『生活保護制度の政策決定――「自立支援」に翻弄されるセーフティネット』(著:三輪佳子〔みわよしこ〕)

一冊散策| 2023.10.18
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

はしがき

本書は、2022年10月に提出した博士学位論文を基に、加筆および修正を行ったものである。

2010年まで科学・技術畑を歩んできた筆者は、生活保護に関する取材と報道に転じる自分自身、さらに生活保護政策の決定に関する研究で博士学位を取得する自分自身を、まったく予想していなかった。車椅子を利用する中途障害者ではあったが、自らの障害は、障害との関連が深い貧困問題に踏み込むことを躊躇する最大の要因だった。今にして思えば、世間が期待する「障害者らしさ」への素朴すぎる抵抗であった。

転機となったのは、2011年の東日本大震災である。

定価:税込 6,380円(本体価格 5,800円)

2011年3月11日の発災から3月下旬にかけて、報道される被災地の避難所の映像の中に、障害者の姿はなかった。生き延びること、避難所に到達すること、避難所生活を送ることが、すべて障害ゆえに阻害されたからである。当時の筆者は、映像に現れない被災障害者たちを案じつつ、福島第一原発事故に関する正確な情報を市民に届ける活動の後方支援を行いつつ、東京の住まいで2匹の猫たちとの日常生活を維持するのが精一杯であった。喫緊の課題は、生活を共にする猫たちへの影響を最小にすることであった。特に医薬品の流通は、猫の生存にかかわる課題となった。13歳と12歳だった猫たちは、加齢に伴う複数の疾患を抱えていたのだが、東日本大震災で医薬品工場が被災したため、12歳の猫の生存に必須のヒト用内服薬を動物病院が購入できなくなったのである(その後、動物医療専用の医薬品開発が発達し、現在はヒト用医薬品を利用する場面は減少している)。その医薬品がないと、その猫は1ヶ月も生存できない。しかし、人間の医療がペット医療よりも優先されることは、受け入れざるを得ない現実であった。それでも断念したくなかった筆者は、友人の薬剤師から「同一成分の注射剤は、医薬品市場に充分な在庫がある」という情報を得た。その注射剤を猫に使用した前例はなかったが、獣医師の慎重な検討を経て、「筆者自身が毎日注射を行うことで投与する」という試みに踏み切った。結果は、極めて良好であった。注射は経口服薬と異なり、猫にとっての抵抗感や苦痛がなく、投与と同時に効果が実感される。投与量の微調整も容易である。これらの注射のメリットは、長期にわたる良好な治療成績につながった。さらに、一連の経緯を見ていた13歳の猫を含め、動物医療に対する猫たちの深い信頼をもたらした。動物医療関係者・猫たち・筆者の三者は、円滑な協力のもと、猫たちの寿命まで治療を継続することができた。しかし2011年3月は、この医薬品の一件だけでも薄氷を踏み続ける思いであった。報道には一向に登場しない被災地の障害者たちが気にかかるものの、運転免許を持たない筆者が、余震の続く東京に猫たちを残して取材に赴くことは考えられなかった。

被災障害者やその家族の困難が報道され始めたのは、2011年3月末であった。数年後に知ったのだが、最初期の報道のために動いた人々の1人は筆者の知人であった。障害者の親でもあった知人は、避難所における障害者の不在とその意味するところに目ざとく気づいたようである。

災害は、何らかの脆弱性を有する人々をさらに周辺化し、不可視化する。その現実に最も気づきやすいのは、脆弱性を持つ本人や身近な人々、すなわち当事者であろう。軽被災地であった東京での東日本大震災の経験は、「障害当事者だからこそ、すべきことがある」という回心に近い気づきを筆者にもたらした。以来、筆者は科学技術という1本目の柱に、貧困・障害・社会保障という2本目の柱を加え、2023年現在まで活動している。日本においては、どのような災害や災厄に対しても最終的な救済手段は生活保護となるため、2014年より生活保護政策の研究を開始し、2023年の博士学位取得および本書の刊行に至った。

