『貧困の経済学』(上・下)(著:マーティン・ラヴァリオン,監訳:柳原 透)

一冊散策| 2018.09.25
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

 

 

監訳者あとがき

本書『貧困の経済学』(The Economics of Poverty: History, Measurement, and Policy, Oxford University Press, 2016)は、著者マーティン・ラヴァリオン(Martin Ravallion)の30年にわたる貧困および貧困政策の研究を集大成した著作であり、原書は本文だけでも600ページ(全体では700ページ)を超える大著である。この分野での世界の研究の到達点を示すとともに、今後の研究の基礎となりまた指針を示す書である。

ラヴァリオンは、1952年オーストラリアに生まれ、シドニー大学で学部教育を受けた後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で修士号と博士号を取得した。オックスフォード大学での研究員、オーストラリア国立大学での教員を経て、1988~2012年の間には世界銀行に勤務し、1999年以降には研究部門の要職を歴任し、2007~12年には同部門の責任者を務めた。2013年からはワシントンのジョージタウン大学で経済学部に新設されたEdmond D. Villani講座教授の地位にある。著者の主な仕事は世界銀行時代になされたこともあり、マスコミに華やかに登場し、一般知名度が高まることはなかったが、論文が参照される回数においてはトップクラスであり、また、国際開発課題の設定に研究者として貢献してきた。MDGsのターゲット1・A「1990年から2015年までに、1日1ドル未満で生活する人々の割合を半減させる」は、ラヴァリオンによる推計方法の確立があってはじめて、数値目標として設定されうるようになった。

本書の執筆は著者がジョージタウン大学に移った2013年に始められ、研究書であるとともに教科書としても用いうるように構想されている。理論から応用へという通常の発想ではなく、貧困という現実問題に取り組む中で必要に応じて経済理論を学ぶ、という独自の設計がなされている。そして、貧困問題に関心を持つ一般読者にも読みやすいよう、配慮がなされている(本書に関連する追加の情報や最新のニュースは、次の著者のサイトで見ることができる:https://economicsandpoverty.com/)。

私が著者ラヴァリオンの存在をはっきりと意識したのは、1995年、North-Hollandの Handbook of Development Economics の “Poverty and Policy” と題する章の著者としてであった(すでに学界の大物であったマイケル・リプトンとの共著)。1990年代以降、世界銀行が貧困重視を打ち出すとともに世界の貧困研究を主導するようになる中で、ラヴァリオンは世銀での貧困研究の中心人物として、世界を牽引する成果を次々と発表した。2009年に世界銀行が実務家用の参考資料として Handbook on Poverty and Inequality を刊行した際にも、貧困の計測と分析に関わるラヴァリオンの研究成果がその根幹をなす部分で用いられている。それらは、本書の第II、III部の随所に反映されている。また、本書第 I 部「貧困の思想史」は、著者が2014年に Handbook of Income Distribution に寄稿した “The Idea of Antipoverty Policy” と題する章がもととなっており、大幅な加筆がなされている。

本書の意義については、目次に目を通されるだけでもおわかりいただけるであろう。貧困(そして不平等)について経済の視点から知るべきこと考えるべきことは、濃淡の差はあれ、すべてこの書に含まれている。第 I 部での、過去200年におよぶ世界での(絶対)貧困削減の趨勢、それをもたらした取り組み、そしてその背後にある貧困観の変化、についての厚みのある概説は、それ自体として興味深いものであるとともに、現在なされているさまざまな提案を検討する上での歴史上の参照を可能とする。第II部では、貧困の測定と評価に関する方法論とその実地適用として、「厚生」(welfare)の概念規定と測定、貧困線の設定、貧困および不平等に関する集計指標の導出、そして政策効果評価の手法、について体系立った議論が詳細に展開される。第III部では、今日の世界での貧困と不平等の概観を踏まえ、成長、貧困、不平等、をめぐる議論がレビューされ、全経済と部門別の主要な政策の貧困への影響が検討され、ターゲティングを伴う貧困政策の役割と効果が論じられる。本書への推薦の言葉として澤田康幸さん(アジア開発銀行チーフエコノミスト/東京大学教授)が述べるように、「貧困研究のグローバル・スタンダード」を示し「貧困と戦うバイブル」とみなしうる著作である。以下、本書の数ある貢献のうち、私にとってとりわけ印象深いもののいくつかを記す。

まず、本書の題名に含まれる「経済学」について、著者が依拠する「厚生主義」の立場とはどのようなものであるか、を述べておこう。その基本は、「厚生」判断にあたっての当事者主権の考えであり、その考えを体現する効用最大化を原理とする家計(消費および労働供給)行動の理論である。それは、貧困者の直面するトレードオフ(限界代替率)とその下での実際の選択を重視し、外からの判断の押し付け(パターナリズム)を避けるべきとする、著者の強い姿勢を反映している。この立場から著者は自らの論考を構築するとともに、立場を異にする論者への批判を惜しまない。しかし同時に、ジョン・ロールズ、アマルティア・セン、といった哲学者らの根本からの問題提起と定式化に正面から向き合い、自らの「厚生主義」の立場からの応答(包摂ないし接合)を行っている(その要点は、Box2・3「マキシミンと貧困」とBox3・3「厚生主義の立場でのケイパビリティの解釈」、に含まれている)。

