(第62回)最高裁の見せた「本気」(齋藤愛)

私の心に残る裁判例| 2023.07.03
より速く、より深く、より広く…生きた法である“判例”を届ける法律情報誌「判例時報」。過去に掲載された裁判例の中から、各分野の法律専門家が綴る“心に残る判決”についてのエッセイを連載。
判例時報社提供】

(毎月1回掲載予定)

刑法175条にいう猥褻文書とは徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう。本書の中の検察官が指摘する一二箇所に及ぶ性的場面の描写は……性的欲望を興奮刺戟せしめまた善良な性的道義観念に反する程度のものと認められる。従つて原判決が本件訳書自体を刑法一七五条の猥褻文書と判定したことは正当である。なお、本書は全体として芸術的、思想的作品であり、その故に英文学界において相当の高い評価を受けているが、芸術性と猥褻性とは別異の次元に属する概念であり、両立し得ないものではない。
――チャタレイ事件大法廷判決

最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決
【判例時報105号76頁掲載】

本判決は、新憲法が施行されてまだ10年ほどしか経っていない1957年に出されたものである。この1年前には石原慎太郎氏が、そして1年後には大江健三郎氏が芥川賞を受賞している。若者らの手によって戦前の価値観や秩序が大きく揺さぶられる中で、社会の一部の層は「過度」な社会変革に戦々恐々としていたのではないかと推測される。

私が初めてこの判決を読んだのは法学部生時代である。当時、日本の最高裁は「消極的」であるとしばしば聞かされてきた私は、本判決の大胆なまでの「積極性」に心から驚かされたものであった。

まず、最高裁は、本判決冒頭部分で、自ら『チャタレイ夫人の恋人』(以下、本著という。)の文学的価値を分析しそれに評価を下している。例えば、最高裁は、本著について「貴族階級の雰囲気に対する批判、工業化による美しい自然の破壊、農村の民衆の生活に及ぼす影響、鉱業労働者の悲惨な境遇、人心の荒廃、非人間化等の事実を指摘」するものであると自ら分析し、そして「小説の筋の運び方や、自然、社会、登場人物の性格の描写、分析や、著者の教養の広さを示すところの、ユーモアと皮肉に富む対話などからして、著者の芸術的才能を推知せしめる」として、自らその文学的評価につき判断を下している。このように最高裁自らが本著の文学的評価にまで踏み込んだ判断をしたことに対しては、多くの論者によって批判が加えられているところである。

しかし、より驚くべきは、その後続の部分である。最高裁は、裁判所が性道徳の維持において果たすべき役割について、以下のような旨を述べている。

「人間と動物を区別するところの本質的特徴の一つ」として、人間が羞恥感情を有することが挙げられる。したがって、「未開社会おいてすら性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはない」のであって、「要するに人間に関する限り、性行為の非公然性は、人間性に由来するところの羞恥感情の当然の発露であ」り、「かような羞恥感情は尊重されなければなら」い。……「もちろん法はすべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされているものではな」く、「単に社会秩序の維持に関し重要な意義をもつ道徳すなわち『最少限度の道徳』だけを自己の中に取り入れ、それが実現を企図する」。……そして、性一般に関する社会通念は「時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷」することもあるが……「性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在する」。それは、先に述べた「性行為の非公然性の原則」である。「かりに一歩譲つて相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければなら」ない。

上記の論述は――特に性道徳の維持に関する裁判所の役割について論じた部分については、真野毅判事も意見の中で述べている通り――必ずしも本件事案の解決に必要なものではない。にもかかわらず、最高裁は比類のない「積極性」を見せて議論を展開している。私は、ここに、戦前から戦後へと大きく時代が転換する中で「社会を道徳的頽廃から守らなければならない」という、最高裁の並々ならぬ気迫を感じてしまうのである。

本著の著者であるD.H,ロレンスは、本著を通じて、性を罪の意識から切り離し、完全な精神と肉体とを持った人間同士の触れ合いの中に人間の幸福を見出そうとしたと言われている。そして、彼は、性を一種の罪悪感に結びつけて考える「羞恥コンプレックス」から人間を解放することによってしか、男女間の真に対等な関係を築くことはできないと考えた(倉持三郎『「チャタレー夫人の恋人」裁判――日米英の比較』(彩流社、2007年)67~85頁)。しかし、おそらく、ロレンスの意図はそれのみにとどまらなかったであろう。チャタレイ夫人が本著で示した自由な性の追求が、男女の対等な関係の実現のみにとどまらず、イギリスの階級社会への抵抗等、社会におけるあらゆる既存の価値観への反抗の契機を含意していたように、性の解放は、あらゆる社会変革のエネルギーとなり得る。そして、これこそが、ロレンスが本著を通じて意図したことであったのではないだろうかと思われるのである。

実は、最高裁は、このようなロレンスの意図を誰よりもよく理解していたのではないだろうか。当時、すでに本著は他の「先進国」において文学作品として高い評価を受けていた。こうした中で、本判決は、日本の最高裁がいかなる判断を下すのかが試された事例でもあり、ひょっとすると、このことが最高裁をしてよりいっそう「気負った」判決を書かしめたのかもしれない。しかし、最高裁がここまで「本気」を見せたのは、このせいばかりではないように思われる。

検察側証人の中には、本著を「陳腐」で「くだらない」とか「最悪の書」であるとこき下ろした者もいた(倉持・前掲54~59頁)。しかし、最高裁は本著を文学作品として非常に高く評価している。だからこそ、そして最高裁は誰よりもよくロレンスの意図を理解していたからこそ、チャタレイ夫人という一人の女性の自由な性の追求に内在する社会変革のエネルギーの大きさに恐れおののいたのではないかと思われるのである。

 


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齊藤愛(さいとう・めぐみ 千葉大学教授)
東京大学法学部卒業。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学。博士(法学・東京大学)。専攻は憲法。主な著書は、『異質性社会における「個人の尊重」――デュルケーム社会学を手がかりにして』(弘文堂、2015年)など。