(第1回)愛媛・宇和島

ぶらり民法散歩(伊藤栄寿)| 2018.09.27
民法の“聖地”を“巡礼”してみよう。
“聖地巡礼”という言葉が、映画・アニメやスポーツなどの舞台となった場所に赴くという意味で使用されるようになって久しい。
法学の世界にも、“聖地”が存在する(と思う)。かの著名な法学者の生まれた地、あの事件の起こった場所、法学に関係する歴史ある建造物…。上智大学の伊藤栄寿氏が、みなさんをそんな場所へご案内。今日は六法を置いて、この連載を旅のお供に、民法の“聖地”をぶらり散歩しよう。

(毎月下旬更新予定)

愛媛県宇和島市。愛媛県の南部に位置しており、西側は宇和海、南東側は高知県に接している。県庁所在地・松山で特急「宇和海」に乗れば、1時間30分ほどで宇和島に到着する。宇和島で有名な食べ物といえば、鯛めし、じゃこ天があげられる。また、闘牛などでも有名である。

宇和島駅から南西方向に5分ほど歩いたところに、辰野川にかかる「穂積橋」はある。小さな橋ではあるが、地元の方々にとって重要な橋なのであろう、それなりに車や自転車、人の往来がある。この穂積橋、現行民法典の起草担当者・穂積陳重博士(1855年~1926年)に由来する。

穂積橋

穂積陳重博士は、宇和島に生まれた。イギリス・ドイツへの留学経験などを経て、東京帝国大学法学部講師、同法学部長に就任する。そして、日本初の法学博士となる。主著として『法典論』、『隠居論』、『法律進化論』(第1冊第2冊第3冊)などがあり、民法だけでなく、比較法、法史学、法哲学など幅広い分野で業績を残されている。ご子息の穂積重遠博士が法科大学院生時代などに、毎夜、話し聞かせた内容をまとめた『法窓夜話』、『続法窓夜話』は、法律史上の逸話、古代法の奇妙な規則などが含まれており興味深い。穂積博士は、英吉利法律学校(のちの中央大学)創立者の一人でもある。その後、貴族院議員などを務め、1893年、梅謙次郎博士、富井政章博士とともに法典調査会(法典調査会とは、明治時代、法典の起草・編纂を目的として内閣に設置された機関である。周知の通り、江戸時代末期、在留外国人の治外法権などを認めた日米和親条約・日米修好通商条約などの不平等条約が結ばれており、明治政府はこれら不平等条約の改正を目標としていたが、そのためには、近代的な法典の整備が必須とされていた。法典を作成するための法典調査会は、条約改正のために重要な役割を担っていたことになる。)の主査となり、その中でも民法の起草委員となり、民法典などの編纂を担当する。そのため、穂積博士は、民法典編纂の最大の功労者の一人である。その後、男爵が与えられ、枢密院議長なども務めた。ここまで紹介すれば、穂積博士が法学界における偉人であることが理解してもらえると思う1)なお、穂積博士については、七戸克彦「現行民法典を創った人びと(3)起草委員 : 穂積陳重・富井政章・梅謙次郎」法学セミナー54巻7号(2009年)64頁(九州大学学術情報リポジトリはこちら)なども参照されたい。

それではなぜ、穂積橋が穂積博士に由来するのか。宇和島市が、穂積博士の功績をたたえて銅像を建てようとしたところ、穂積博士は「老生は銅像にて仰がるるより萬人の渡らるる橋になりたし」と答えたという。そこで、辰野川にかかる「本開橋(新開橋)」が1930年に改修工事される際、新たに穂積博士の名前を冠して「穂積橋」と命名されることになった2)穂積橋の由来について――レファレンス協同データベース。穂積博士のお人柄をあらわすエピソードである。

穂積橋という名称の由来は穂積博士のこの言葉である。

さて、この穂積橋を見に行くと、目につくのは地元の名店「ほづみ亭」であろう。このお店、穂積博士と関係があるわけではなく、穂積橋の袂にあるので、ほづみ亭という名前を付けたとのことである。ほづみ亭では地元・宇和島の郷土料理を味わうことができる。是非一度、宇和島の鯛めしを味わっていただきたい。

ほづみ亭で鯛めしを味わったら、是非、宇和島城(鶴島城)にも立ち寄りたい。穂積橋から歩いて10分ほどで宇和島城に到着する。宇和島藩は、伊達政宗の側室の子・秀宗が、江戸幕府の第2代将軍・徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ、入城したことにより始まり、その後、伊達家が代々支配した土地である。宇和島城の天守は、2代藩主宗利の時代(1671年)に改修竣工し、その姿を今に残している。宇和島城の中腹には、武器庫である山里倉庫と並んで「穂積兄弟生家長屋門」が残されている。こちらも見学しておきたい。

宇和島城の南側には、創建年代不明だが歴史的な建造物である「上り立ち門」があり、この門の前には、「大津事件」で有名な児島惟謙の銅像がある。そして、上り立ち門を出て南東方向に5分ほど歩いたところ、一般の住宅街に、ひっそりと「穂積陳重・八束生家跡」がある。

穂積陳重・八束生家跡

穂積陳重博士の弟・穂積八束博士も、法学界ではきわめて有名な人物である。とりわけ「民法典論争」では必ずといっていいほどその名前があげられる。民法典論争とは、お雇い外国人のボワソナードが編纂にあたった旧民法典が1890年に成立し、1893年に施行予定であったが、審議が十分に尽くされていないとして、施行を延期するかどうかが争われたものである。穂積八束博士は、憲法学者であるが、「民法出(い)でて忠孝亡ぶ」という論文を発表し、延期に大きな影響を与えた。旧民法の施行が延期され、新しく民法典が編纂されることになったが、そのときに活躍した人物の一人が穂積陳重博士なのである。

穂積橋の場所はこちら

 

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伊藤栄寿 1978年愛知県生まれ。民法よりも旅が好きな、自称「旅人」。時間があれば、日本全国・世界各国を漫遊する。現在、上智大学法学部教授。主な著書に、『所有法と団体法の交錯――区分所有者に対する団体的拘束の根拠と限界』(成文堂、2011年)、秋山靖浩=伊藤栄寿=大場浩之=水津太郎『NBS物権法』(日本評論社、2015年)などがある。


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脚注   [ + ]

1. なお、穂積博士については、七戸克彦「現行民法典を創った人びと(3)起草委員 : 穂積陳重・富井政章・梅謙次郎」法学セミナー54巻7号(2009年)64頁(九州大学学術情報リポジトリはこちら)なども参照されたい。
2. 穂積橋の由来について――レファレンス協同データベース