「厚生」判断は単純ではない。著者は「控え目な目標」として「経済厚生」のみに関心を限定するが、それでも次のような難問に直面せざるをえない。「厚生」水準の決定因は、家計消費行動の標準理論が明示して扱う財とサービスの消費可能性、のみではない。著者は三つの要因を追加する。一つは、「厚生」は、生活欲求のみならず関係(social inclusion)欲求を充足することとして捉えられる。二つめとして、個人の置かれる条件が異なることで、同一の消費可能性の下で個人が達成しうる「厚生」の水準は異なりうる、とされる。三つめとして、個人の「厚生」は自身の状態の絶対水準のみではなく他人との比較における相対水準(「相対欠如」[relative deprivation])にも依存しうる、とされる。これらの要因を勘案すると、すべての個人に共通の同一の「厚生」水準は、人それぞれに異なる消費可能性の水準(すなわち、総消費額ないしは所得額)に対応することになり、貧困線は人それぞれに異なることが含意される。

この難問への著者の解答は見事である。分析解が多くのパラメータに依拠することを指摘して行き止まりにするのではなく、最貧国から富裕国まで世界の各国で採用されている貧困線のデータに基づき、世界全体に適用しうる「弱い意味での相対貧困線」という近似解を見出し、それを用いて世界全体の貧困率と国グループ間での相違を推計する。この方法と手続について、理論と実証が統合されていると言うことはできない。しかし、「厚生主義」の理論上の要請を満たしながら実際適用しうる貧困基準が示され、それに基づく貧困指標が算出されている、ことの意義は大きい。

その他にも、第3章Box3・18での等価尺度、家計の費用関数、金銭表示効用の間の関連付け、第5章Box5・16での貧困指標の「慢性貧困」部分と「一時貧困」部分への分解、第5章を中心とする「消費の底」(最貧層の消費水準)の議論と推計、第7章での栄養、健康、寿命、就学など厚生の非所得面への社会経済要因の影響の議論、第8章での「貧困の罠」の概念規定とモデル分析、などなど枚挙に暇がない。

貧困政策を論じるにあたっては、著者は、政策当局者の関心に応え貧困政策の策定に資するよう知識のギャップを埋める、という基本姿勢を貫く。そこでは、ピンポイントの理想解よりも、大きなインパクトを持ちうる近似解を重視する。このような立場から、現時点での主流とも呼びうるランダム化比較試験(RCT)のみに囚われた政策提言を退け、大きな問いに応えうるよう理論・実証研究を総動員して取り組むべきことを唱える。また、個別の条件に応じた政策分析を強調し、(例えば、経済開放度と経済成長率との間の相関関係といった)国間クロスセクション分析に見られる傾向を、特定国での政策策定の根拠とすることを、厳しく排する。このような著者の立場は、政策論の王道の再提示として貧困分野を超えて意義を有する、と信ずる。

著者は貧困根絶に本気である。経済学者はWarm HeartとCool Headを持たねばならないと言われるが、著者のHeartは、Warmを超えてHotとも言ってよいぐらいに、貧困者が置かれている状況を真剣に受けとめる。貧困者の数は減っているが「消費の底」は上昇していない(SDGsの唱える「誰一人取り残さない」は、未達の課題である)、ことを重視する。自己責任論を排し、貧困という不正義を根絶するために、それを生み出している諸要因に取り組むための一国および世界レベルでの公共行動の必要を説く。この点は、現在の日本での貧困者自己責任論の横行と生活保護有資格者への給付抑制政策の推進、そして子ども・若者への公共支援の不備、という現実に照らして、特筆に値する。「貧困研究のグローバル・スタンダード」を示し「貧困と戦うバイブル」である本書が、日本での現在そして将来の貧困と取り組む上で活用されることを切に願う。貧困の実態の把握には、本書第II部第3—5章に収められている理論と方法が揺るぎない基礎と指針を提供する。貧困者への適切な支援を構想する上では、第III部8—10章の政策論から多くの示唆を得ることができる。

