(第27回)疑問のある場合には被告人に有利に〔判断されるべきである〕

悪しき隣人―ようこそ法格言の世界へ(柴田光蔵)| 2020.11.05
「よき法律家は悪しき隣人」。この言葉が何を意味しているのか、知っていますか?
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年11月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています(内容は付録掲載時のものです)。

(不定期更新)

In dubiō prō reō 〔jūdicandum est.〕

団藤重光氏によると、これは、フォイエルバッハの好敵手であったシュテューベルが1811年に作ったものとされている。初出はもっと早く、15~6世紀のアエギディウス・ボッシウスという人の作品にあるとか。なお、こういう考え方はアリストテレースの著作にも見えている。

法規上の根拠はかならずしも明確ではないけれども、刑事裁判の鉄則と考えられている有名な格言である。ところで、「疑わしきは罰せず」というマスコミ訳は多義的で、やや問題がある。たとえば英語の〈doubt〉の場合とは異なって、日本語の「疑わしい」には「嫌疑がある」という意味も含まれるから、「嫌疑のあるは罰しないのだ」という風にもうけとられかねない。「もしそうなら一体誰が罰せられるのか?」と皮肉の一つも言いたくなる。前半部を「疑問のある場合(とき、さい)には」、そして、後半部を、原文に忠実に、「被告人に有利に」とか「被告人の利益になるように」とか訳してもらうほうが正確なように思われるのだが……。

さて、民事問題と刑事問題の取扱いのちがいが、とりわけ訴訟において顕著にあらわれてくるのは周知のとおりである。民事訴訟では――挙(立)証責任の分配が前提となったうえでのことであるけれども――、訴訟の両当事者から提出される証拠のどちらの方に重みがあるかというようにして、証明力の強弱を比較しながら、どちらが優位に立つかが決められる。5対5なら微妙で、また別の配慮も働くのだろうが、7対3とか8対2なら、おしくらマンジュウの要領で、押し勝った方に軍配があがる。要するに、蓋然性の強い方が有利に扱われるわけで、常識による判断に接近する点も見られよう。

ところが、刑事裁判では、犯罪事実があるかどうかについて「合理的な疑いをいれない程度の」、あるいは「確実性に密着した蓋然性の程度」の心証が裁判官のもとで獲得されることが必要である。さきの比でたとえて示すなら、有罪となるには、シロ(無罪)8対クロ(有罪)2くらいの割合ではまず問題にもならず、9対1でスレスレ、99対1ならまずまずというぐらいか。そのようなわけで、検察側は「眞っ黒だ」と、攻めたてているが、裁判官のもとでクロと明確に断定できるまでにはいたらない――つまり、シロとクロのまじりあった「灰色の」――心証しか得られないときは、疑問がのこることになるので、この格言の示すように、被告人に有利な取扱いがなされ、無罪がひきだされる。この格言・法原則を別の言い方で表わすと、「無罪の推定」――「被告人は無罪と推定される」――が刑事訴訟法で働いていることになろう。検察側は、推定の板をたおすだけの剛球を投げなければならない。検察側がつねに挙証責任を負うとふつう言われるのはこのことを指す。もっとも、これは、彼らが十分な証拠をあげられなければ、責任をとらされて、クビになるというようなブッソウなことを意味しているわけではない。「説得する任務をひきうける」というくらいのそれほど重くない意味である。それではどうして刑事裁判では、このように検察側に重い負担が課せられるのであろうか? いわば自明のことだが、有罪のあとには死刑を頂点とする刑罰がパックリと口をあけて待っているので、そういうおそろしい運命におちいるべき人の資格は、人権尊重の見地から厳密に審査してあげるのが人の道にかなったマナーだからということになろう。それにもう一つ、巨大な警察組織と一枚岩の検察当局のように、スタッフも資金も知恵もたっぷりで、公権力を駆使できる国家機構を相手にして、弁護人つきとはいえ被疑者・被告人が応戦する以上、正規軍とゲリラほど彼我の戦力に開きがあるので、自然の理に照してバランスをとる意味からしても、国家――つまり検察当局――が完璧で堂々たる勝利をおさめられないかぎりは、やすやすと勝利宣言を出させるわけにはいかないという事情もつけ加えられよう。裁判をゲーム感覚・スポーツ観でとらえる伝統は古代以来欧米に底流として根づよくあると筆者には思われるのであるが、裁判というものを文字どおりの真実を見出す神聖な場と考えがちな生真面目な日本人にはこのような状況を想定することは不謹慎とうけとめられるかもしれない。

先日も報じられたように、ロッキード裁判丸紅ルート事件控訴審の元首相田中側弁護団に、いわゆる「新左翼系」の弁護士も含めて6名の気鋭の弁護士が加わった点が日本人の繊細な神経を逆なでしたようだが、元首相であれ誰であれ、ただ一人の被告人が国家権力と対決させられているさい、正当で合法的な武器なら何でも手にしたがるのは当然であるし、法的弱者に力をかすのも弁護士の重大な責務であるから、ここは、タテマエ論偏重と酷評されようとも、そういう経緯を素直にうけいれなければなるまい。極端な例をもちだすのはルール違反だと言われればそれまでであるけれども、財田川事件、免田事件、松山事件で死刑台からかろうじて生還を許された人があるのを考えあわせると、われわれは「お上」のなさることとして裁判機構に全幅の信頼をおくというわけにはいかず、その独走にブレーキをたえずかけつづけていかなければならない。「疑問のある場合には被告人に有利に」取り扱ってもらおうというのは、潜在的被告人であるわれわれ国民すべてにとって切実な要請である。それに、国家という代物はときには非情なもので、ボヤボヤしていると「疑問のある場合には社会に有利に、被告人に不利に In dubiō prō societāte contrā reum」取り扱われてしまうから、注意がカンジンなのである。人間の歴史においてこういう取扱いはかつて存在したし、これからも決して絶無とはいえないからだ。

これまでこの格言は通常の審級について妥当するものと考えられてきたが、再審がクローズ・アップされてきた現在、再審を貫く鉄則ともなっていることに注目しよう。


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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。