地球全体での地殻活動活発化と温暖化は、世界各地で大地震や気象災害を続発させている。人間の活動を主要因とした感染症パンデミックは、今後、数百年以上にわたって新規発生が繰り返されると予想されている。気候変動や感染症と関連しつつ、政治経済的状況が不安定になるばかりの現在、希望ある未来を思い描くことは、誰にとっても困難であろう。しかし2011年3月11日、震度5強の揺れの中、怯える猫たちを震える腕で抱き締めながら「この3名で生き延びたい」と願った筆者の延長線上に、12年後の今日がある。かたわらには、その猫たちが寿命を全うした後に迎えた2匹の猫たちがいる。そして、2011年以後に筆者が生み出した数百本の記事、4冊の著書、4本の学術論文、そして「2020年代日本の生活保護政策は、なぜこのように決定されているのか」を示した博士学位論文と本書がある。

本書はいわば、筆者一家が生存の道を照らし出すために自ら生み出した灯火である。一個人と一世帯のかすかな光であるとともに、光を消さないために努力を続けた人類の営みに含まれる小さな一片である。今後、より確かな灯明を生み出す土台の一部として活用され、その灯明があらゆる人々と大切な「家族」の生存と幸福を照らし出し、その光の中に筆者自身と「家族」の日々のある近未来が実現されれば、これに勝る喜びはない。

担当編集者の武田彩氏は、博士学位取得後バーンアウト状態にあった筆者に配慮しつつ、適切な励ましと進捗管理を行い、本書の刊行を予定通りに実現させた。ここに感謝する。

刊行にあたっては、立命館大学より大学院博士論文出版助成金による助成を受けた。本助成を含め、学修と研究に対する多様なご支援をいただいた同大学教職員、特に職員の方々に、心より感謝する。

2023年8月
三輪佳子

目次

第Ⅰ部 「費用分担」は国と地方のパワーバランスをどう変えてきたのか

序 章 生活保護の2000年代とは

序-1 はじめに
序-2 生活保護政策をめぐる研究動向および中央と地方のパワーバランス
序-3 本研究の目的と方法
序-4 本論文の構成

第1章 生活保護における権限と費用の分担

1-1 新生活保護法成立までの費用分担
1-2 救護法から新生活保護法成立までの整理
1-3 サンフランシスコ講和条約締結と第一次「適正化」(1954)
1-4 第二次臨調答申による第2次「適正化」と国庫補助率見直し(1983~1988)
1-5 地方分権改革の始まりと費用分担(1989-2000)
1-6 三位一体改革、そして費用分担の見直しへ(2001-2004)
1-7 費用分担の見直しから「適正化」へ(2005)
1-8 「適正化」から新たな「分担」へ(2006-2022)
1-9 人数において最大のステークホルダーとしての生活保護塾湯社の出現(2015-)
1-10 生活保護における費用分担と地方の位置づけの変化

第2章 国からの生活保護費予算は何を制御していたのか

2-1 生活保護政策決定と実施における組織連関
2-2 国からの生活保護費予算による制御の流れ
2-3 費用負担率の変化が「投資効果」に与える影響
2-4 生活保護が消滅した場合、誰が何を制御する必要があるのか

第3章 費用分担は国と地方の関係をどう変えたのか

3-1 2006年、なぜ「財源なき権限移譲」の中で「財源を失わない権限移譲」が実現したのか
3-2 「生活保護制度の在り方に関する専門委員会」(2003~2004年)
3-3 「生活保護費及び児童扶養手当に関する国と地方の関係者協議会」(2015年)
3-4 「新たなセーフティネット検討会」と「新たなセーフティネットの提案」(2006年)
3-5 「国庫補助率」「適正化」「自立の助長」に注目した議論の整理
3-6 地方団体の位置付けの変化
3-7 アクターと組織連関の変化
3-8 地方団体の立法機関化

第4章 生活保護基準決定に関する財務省と厚生労働省の攻防(2000-2009)

4-1 2001年~2009年における社会保障政策の推移の概略
4-2 生活保護基準の「物価スライド」に関する検討
4-3 水準均衡方式における参照階層に関する検討
4-4 「参照階層」という厚生労働省のレジスタンス

