『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』(著:佐賀千惠美)

一冊散策| 2023.12.14
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

はじめに

これは、三淵嘉子先生、中田正子先生、久米愛先生という日本で初めて女性で弁護士になった3人のドキュメンタリーとして、私が平成3年(1991年)に出版していた『華やぐ女たち 女性法曹のあけぼの』の復刻版である。ただし、表現を現代的にしたり加筆したり等した部分がある。

定価:税込 2,200円(本体価格 2,000円)

本書の初版は、早稲田経営出版から出版させていただいた。今は日本評論社の代表取締役である串崎浩さんが、30歳代のとき、早稲田経営出版で本書初版の出版作業に携わっておられた。三淵嘉子先生たちをめぐっての、30年以上も前のそのご縁によって、今回の復刻版を出していただくこととなった。三淵嘉子先生と日本評論社のご縁はほかにもあり、同社から清永聡著『家庭裁判所物語』(2018年)も出版されている。人同士の色々なつながりの中から、ものごとが展開することを実感する。

私が本書の初版を書き始めたのも、また偶然のきっかけからだった。私が東京地検の検事を辞めた後の昭和60年(1985年)に、早稲田経営セミナーの司法試験受験生のために原稿を依頼されたとき、その担当者から「いつ頃ですか? 日本に女性の弁護士や裁判官が生まれたのは」と尋ねられた。しかし、私はその問いに答えられなかった。そして、当時は日本の女性法曹の草分けについてのまとまった本もないことに気づいて、私は色々調べ始めた。そして、草分けのお三方の身内の方たちや、たった1人ご健在でいらっしゃった中田正子先生へのインタビューも行った。

取材を始めた当時は、私は3歳と1歳の2人の子どもをかかえて主婦専業であった。また、昭和62年(1987年)からは京都で弁護士の仕事を始めたので、初版の出版まで漕ぎつけるのはハードなことであった。しかし、戦中戦後を生き抜いた草分けのお三方の姿が、私を鼓舞してくれた。

今思うと、あの時点で取材をしておいて本当によかった。もう亡くなられた方も多く、この復刻版のインタビューや記録には、今では得られないものも数多くある。

このたびの復刻版の出版にいたるまでにお世話になった方たちを思い浮かべて、感謝しつつ。

令和5年(2023年)記
佐賀千惠美

第一章 女性弁護士の誕生

第一節 女性が弁護士になった

女性たちとの出会い

「いつ頃ですか。日本に女性の弁護士や裁判官が、初めて生まれたのは」と出版社の人に聞かれた。これから法律家になろうとする女性のために、私が原稿を書いたときのことである。昭和60年(1985年)だった。

私は、その問いに答えられなかった。私も4年前までは検事。3歳と1歳の子供を抱えて、仕事を休んでいた。

「自分も女性の法律家のはしくれのくせに、何も知らないな」と、ぼやきながら、私は、関連する本を探し始めた。ところが、驚いたことに、女性の法律家の草分けについて、まとまった本がない。苦労した末、やっと次のことが分かった。

(1) 昭和8年(1933年)。男性だけしか弁護士になれないとしていた弁護士法が改正、公布された(昭和11年〔1936年施行〕)。女性も弁護士になれるようになった。

(2) 昭和13年(1938年)。弁護士になれる試験(高等試験司法科)に、初めて女性が合格。武藤嘉子(後に三淵)、田中正子(後に中田)、久米愛の3人である。

(3) 判事や検事に、女性がなれることになったのは、戦後である。

「うわぁ、すごいな。昭和13年か。女性に選挙権もなく男尊女卑の時代だったのに。どんな気持ちで、弁護士の試験を受けたのかしら」

武藤、田中、久米の合格を報じた新聞(東京朝日新聞、昭和13年11月2日付夕刊)

それに引き換え、私の生活は何だ。掃除、洗濯、食事の支度や、子供の世話……。毎日、同じことの繰り返しだ。

「子供は3歳までは、保育園に入れず母親が育てる方が、精神が安定する。子供のためだと納得して、検事を辞めたんでしょう?

それに、子供が手を離れたら、弁護士を始めるんだからいいじゃないの」「でも、6年間のブランクの後、35歳になって弁護士という新しい職になじめるかしら。よほど、頑張らなくちゃ。気力と体力が続くだろうか」

自問しながら私は、初めて弁護士になった女性たちに、ひかれていった。「男社会」に、切り込んで行った3人。――彼女らは私の行く手を導く星のように思えた。キラキラと輝いている……1)

書くのは私しかいない

「なぜ3人のことを書いた本がないんだろう。女性史の上でも、法律家の歴史の上でも、大事なはずなのに」

久米愛は昭和51年(1967年)に、三淵(武藤)嘉子は昭和59年(1984年)に、亡くなった。健在なのは、中田(田中)正子のみ。今のうちに話を聞いておかなければならない(平成14年〔2002年〕、中田正子逝去)。

久米や三淵についても、時間がたてば人々の記憶は薄れる。資料もなくなっていく。誰かが早く、記録しなければ。

しかし、待っていても誰もやってくれない。「思いついた私が書くしかない」との気持ちが突き上げて来た。

私は資料を探し始めた――。

▼続きは本書でご覧ください!

