(第25回)法の不知は害する

悪しき隣人―ようこそ法格言の世界へ(柴田光蔵)| 2020.07.07
「よき法律家は悪しき隣人」。この言葉が何を意味しているのか、知っていますか?
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年11月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています(内容は付録掲載時のものです)。

(不定期更新)

Īgnōrantia jūris nocet.

この形は英法でよく見られるが、ローマ法の法源に根がある。6世紀に学説法となった、2~3世紀のローマ法学者パウルスの命題を簡潔にして作られた。

「害する」という訳語はラテン語直訳調で、「不利になる」とか「弁解とはならない」とか意訳すれば、意味はもっとはっきりしよう。対比調の「事知の不知は許すが、法の不知は許さない Īgnōrantīa facti, nōn jūris excūsat 」は、13世紀の作品とされる。

ところで、法律にたずさわる者でさえも、法規すべてを知っていることなどありそうもないし、いわんや、一般人は法規について正確に知りうる地位にはほとんどない。こういう状況のもとで、もともと法規を知らなかったり、それを誤解して正しい法規の意味内容を認識できなかったことを理由に、ある行為について刑罰をまぬがれさせるようにしては、刑罰の適用できるケースは減少してこざるをえない。実務の運用から言っても、「刑事的な違反を犯した者が法規をちゃんと知っていた」ことを立証しきれないかぎりは責任を問えないことになって、たいへんな手間がかかる。それよりも、「国民は国法を知る」ものと擬制し、多少ともマズいところには眼をつぶり、形式的に違反行為がキャッチされれば、杓子定規と非難されようと一律に検挙するやり方(「知らぬで通らぬ」)の方がコストは安い。

このように、判例は、伝統的に――反対する学説群を尻目にして――刑法第38条3項「法律ヲ知ラサルヲ以テ罪ヲ犯ス意ナシト為スコトヲ得ス」を、上述のように理解していると思われる(もっとも最近では下級審のあたりで風向きもかわりつつあるようだが。なお、学説はこの条文の解釈をめぐりおそるべき対立を示している)。むつかしい術語を用いて多少解説すると、犯罪事実(第二の格言の「事実」)の認識のあることが故意の内容と考えられている関係上、その認識のないこと(「事実の不知」=事実の錯誤)は故意の成立を妨げる(つまり、故意犯としては罰せられない)が、「法の不知」(違法性の認識ないしはその認識可能性のないこと=違法性の錯誤・法律の錯誤)は犯罪成立の要件としては考慮外におかれるので、その存在・不存在は取扱いにまったく関係がないという立場なのである。しかし、ある人が、自身の行動に対して罰を設けている法規のあることも知らなかったり(「法の不知」)、あるいは、たしかに法のあることは知っているが自身の行動はそれにまったくふれないと誤信して(「あてはめの錯誤」)、そのため、彼に、犯罪事実の認識は十分にありながら、違法性の意識(自身の行動が法に反したものであるという認識)がまったくなかった場合には、レッキとした故意があったとして罰を加えるのは責任主義の要請に反し、酷な扱いではないかという疑問がでてくる。世間の人は、行政取締法規などの違反が指摘されても「法律を知らなかったのだから、悪気などないので、カンベンして下さい」ときっと言うだろう。学説のかなりの部分は、こういう一般常識の側に立っていて、違法性の意識、あるいはその可能性のないところでは、故意がなく、したがって犯罪は成立しない(つまり無罪放免)と理解している。故意と言えば、過失以上に刑法では重要なポイントであるのに、こういうところで学説と判例とが真向から対立するというのは、どう見てもあまり望ましい状況とは言えない(このたぐいの対立は結果的加重犯、共謀共同正犯についても存在する)。取締る側(警察・検察そして最終的には裁判所)と取締られる側(国民、そして国民の「声なき声」の代弁者としての役割ももつ学説)の論理それぞれに言い分があるのはわからないでもないが、真理は中庸にあるのではないだろうか。改正刑法草案第21条第2項は「自己の行為が法律上許されないものであることを知らないで犯した者は、そのことについて相当の理由があるときは、これを罰しない」という規定をおいているが、この条文が発効するときには、解釈次第では世間の常識の方もかなり納得するはずである。


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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。