第Ⅱ部 費用分担は、どのように「ワークフェア」政策を促進したのか

第5章 生活保護分野における「ワークフェア」概念の出現と発展(1945-2009)

5-1 ワークフェアの起源――20世紀後半における「働かざる者、食べるべからず」の社会実装
5-2 米国における「ワークフェア」の出現と普及
5-3 福祉国家の成立と「ワークフェア」出現まで
5-4 米国、および各国における「ワークフェア」の出現と福祉国家の関係
5-5 「積極的」就労促進の諸相――アクティベーションはワークフェア政策を成功に導いたか
5-6 日本人の勤労観と「働かざる者、食べるべからず」への異議申し立て
5-7 日本の社会保障政策は、どのように「ワークフェア」概念を取り込んだのか

第6章 生活保護政策における「ワークフェア」概念の出現と発展

6-1 生活保護制度改革以前(1945-2000年前後)
6-2 生活保護制度改革の開始から民主党政権成立まで(2001-2009)

第7章 民主党政権下における生活保護政策(2009-2012)

7-1 母子加算と老齢加算の「明暗」(2009)
7-2 脅威視された「その他の世帯」と地方発の「適正化」提案(2009-2010)
7-3 東日本大震災と「国費100%」を切り口とした地方の発言力増大(2011)
7-4 実現に向かう地方発「適正化」(2012)

第8章 第二次安倍政権成立以後の生活保護政策(2012.12-2022)

8-1 改正生活保護法および生活困窮者自立支援法の成立と「物価偽装」(2013)
8-2 日本の住環境から切り離される生活保護の「住」(2014)
8-3 ネグレクトされる寒冷地の生活保護受給者たち(2015)
8-4 「引き下げ部会」に対する部会長代理の異議申し立て(2016)
8-5 とめどない権利剥奪に向かう生活保護(2017)
8-6 生活保護世帯の子どもたちに対する「選択と集中」(2018)
8-7 証言台に立つ元部会長代理(2019)
8-8 「生活保護は権利です」という厚生労働省のアピール(2020)
8-9 深刻化するコロナ禍、被虐待経験者らの「選択肢をください」(2021)
8-10 基準引き下げへの行政のアクセル、司法のブレーキ(2022)

第9章 生活困窮者の社会的包摂が就労支援と生活保護利用抑制に収斂した過程、およびその後——「生活困窮者の生活支援の在り方に関する特別部会」(2012-2013)と関係者インタビューより

9-1 生活困窮者自立支援法は社会保障制度なのか
9-2 「生活困窮者の生活支援の在り方に関する特別部会」以前の「自立」概念の議論
9-3 「生活困窮者の生活支援の在り方に関する特別部会」における「自立」概念の議論
9-4 「生活困窮者の生活支援の在り方に関する特別部会」(2012-2013)について
9-5 「自立」の名のもとに防衛された、支援しない「自由」

第Ⅲ部 生活保護の政策決定を方向づけるもの

第10章 生活保護における政策決定モデルの検討

10-1 生活保護における組織連関モデルへの変化の反映
10-2 2001年以後の生活保護政策決定の力学、および方向転換の可能性

終 章 セーフティネットのある日本を実現することは可能なのか

終-1 総括――生活保護制度改革は、例外的な「財源つき権限委譲」だったのか
終-2 結局は「財源なき権限委譲」であった生活保護制度改革
終-3 「セーフティネット」のある日本を実現するために

附 章 厚生労働省「生活扶助相当CPI」に関する批判的言説、計算方式、および使用された数値の検討

附-1 生活扶助相当CPIの特徴
附-2 生活扶助相当CPIの出現と2013年の生活保護基準見直し
附-3 立法の場における検討
附-4 学術界による検討
附-5 生活扶助相当CPIの内実
附-6 ラスパイレス方式の計算原理と厚生労働省の計算との関係
附-7 パーシェ方式の計算原理と厚生労働省の計算との関係
附-8 統計局方式で計算した場合との差異
附-9 テレビやPCの支出額割合の過大評価
附-10 不適切な「根拠」に基づく政策決定への批判

あとがき
参考文献

 

書誌情報など