぎに、後者については、それがとんでもない思い違いであることをここで銘記しておく必要があろう。再審ではじめて死刑囚から生還した免田栄氏は、「無実ならなぜがんばり通せなかったか、とよく聞かれる。逮捕から三日三晩、眠らせず、食事も水も与えず、正座したひざの上を踏みつけるなどの拷問をうけたので、何をしゃべり、何を認めたのかほとんど覚えていない状態になった」と語っているが、これは旧刑事訴訟法風の取調べのしかたであって現在にはその種のことはまったく存在しないとはたして言いきれるだろうか? 明らかな肉体的な拷問は今はさすがに減っただろうが、精神的に苦しみを与えるやりかたは今も残っているという風評があるのもまた事実である。被害者は、逮捕されたあと最大限通算23日間も外部から事実上はほとんど遮断された代用監獄たる留置場の世界に閉じこめられ、捜査官のほぼ完全な支配下におかれる。この場は、本来の趣旨からはなれて、自白をうるための取調室として大いに活用されるのである。よくある話は、何日間も密室のなかで責めたてられ、「とにかく自白さえすれば楽にしてやる」と誘われて、目の前の安息にすがりつき、「公開の裁判でなら本当のことはきっとわかってもらえるはずだ」と信じて、「自白」なるものをしてしまう。これは、誰にでも起こりうることなのである。検察官の尋問調書は同じ司法官憲仲間の手で作られたということもあって、裁判では――昔ほどのことはないにしても――重要な役割を果すので、いくら「ダマされて自白調書にハンを押した」とか「拷問をうけてそうなった」とか主張しても、容易なことで覆水は盆にかえらない。俗に「過去も現在も自白は証拠の女王」であるなどと言われるのは、刑事訴訟法のタテマエが大きく変っても、捜査実務の運用においてはあいもかわらず「自白偏重」の風潮が根強いからである。

しかし、そうは言っても、現行法はそれ相応の歯止めをしている。

第1の歯止めは、刑訴法第31条第1項の規定するように、証拠能力が認められるのは全く任意になされた自白だけとするものである。しかし、「検察・警察が条文に示されたような行為をやった」と主張するのが、密室でのやりとりで他に証人もいない状況のもとで、被害者にどれほど困難な仕事かは自身をその場においてみればすぐわかることであるから、このタテマエの価値を最大限に評価して安心するには問題があろう。そのようなわけで、日本の風土にはマッチしないことだが、そもそも自白に証拠能力を認めないようにした方がよいという極端な主張にも一理がないわけではない。女王陛下の素姓にはいつも疑いの眼が向けられるのである。第2の歯止めは、同法第319条第2項の規定するように、自白それ自体に100パーセントの証拠能力があっても、これを補強する証拠が存在しなければ、自白だけでは有罪の認定ができないことである。お供のない女王陛下はニセ者かもしれないというわけか。

ところで、歴史をたどると、近世の魔女裁判に典型的に見られるような、拷問による自白の強要というおぞましいやりかたは、とりわけ法定証拠主義(一定の証拠があれば一定の判断をしなければならないシステム)をすてて自由心証主義(証拠の評価を裁判官の自由な判断に委ねるシステム)へと移行するにつれて克服された。また「自白がなければ有罪とはされない」という原則も廃棄されて、比較的近い時代に入り、自白が「証拠の女王」の地位から追い落され、「一王女」ぐらいにまで格下げされたので、自白問題は以前ほど重要ではなくなったけれども、依然として「人が自身に明らかに不利なことをわざわざ告白するのだから、これは信ずるに値する」という理屈は非常に魅惑的であるだけに、その取扱いには十分慎重を期してもらいたいものである。


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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。