「対外的危機」下のロシア憲法秩序と法(佐藤史人)

法律時評(法律時報)| 2023.11.27
世間を賑わす出来事、社会問題を毎月1本切り出して、法の視点から論じる時事評論。 それがこの「法律時評」です。
ぜひ法の世界のダイナミズムを感じてください。
月刊「法律時報」より、毎月掲載。

(毎月下旬更新予定)

◆この記事は「法律時報」95巻13号(2023年12月号)に掲載されているものです。◆

「非常事態とは、腐った沼から発するガスで汚染された我々が常に呼吸する大気である。我々が病んでいることに驚くなら滑稽だ。我々が生きていることに驚くべきなのだから。」1)これは、第一次ロシア革命の直後に法律家のゲッセンが、当時の非常事態法を評して述べた言葉である。この法律は、1881年のアレクサンドル2世暗殺を受けて制定され、それ以来1917年の革命までロシアの多くの地域で非常事態を導入する根拠として用いられ、自由を圧殺する法として知られてきた。それから100余年が経った今日、ロシアでは、ウクライナ戦争の過程で憲法上の非常事態の一形態である戒厳事態(военное положение)が発令された。本稿が概観するのは、再びそうした沼のほとりで生きることを余儀なくされた人々を取り巻くロシア憲法秩序の現状である。

1 特別軍事作戦下の法と司法

2022年2月24日に始まったウクライナ戦争、ロシアの呼称で言う「特別軍事作戦」は、ロシアの憲法秩序の風景を一変させ、2023年はその影響が様々な形で顕在化している。

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人権領域では、もとより狭小であったロシアの政治的言論空間が、ウクライナ戦争下において著しく収縮した。例えば、2022年3月4日の法改正により、ロシア軍の信用を毀損する行為を公然と行った者は、行政罰の対象となり(行政的違法行為法典20条の3の3)、右の行政罰が科されてから一年以内に再び同様の行為を行った者には刑事罰が科される(刑法典280条の3)。また、ロシア軍の利用に関する明白な虚偽情報を公然と流布する罪が設けられ(刑法典207条の3)、開戦直後に高まった戦争反対の声は、これらの制裁の威嚇によってかき消されてしまった。2023年にはこれらの犯罪に関係する判決が出始めている。2023年の上半期に第一審で刑法典280条の3によって自由剥奪刑を宣告された者が2名、刑法典207条の3により自由剥奪の実刑判決を受けた者が8名おり、昨年ノーベル平和賞を受賞した人権団体「メモリアル」の共同代表オレグ・オルロフも、反戦のスタンディングと権力のファシズム化を非難するSNSへの投稿が軍の信用を傷つけたとして、今年の10月に15万ルーブルの罰金刑を宣告された。一方、昨年、軍の信用を毀損したとして行政罰を科された者は4439名に上ったが、今年はその数が昨年の半数程度のペースに留まっており、「軍事検閲」は当局が期待した通りの萎縮効果を発揮している。ただし、ロシア国内での軍事検閲への批判は、それが声高に叫ばれることはないものの、皆無というわけではない。例えば、モスクワ市議会の2名の議員が、モスクワ市内の裁判所における刑法典207条の3の適用事例を検討し、事実の摘示だけでなく、戦争をめぐる論評にまで真実性の証明が求められているなどとして、右の条文が違憲であると主張し、その改正を議会下院の議長に要請している2)

裁判所についてみると、先ほど紹介した行政的違法行為で昨年に裁判所が法的責任を認めた事件は全体の79%であり、特別軍事作戦下でなお、良識ある判断をする裁判官もいないわけではないが、特別軍事作戦の歪みは、様々な形で司法に反映している。本年7月に最高裁判所は、自動車事故による過失致死の容疑で訴追され、下級審で2年の自由剥奪刑を宣告される一方、事故後に契約兵としてウクライナ戦争に参加していた軍人に対して、特別軍事作戦地域で戦闘任務を遂行し、戦功を挙げていることを理由として、刑罰を免じる判決を下した3)。国家機関や施設の行政責任を問う事件においても、裁判所は金銭罰の軽減事由として特別軍事作戦を援用し、「特別軍事作戦が実施されている下で、予算から支出される資金を徴収すれば、重大な結果が生じ、戦略的任務の遂行を損なうであろう」などと述べて、年金・社会保険基金への被雇用者情報の提出遅延など、特別軍事作戦とはおよそ無関係の7つの事件において過料を減額した4)。このように、裁判所において、戦争はそれと直接関係のない事件においてすら、考慮されるべき事項として顔を出す。

憲法裁判に目を転じると、2022年3月の欧州審議会からのロシアの除名の影響が、この領域に影を投げかけている。2022年に憲法裁判所に申し立てられた憲法訴願は約1万3千件に上り、前年より10%増加した。これを、ヨーロッパ人権裁判所の管轄から外れたことにともなう「輸入代替」現象とみる者もいるが、憲法学者は概してそうした評価に慎重である5)。それを裏付けるかのように、ヨーロッパ人権裁判所を代替する機関として人権を扱う専門の国内裁判所ないしは超国家裁判所を設置すべきだとする見解がロシア国内から出ており6)、憲法裁判所がすでに存在するにもかかわらず、こうした議論が現れること自体が、憲法裁判所に対するロシア社会の一定の評価を示している。より深刻なのは、2022年2月10日の決定を最後に憲法裁判所がヨーロッパ人権裁判所の判例に言及しなくなり、ロシアは1992年以前ともいわれる状況に回帰した点である7)。また、「ヨーロッパからの脱退」という論点と関連して、欧州審議会への加盟にともなって導入された死刑モラトリアムの行方が、再び人々の耳目を集めるようになった。憲法裁判所のゾーリキン長官は、死刑モラトリアムの維持はロシア憲法の要請でもあると述べて、昨年12月のロシア裁判官大会でこの問題に徹底抗戦する構えを見せたが8)、こうした問題が再び争点となるという点に、ロシアにおける人権問題のフロントラインの深刻な後退状況が現れている。

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脚注   [ + ]