(第3回)植物のありのままを遺す/東京都立大学・牧野標本館

すごい!大学の図書館、博物館| 2024.05.14
大学は、学術研究と教育の最高機関。それぞれの大学が所蔵している専門性の高い資料、史料、蔵書などの貴重なものたちを、愛でないなんてもったいない!このコーナーでは、全国にあるすごい大学の施設、そしてそこにある「おたから」をご紹介していきます。学生・教育関係者・研究者にはもちろん、一般に公開されているものも取り上げていきますので、どうぞお楽しみに!

(不定期更新)

第3回は、東京都立大学南大沢キャンパスにある、牧野標本館を紹介します。

東京都立大学南大沢キャンパスは、東京都八王子市にあります。京王線南大沢駅から、三井アウトレットパーク多摩南大沢を抜けて、5分程度歩くと正門が見えてきます。

東京都立大学の正門

牧野標本館は、NHK連続テレビ小説「らんまん」の主人公のモデルとなった植物学者・牧野富太郎博士が収集した植物標本を遺族から寄贈されたことを受け、1958年に設立された施設です。現在では、牧野博士の収集品に加え、シーボルトをはじめとした植物学者や民間の植物愛好家が収集した標本、国内外の標本館との標本交換によって得られた標本、小笠原諸島や伊豆諸島産の植物など、約50万点もの植物標本を保存・管理しています。

取材時(2023年9月25日)には、牧野標本館別館にて、企画展「『日本の植物分類学の父』牧野富太郎が遺したもの」【企画展特設サイト】が開催されていました。こちらの展示は、2024年11月に、一部内容を入れ替えて開催する予定だそうです。

 

この展示を企画された、東京都立大学・加藤英寿先生にご説明いただきながら、牧野博士の時代から受け継がれる植物分類学の信念と、現在の牧野標本館の取り組みを取材しました。

牧野標本館ってどんなところ?

牧野標本館の歴史

牧野博士の晩年、博士が集めた植物標本(牧野標本)は推定約40万枚と膨大な量でしたが、十分な管理がされないまま自宅に放置されていました。植物標本はただ保存されているだけではなく、学術的に活用されてこそ価値がでるものだと加藤先生は言います。

当時、牧野博士自身や有識者は、牧野標本が適切に管理されないまま埋もれていくことに危機感を高めていたようです。しかし、標本数があまりに膨大であったため、受け入れ先がなかなか見つかりませんでした。最終的には、牧野博士が名誉都民第一号であることから、東京都が牧野標本を受け入れることになり、当時設立されたばかりの東京都立大学に標本館が設置されました。

植物標本の保存・管理

設立当時の牧野標本館が受け入れた牧野標本は、4トントラック10台分と言われ、古新聞に挟んで束ねられたままの状態でした。標本を1枚1枚開いて刷毛で埃を落とし、採集地や採集年月日・採集者名(牧野博士以外の採集品も含まれていたため)を特定して標本ラベルを作成し、専門家に同定を依頼するといった整理作業が地道に行われました。採集地や採集日が不明な場合は、標本を挟んでいる新聞紙の日付と博士の日記などを照らし合わせて調べたこともあるそうです。

20年以上にもわたる作業の末、重複品を除く約16万点の牧野標本が標本庫に配架されました。標本庫は、植物標本が劣化しないように、一定の温度と湿度に保たれていて、定期的に燻蒸といった防虫対策がされているそうです。

 

標本館の役割は、標本の採集と蓄積だけではありません。収集した標本を整理し、適切に管理して利用しやすい状態に保つこと、そして標本へのアクセスを向上させ、多様な研究活用へのニーズに応えることもその役割です。いわば、植物の図書館のような存在といえます。牧野標本館も、標本の閲覧や貸出依頼に応じたり、標本をデジタル化してインターネットで公開する活動を推進しています。

植物標本のつくりかた

植物標本は、植物を新聞紙で挟んで圧搾・乾燥させた「さく葉標本(別名、押し葉標本)」が最も標準的な形式です。そして「いつ・どこで・誰が採集したか」という採集情報と植物の学名を記入した「標本ラベル」を、植物とともに台紙にマウントすることで学術標本となります。

牧野標本(さく葉標本)

植物標本は作成の過程により、新聞紙片面の半分のサイズ(およそA3)が国際標準となっています。サイズと形状が統一されているため、効率的な保存・管理が可能となります。その一方で、このような規格に植物の姿を遺さなくてはいけないわけですから、大型の植物をどのように収めるか、立体的な果実などをどのように平面化するか、植物のどの特徴を重視して表現するかなど、試行錯誤することになります。同じ植物であっても、作成者の考え方次第で、標本の完成形は大きく異なることがあるそうです。

加藤先生は、ご自身で栽培したオレンジやスイカなどの果物やカブやダイコンなどの野菜を、工夫しながら丸ごと標本にされていました。植物標本というと、葉や花のイメージが強かったのですが、果物・野菜の標本は、平面ながらも立体感が感じられ、ダイナミックでした。

加藤先生作成のカブの標本

牧野博士の研究姿勢――植物のありのままを遺す

牧野博士は、自分が気になった植物をありのまま標本で遺すことに徹底的なこだわりを持っており、展示されていた標本のなかには、バナナを葉や花序・花・果実など各部位に分けて作成した標本や、自宅が空襲に見舞われていた頃に作成した標本、各地の八百屋で購入した野菜の標本、80歳で中国東北部(旧満州)に調査に行った際の標本も含まれており、博士がいつなんどきも植物採集に励んでいたことがうかがえます。

 

