(第26回)法律は不能事を強いない

悪しき隣人―ようこそ法格言の世界へ(柴田光蔵)| 2020.08.19
「よき法律家は悪しき隣人」。この言葉が何を意味しているのか、知っていますか?
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年11月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています(内容は付録掲載時のものです)。

(不定期更新)

Lēx nōn cōgit ad impossibilia.

英法の格言

この格言がもともと意味したのは「不可能なものについては債務は存在しない Impossibilium nūlla obligātiō. 」――つまり、自然的にもしくは法律的に不可能な物を目的物としたり、あるいは不可能な給付を内容とする法律行為は無効である――という格言の示すところに近い事柄であったようである。さらに、民事および刑事の共通の問題として、「過失」が問題となるとき、ある特定の状況下では実行のむつかしい事柄を要求してその人を過失のある状態に追いこむのは酷だという考えを支えるものとしてこの格言を援用することも可能であろう。それに、正当防衛とか緊急避難のさいに、「急迫不正の侵害」や「現在の危難」がさし迫った人に害を甘受せよというのも不可能を強いることになり気の毒なので、なんらかの行動に出ても罰せられない仕組みとなっている。本槁では、この格言のもついくつかの意味のうちの一つとして、いわゆる「期待可能性」にかかわる問題をとりあげよう。

1897年、ドイツ帝国裁判所は、重過失傷害で有罪となった馭者を無罪とした。シッポを手綱にからみつかせ馬車を制御不能においこむクセの悪い馬車馬がいた。馭者はその馬をかえてほしいと何度も経営者に頼んだが、馬が気にいらないのなら会社をやめるがいいととりあわなかったので、失職をおそれた馭者はその馬とつきあっていた。しかし、悪い予感は的中し、ある日、悪い癖を出した馬のために馬車は暴走し、通行人に骨折をおわせたケースである。常識論からすると、われわれが誰かある人の行動を非難し、刑事責任を追及することができるのは、その人が現実になした行為以外の適法行為に出る(違法な行為を行なわない)ことが一般人から見て期待できる状況にある――適法行為の期待可能性がある――ときにかぎられ、行為時の諸事情から見て、誰がその立場にあってもその人と同じような振舞いをするという場合なら、「無理もないことだ」と考えて、その人を責める資格がわれわれにはないと思うのは当然である。「適法行為を期待しえないなら、非難可能性は停止する」と言いかえてもよい。

さて、期待可能性については、これを直接に取り上げる明文の規定がないためもあって、例によって学説の対立が顕著である。責任が超法規的に阻却される点はまず異論はないのだが、理論的位置づけにかんして、故意・過失以外に期待可能性という要素を別個の責任要素として立てる説もあれば、これを故意・過失それ自体の構成要素とする説もあれば、これが存在しないときに責任が阻却されるという消極的意味でとらえる説もある。もう一つの重要な対立点は、いったい誰を基準にして期待可能性の有無を測定するかにかんするもので、平均人標準説、行為者標準説、国家標準説などが主張されている。

しかし、こういった考え方が明確なかたちでうちだされたのは実に20世紀の初めであって、それまでは、行為者が責任能力を保有し、故意・過失を問われる以上は、その者が刑事責任の要件をみたす者として有罪判決は免れがたいと思われていた。期待可能性理論の開発によって、法学的思考は人情にも通ずる常識に一歩近づいたと言えるかもしれない。

それで、日本においては、学説がこの理論をうけいれるとともに、判例も、とりわけ戦争前後の混乱期に、下級審で杓子定規な法の適用をさけるための一種の超法規的な切札としてある種の分野で活用されたが、現在では、世の中が多少とも落ちつき、犯罪の成立を阻止するような他の論法もいくつかありえて、この理論は以前ほどの活躍はしていないようである。最高裁は、正面からはこの期待可能性理論をまだ承認していないし、今後もその認知のチャンスのめぐってくる可能性は低い。「盗人にも三分の理」と言って、犯罪には、たいていの場合、なんらか犯人以外の責に帰せられる状況がへばりついており、犯人の身になって考えてやると、無理もない要素がかならずあるから、期待可能性の欠如をあまり評価しすぎると、刑事司法が軟弱化し、法的安定性を害するおそれがあるからだろうか。


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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。