(第17回)裁判官は物言う法律である

悪しき隣人―ようこそ法格言の世界へ(柴田光蔵)| 2019.12.26
「よき法律家は悪しき隣人」。この言葉が何を意味しているのか、知っていますか?
歴史ある法格言には、法学の真髄を伝えるものが数多くあります。法格言を知ることから、法学の雰囲気に触れてみませんか?
本記事は、「法学セミナー」1984年11月号別冊付録として世に出された、柴田光蔵著『法格言ミニ辞典』をWeb日本評論で復活させたものです。
なお、掲載にあたっては、適宜編集を加えています。

(不定期更新)

Jūdex est lēx loquēns.

英法の格言。

「裁判官の任務は法を宣言することであって、法を与えることではない Jūdicis est jūs dīcere nōn dare. 」という格言もあるし、あのモンテスキューは、裁判官のことを「法律の言葉を発する口 la bouche qui prononce les paroles de la loi 」と評している。現代日本の裁判官の活動スタイルをこれらの格言になぞらえてみると、「裁判官の任務は法を宣言することだけではなく、法を与えることも含む」とか「裁判官は物言う法理である」とかになろう。ところで、表題のような格言は、19世紀後半の特定条件下における歴史的産物である。まずドイツにあっては、15世紀以来継受されてきたローマ法をベースにして壮大で精緻な私法理論体系が法学者によってうちたてられたが、彼らは、それが量的にも質的にも完全無欠な法体系(法源)と信じて、その内容を明らかにし、概念を組み立てる作業に没頭した。いわゆる「概念法学」がその成果である。そして、裁判官が、完璧に解明されつくした法規(法源)を大前提にすえ、訴訟事件の事実を小前提として三段論法的に結論をひきだしていけば、それがそのまま判決になると考えられた。ここでは、裁判官は、思考の自由の余地を与えられず、判決マシーンという低い地位におしこめられる。裁判官が尊敬されている現代日本では考えもつかないことだが、すぐれた法典を保有するフランスにあっても、ドイツの「概念法学」と一面において通ずる性格をもった「注釈学派」の考え方にしたがって、法律の権威を絶対視し、それを運用する裁判官の地位をことさらに低く見る傾向があった。それに、裁判官の恣意性に対しても不信の念が抱かれたので、いっそうそのようになったとも言われる。同じような現象は、もともと柔らかい体質をもつ判例法の支配するアメリカにおいてさえも見られるから、こういう考え方は時代の一つの流行であったかもしれない。

しかし、われわれは、この格言に示された思想にも、当時としては相当なメリットがあったことを認めなければならない。それは、封建領主や専制君主が、「我こそは法律そのものである」とばかり、恣意的な権力行使を重ねてきた歴史に照してみれば、法典や法理論体系に忠実な解釈を判決機械と化した裁判官がやってくれる方が予測可能性も保証されるし、法的安定性も保てたからである。いずれにしても、この格言は、市民社会の形成期に一定の意味をもっていた。ところが、19世紀末から20世紀にかけて、ヨーロッパは大規模な社会変動に見舞われ、静的な状態において安定的な秩序をつくりだすことに貢献した古典的な考え方は、その固定性故に動的な新事態に対し適応力を失うことになる。

具体的難問として浮かびあがってきたのは、とにかく裁きをつけなければならない事件を前にして、法規のない(法規の欠缺(けんけつ))ケースをどう扱うかという問題と、既存の古びた法規を目前の事件に適用した結果、妥当性を欠く結論が生じるのをどう回避するかという問題である。そこで、裁判官が、人間らしい性格をとりもどし、法規の弾力的解釈を行なったり、法の創造にも手をかしたりしながら、動いていく社会の現実にマッチする結論を導くことをむしろ是認する考えも生まれるにいたった。これが「自由法学的解釈方法」とも名づけられるもので、さきの「概念法学的解釈方法」とは、法規の拘束性を認める度合で格段のちがいがある。実務が法規の束縛=呪縛から解きはなたれると表現すると、聞こえはよいが、フリー・ハンドを手中にした裁判官がつねに公正・妥当な判決を下すという保証はないし、裁判官も人間である以上、恣意や感情が法規の適用のさいに混在してくるのは避けられない。そこで、法規以外になんらかの客観的基準を求めようとする動きが出てくるが、もともとこれが主観性にウェイトをおいた発想であるだけに、客観性を担保していくのは容易なわざではない。

さて、自由法運動は、法規に対して敬意を払う伝統を一部は残している関係で、概念法学の不肖の息子ぐらいの地位を与えられることはできるが、法規それ自体を高みから見下すエイリアン的考え方も現われはじめる。わが国の場合は、1960年代から有力に主張されはじめた利益衡量論とか価値判断法学とか呼ばれるのがこれで、その主張するところによると、裁判とは、裁判官が原告と被告の利益を比較衡量することにより判断を下す作業であって、法規は、利益衡量や価値判断にあたって用いられる有力な基準のうちの一つにすぎないとされる。さらに驚きなのは、利益衡量や価値判断の結果である結論(勝訴、敗訴、量刑など)がまず裁判官の胸中で決められ、その後に結論に対する理由づけ(法的理論構成)が工夫されるという点である。はじめに、法規にとらわれない解釈者の主体的判断があって、その理由づけの道具として法規がかろうじて存在を許されるというパターンは、実務家としての役割を事実上担ってきた古代ローマ法学者の思考構造と似たところもないではないが、いずれにせよ、法の重みを日夜思いしらされるとともに、裁判の技術性、客観性を信ずるのがふつうの法学入門生諸君にとっては、さきのような説明はかなり刺戟的である。いくらなんでも、現代のように、利害が錯綜し、何が正で何が不正かの区別さえはっきりと見きわめもつかない時代において、法規に事実をあてはめて法的な解決をスイスイとひきだすという三段論法ではとても問題が片づくわけがないことは明らかであろうが、そうは言っても、迷路パズルの入口から入らず、出口から逆戻りするような思考過程にも違和感が生まれるのは当然であろう。裁判官はめったに本心(ホンネ)を言ってくれないけれども、ときには突出する御仁もあって、「裁判は直感・直観だ」、「スジを読みとって裁く」とかの発言ももれ伝わってくるから、実務のレベルでは、とっくの昔に法規の優越性は神話化しているのかもしれない。


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柴田光蔵 1937年京都府生まれ。1959年京都大法学部卒業。1961年京都大学助手を経て同大学助教授。1962~64年イタリアで在外研究。1973年京都大学教授。2000年定年退官。京都大学名誉教授。京都大学法学博士。専攻はローマ法・比較法文化論・日本社会論。最近の著書に、『タテマエの法・ホンネの法(第4版)』(日本評論社、2009年)、『タテマエ・ホンネ論で法を読む』(現代人文社、2017年)などがある。