また、牧野博士は、天性の画才をもっていて、植物のすべてを描くことに強いこだわりがありました。植物の全体図、植物の各部位の特徴を精緻に描いた部分図を、1枚の図に再構成して、一目でその植物がわかるような植物図をつくりました。また、輪島塗の装飾用の面相筆を使った独自の画法を確立し、石版印刷の技術を学び、校正を徹底し、完璧な植物図鑑をつくることを目指しました。図鑑の校正原稿を見せていただきましたが、その赤字の量からは、博士の執念が感じられました。

 

牧野博士が遺した学びのすがた

全国各地から集まった標本

牧野博士は、日本の「フロラ(flora)」(ある地域の植物についての目録で、「植物誌」とも言われる)の作成を生涯の目標としていました。そのためには全国から標本を集める必要がありました。博士自身も植物採集の旅に各地に出かけていましたが、フロラを完成させるには標本が不十分でした。

そこで、博士は、お礼として標本の植物の名前を教えることと、標本を採集者の名前と共に標本館で永く保存することを条件に、植物愛好家に標本収集への協力を呼びかけました。牧野博士に植物標本を送った愛好家は、500人を超えたと言われています。博士は標本を募る際に、各地での植物の呼び名(方言)や利用方法の情報も集めていたことから、民俗学的な関心もあったことがうかがえます。他にも少年雑誌の懸賞という形で、子供達から標本を募っていたこともあったようです。

全国各地から牧野博士に送られた標本

市民科学としての植物分類学

現在でも、牧野標本館には、たくさんの植物標本が届くそうです。牧野標本館の標本庫には、各地の植物愛好家から届いた標本が積み上げられていました。

牧野博士自身の膨大な採集量もさることながら、多数の市民も巻き込んだ研究姿勢が、植物分類学の発展の道筋を切り拓いていったことがうかがえます。博士の多大な貢献が、今日の市民科学としての植物分類学をかたちづくったといっても過言ではないのかもしれません。

牧野標本の現在

世界を旅する牧野標本

牧野標本の最大の特徴は、重複標本が多いことです。最近は保全やコンプライアンス重視の観点から植物のむやみな採集は難しくなりましたが、牧野博士の時代は植物が豊富に生育していた上に、社会的な寛容性もあってか、同じ日に同じ場所で同一の植物をたくさん(時には100個体以上も)採取していたようです。人間が1人ひとりその姿が異なるように、植物も個体差があります。つまり、多くの同種植物の標本があるということは、より深くその植物を知ることができるということになります。

牧野標本の重複標本は、国内外の標本館との標本交換にも利用されています。世界各地にある標本館では、互いに標本を交換するという国際的な学術交流の文化があるそうです。互いの標本を共有することで、各地の標本館がさまざまな地域の植物標本を所有・閲覧できるようになります。

牧野標本館には、標本交換で得られたさまざまな国の植物標本があり、牧野標本は世界中の国々を旅しているとも言えます。牧野博士は亡くなってなお、植物分類学の発展に貢献し続けていました。

企画展の展示には、ウクライナの植物標本がありました。あってはならないことですが、自然災害だけでなく戦争等の人為的要因によって、貴重な標本が失われたこともあるそうです。国境を越えて標本を送り合うことは、標本保存の危険分散にもなるのです。

ウクライナ東部で1905年に採集されたナデシコ科ウシオツメクサ属の標本

シーボルトコレクション

江戸時代後期の1823~1828年に、オランダ商館医として長崎・出島に滞在したドイツ人医師・シーボルトは、帰国後、『日本植物誌』を出版しました。彼は、日本に滞在した6年間、出島に軟禁状態だったものの、小さな畑で植物を栽培し、多くの標本を作り、ドイツに持ち帰りました。当時、鎖国下だった日本の植物標本は、ヨーロッパでは貴重で関心も高かったようです。

シーボルトの没後、一部の標本が、牧野博士とも交流があったロシアの植物学者・マキシモヴィッチ博士のもとを経て、1963年に牧野標本館に送られ、約100年ぶりに日本へ帰ってきました。現在、牧野標本館には、シーボルトが持ち帰った標本のうち、約2,700点が保管されており、シーボルトコレクションと呼ばれています。1963年当時、シーボルトコレクションの整理作業にあたった、加藤信重先生に標本庫を案内していただきました。

 

シーボルトの標本には、植物の形態や生態的特徴だけでなく、当時の食用・薬用での利用方法についても記されており、江戸時代後期の生活文化を知ることができます。また、シーボルトコレクションには、彼自身や彼の弟子が作成した標本のほかに、当時の日本の植物学者がシーボルトに渡した標本も多く含まれており、日欧交流の貴重な資料でもあるのです。

標本のインターネットアーカイブ化

牧野標本館では、所蔵する標本のインターネットアーカイブ化を進めています。加藤英寿先生は、標本のデジタル化の目的は、より多くの人に標本の存在を知っていただき、実物の標本にアクセスできる足がかりをつくることだと言います。植物標本には、植物のDNAなど、実物からしか得られない情報がたくさん詰まっています。インターネットアーカイブを通して所蔵標本を公開することで、さらなる標本の利用が進むことを望んでいるとのことです。

(文責:編集部)

 

アクセス

東京都立大学 牧野標本館

牧野標本館 本館 入口に標本展示コーナー(平日:10時〜17時(※土日祝日は閉館))を設置しており、一般の方にも牧野標本や牧野富太郎先生が描かれた植物図をご覧いただけます。

※標本保護のため、一般の方は本館・別館内の標本庫に入館することはできません。
※企画展については、こちらからご確認ください。

東京都立大学南大沢キャンパス

〒192-0397 東京都八王子市南大沢1-1

京王相模原線「南大沢」駅改札口から徒歩約5分
改札口を出て右手に緑に囲まれたキャンパスが見えます。

 

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