(第2回)外来における「ふにゃふにゃ」あるいは「ゆるふわ」

プロ精神科医あるあるノート(兼本浩祐)| 2024.03.14
外来のバックヤード、あるいは飲み会などフォーマルでない場で、臨床のできる精神科医と話していると、ある共通した認識を備えていると感じることがあります。こうした「プロの精神科医」ならではの「あるある」、言い換えれば教科書には載らないような暗黙知(あるいは逆に認識フレームの罠という場合もあるかもしれません)を臨床風景からあぶり出し、スケッチしていくつもりです。

(毎月中旬更新予定)

「ふにゃふにゃ」あるいは「ゆるふわ」と静的了解

うちの医局では(もう定年で退職したので、厳密には元医局というべきなのですが)、相談に来られる患者本人や家族への対応を、とりあえず今は「ふにゃふにゃ」しておく、と表現することがありました。他の医局の先生と話をしたときに、「ゆるふわ」ともう少しスマートな言い方で同じことを表現していて、どの医局でも共通した感覚があるんだと知って安心したことがあります。

「ふにゃふにゃ」あるいは「ゆるふわ」とは、言ってしまえば、目の前にいる人の気持ちに同調することです。精神科での気持ちの同調の仕方を共感(≒シンパシー)と感情移入とに区別するという畏友・内海健先生の言葉を私なりにアレンジするなら、「ふにゃふにゃ」あるいは「ゆるふわ」は、感情移入ではなく、共感を働かせる作業になるでしょうか。「感情移入」という日本語を額面どおりに受け取ってしまうと、共感との区別があまりつかなくなってしまいますが、これは、ヤスパースというドイツ人の精神医学の大家が発生的了解と言っているものを、ちょっと私なりの味つけで煮詰めたものと受け取ってもらえればと思います。

たとえば、年配の男性と結婚するときに多額の保険金をかけ、その人を殺してしまった「後妻業」の女性がいたとします。人間がお金のためにそうした行動を取ってしまうことがありうる存在だということは、おおよそ世間一般のコンセンサスを得ていると考えてよいでしょう。刑事事件でいう「動機がある」という判断は、こうした世間一般における了解可能性のことをおおよそ言っています。

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兼本浩祐(かねもと・こうすけ)
中部PNESリサーチセンター所長。愛知医科大学精神神経科前教授。京都大学医学部卒業。専門は精神病理学、臨床てんかん学。『てんかん学ハンドブック』第4版、『精神科医はそのときどう考えるか』(共に医学書院)、『普通という異常』(講談社現代新書)など著書多数。