現代の日本の貧困を知りそれに取り組む上での必読書として、まず、実践活動家による優れた著作二点を挙げる。湯浅誠『反貧困—「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書、2008年)と藤田孝典『貧困世代—社会の監獄に閉じ込められた若者たち』(講談社現代新書、2016年)、である。学術書としては、「格差問題」は「貧困問題」であるとの立場から現代日本における貧困と不平等の研究を主導し政策提言をしてきた、橘木俊詔の一連の著作、とりわけ『貧困大国ニッポンの課題—格差、社会保障、教育』(人文書院、2015年)と『21世紀日本の格差』(岩波書店、2016年)、を薦める。また、生活保護を含む社会保障制度全体の構造欠陥と改革の方途については、鈴木亘『社会保障亡国論』(講談社現代新書、2014年)が重要である。関係からの排除(social exclusion)の観点からの研究と提言としては、岩田正美の一連の著作、とりわけ『現代の貧困—ワーキングプア/ホームレス/生活保護』(ちくま新書、2007年)を薦める。さらに、故きを温ねて新しきを知る精神で、二つの著作を紹介する。一つは、100年前の日本における『貧困の経済学』である河上肇『貧乏物語』であり、その現代語訳は、書籍として(佐藤優訳、講談社現代新書、2016年)、また九去堂ウェブサイト上でも、読むことができる(1917年刊行の原著は岩波文庫にあり、青空文庫でも読むことができる)。河上は、欧米でのその時点での最新の調査研究を踏まえ、欧米先進国に多くのワーキングプアが存在することと、富が少数者に集中していること(ローレンツ曲線が用いられている)、を示し、日本の政治家に、英国のロイド・ジョージに倣い「貧困退治の大戦争」に取り組むことを訴える。もう一つは、柳田國男『明治大正史 世相篇』(講談社学術文庫、中公クラシックス、その他、原著1931年)第12章「貧と病」であり、(現代日本の貧困を特徴付ける)「孤立の貧窮」が明治以降の近代日本において生じた経緯を示し、自殺者の数に言及しつつ、自己救済の限界と公共行動の必要を説いている。

原書の刊行を知り一読して、日本語版を作成する意義についてたちどころに確信した。ただし、大部であり、それが実現可能であるかどうかについては、判断しかねた。貧困研究に造詣の深い日本評論社編集部の道中真紀さんに本書のことをお話したところ、かねてよりラヴァリオンの諸論文を高く評価なさっていらしたこともあり、早速社内でご提案ご検討くださり、全訳により本書日本語版を刊行する条件を整えてくださった。そして、本書の完成に向けて編集者としてのHot HeartとCool Headを注ぎ込んでくださった。また、最終段階では、編集部の小西ふき子さんと吉田素規さんにもお世話になった。

翻訳にあたり、気鋭の研究者・実務家のチームを形成できたことは、大きな幸運であった。お名前を記し謝意を表する(五十音順、敬称略)。

  • 荒木 啓史 第8章本文
  • 上山 美香 第3、4、5章(5・1〜5・4節)
  • 小塚 英治 第6章、第10章(10・1〜10・2節)
  • 角田 佳奈美 第9章本文
  • 畠山 勝太 第8、9章図表およびBox
  • 村上 善道 第1章
  • 山田 英嗣 第5章(5・5〜5・10節)、第10章(10・3〜10・4節)

それぞれに第一線のお仕事を進められている中で、時間を捻出し精魂を込めて、(必ずしもわかりやすくなく少なからぬ誤植を含む原書の)翻訳に当たってくださった。そのおかげで、この日本語版は原書よりも読みやすく誤りの少ないものとなっている。監訳の過程で学ばせていただくことも多くあった。大きなご負担をお掛けしたが、それぞれの方にとって意義のある経験となったことを願っている。

アジア開発銀行の要職に就かれる前後の超多忙の時期に、原書を読まれ推薦の言葉をくださった澤田康幸さん(アジア開発銀行チーフエコノミスト/東京大学教授)にも、厚くお礼を申し上げる。日本、アジア、そして世界での、貧困研究と貧困との戦いの最前線にいらっしゃる澤田さんの言葉の重みをありがたくお受けしました。「貧困研究のグローバル・スタンダード」であり「貧困と戦うバイブル」である本書を活用され、研究と実務の両面でさらに大きな貢献をされることを期待しております。

監訳にあたり、誤訳をしないことと、原書の不備を正すことと、どちらにも最大限の注意を払った(ただし、本文中で参照している文献で巻末のリストに見当たらないものがある、といった不備は残っている)。訳語の選択にあたっては、経済学界で専門用語として確立している語をできるかぎり尊重することとした。訳文につきお気づきの点があれば、日本評論社にご一報いただければありがたく存じます。必要に応じ、同社ホームページ上で訂正ないし応答するようにいたします。

2018年6月
柳原 透

目次

上巻

はじめに
序章
第1部 貧困の思想史
第1章 貧困のない世界という考えの起源
第2章 貧困に関する1950年以後の新たな論調
第2部 貧困の測定と評価
第3章 厚生の測定
第4章 貧困線
第5章 貧困・不平等指標
第6章 インパクト評価

下巻

第3部 貧困と政策
第7章 貧困と不平等の諸側面
第8章 経済成長、不平等、貧困
第9章 経済全般および部門別の政策
第10章 ターゲティングを伴う介入

終章 これまでの進展と今後の課題

書誌情報など

上巻

下巻