第二章 三淵嘉子——初の、女性の裁判所長

第一節 女性裁判官の草分け

日本のポーシャ2)

三淵嘉子―日本の女性の裁判官の草分けである。元の姓は、武藤。

戦前は女性は裁判官になれなかった。嘉子は、昭和15年(1940年)、久米愛や中田正子といっしょに弁護士になった。

昭和23年(1948年)、裁判官に。女性で初めて、裁判所長となる(昭和47年〔1972年〕、新潟家庭裁判所の所長)。続いて、浦和家庭裁判所の所長、横浜家庭裁判所の所長も務めた。女性の出世頭だった。

家庭裁判所で非行少年を立ち直らせることに情熱を注いだ。明るくおおらかな性格で、多くの人に慕われる。

ほかに
○日本婦人法律家協会(現在の「日本女性法律家協会」)の会長
○明治大学短期大学の教授
○労働省男女平等問題専門家会議の座長
○総理府婦人問題企画推進会議の委員
○法制審議会民事部会の委員
○東京少年友の会の常任理事
などを歴任した。

妻として

和田芳夫と結婚し、男の子を生んだ。結婚して5年で、夫が戦病死。

後に、裁判官の三淵乾太郎と再婚した。初代の最高裁の長官(三淵忠彦)の息子である。乾太郎は先妻に先立たれ、一男三女があった。

第二節 嫁に行けない

父の愛、母の愛

「私は当時としては非常に民主的な思想を持った父のおかげで、そのアドバイスで法律を学ぼうと決心した。……(中略)……ところが、……(中略)……母が……(中略)……泣いて怒って反対するのである。たった1人の娘の私が法律などを勉強して将来自立できるあてもないし、第一、嫁のもらい手がなくなると嘆くのであった。これも父と2人で何とか説得することができた(ありがたいことに母はそれから後は私が弁護士になるまで、誰よりも熱心な応援者になってくれたのであるが)」(三淵嘉子ほか『女性法律家』〔有斐閣、1983年〕5頁以下)

昭和7年(1932年)に、娘に「法律家になれ」と言った父。そして、娘を支えた母。―「どんな人だったんだろう」。筆者は強く興味を引かれた。

花火の会社

嘉子の両親について知りたい。筆者は嘉子の弟に、面会を求めた。

次男の武藤輝彦(面会当時65歳)。株式会社「海洋化研」という花火を作る会社の代表取締役である。工場は旭川で、事務所が東京都の京橋にある。

輝彦に筆者が連絡したのは夏だった。ちょうど花火の商売は大忙し。外国に行くことも多い。なかなか時間がとれない。やっと、京橋の事務所の近くの喫茶店で、仕事の合間に会ってもらった。

▼続きは本書でご覧ください!

目次

  • はじめに
  • 第一章 女性弁護士の誕生

第一節 女性が弁護士になった
第二節 女に法律なんて
第三節 明治大学女子部の浮き沈み

  • 第二章 三淵嘉子——初の、女性の裁判所長

第一節 女性裁判官の草分け
第二節 嫁に行けない
第三節 プロフェッショナル——司法科試験に合格
第四節 結婚
第五節 地獄の日々
第六節 お役人になる
第七節 いよいよ裁判官に
第八節 名古屋へ
第九節 再び東京へ
第一〇節 再婚
第一一節 裁判所長に
第一二節 退官の日
第一三節 野に下る
第一四節 世を去る

  • 第三章 中田正子——女性初の弁護士会長

第一節 たった一人ご健在
第二節 生い立ち
第三節 法律を志す
第四節 弁護士となる
第五節 結婚
第六節 戦いのあと
第七節 議員の妻
第八節 母として
第九節 おしどり夫婦
第一〇節 女性で初の弁護士会会長
第一一節 砂丘へ
補記

  • 第四章 久米愛——女性法曹のフロントランナー

第一節 三つの個性
第二節 足跡
第三節 出会い
第四節 人生を開く——結婚と合格
第五節 キャリアウーマン
第六節 戦争
第七節 焼け跡からの動き
第八節 妻として、母として
第九節 国連の仕事
第一〇節 弁護士の仕事
第一一節 最高裁の判事に推される
第一二節 人生観
第一三節 世を去る
補記

書誌情報など

関連書籍

【同時刊行!】
清永 聡 著『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社、2023年)

 

 

脚注   [ + ]

1. なお、筆者は昭和62年(1987年)から、京都で弁護士の仕事を始めている。
2. 『ヴェニスの商人』に登場する資産家の娘で、アントーニオの友人バッサーニオの妻。アントーニオはバッサーニオのために、金貸しのシャイロックから借金をするが、返済できなかったため裁判となる。男装して裁判官になりすましたポーシャは法廷に立ち、アントーニオの危機を救った。