『データにのまれる経済学—薄れゆく理論信仰』(著:前田裕之)

一冊散策| 2023.07.11
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

はじめに

経済学が大きく変貌している。

経済学の花形といえば、数式やグラフで彩られた経済理論であり、経済学界では、理論やモデル作りに精通した学者が高い評価を受けてきた。経済学がかつて「社会科学の女王」と呼ばれていたのは、物理学や数学に強い経済学者たちがニュートン力学の背中を追いかけながら理論に磨きをかけ、他の社会科学と一線を画してきたためだ。

ところが、過去 20 年あまりの間に、経済学界の風景は様変わりした。数式やグラフに代わって前面に出てきたのは、実験や計量経済学の手法を活用したデータ分析である。今や経済学の学術誌 (ジャーナル) に論文を掲載しようとするなら、データ分析は不可欠だ。純粋に経済理論を展開するだけの論文は掲載を拒絶されるとの声を経済学者からよく聞く。

データ分析のスキルを活用し、ビジネスの世界に足を踏み入れる経済学者も現れている。日本ではまだ少数だが、アメリカでは、経済学や計量経済学の専門知を身につけた人たちが「データサイエンティスト」としてビジネスの最前線で活躍したり、政府の政策評価に携わったりしている。大容量のデータを処理できる「ビッグデータ時代」を迎えたいま、直接は世の中の役に立ちそうもない経済理論に浸るよりも、ビジネスや政策評価に役立つデータ分析に力を入れる方が「合理的だ」と判断する経済学者が増えているのかもしれない。経済学界は、こうした動きを追認、あるいは推奨しているのだろうか。

そんな疑問を抱きながら経済学の入門書や教科書を開くと、ギリシャ文字や記号の混じった数式やグラフが満載で、様々な定理や法則がひしめいている。経済学界から経済理論が姿を消したわけではなく、経済学の硬い岩盤は変わっていないようにも見える。

他の分野と同様に、経済学は「理論と実証」のバランスをとりながら発展してきた学問である。数学を駆使する数理経済学を筆頭に、理論偏重の傾向が強かったものの、実証にも一定の力を入れてきた。経済学の実証分析の中核を担ってきたのが計量経済学である。

データ分析を重視する近年の経済学界の潮流は、「信頼性革命」と呼ばれる実証分析の世界で起きた変化に端を発している。経済学者たちはランダム化比較試験 (RCT) や「自然実験」といった強力な分析の手法を手に入れ、革命を起こしてきた。

そもそも現在の経済学界で求められている「データ」とは何を指し、ビッグデータは経済学とどのように関連しているのか。そして、データ至上主義とも呼べる現状は経済学に何をもたらし、これからどこに向かうのか。

本書では、「理論と実証」のはざまで苦闘してきた経済学者たちの足跡を追いつつ、経済学の草創期から現在に至るまでの実証分析の全体像を描く (本文中では登場人物の敬称は略した)。データ分析の波が押し寄せている経済学界は、その波にうまく乗れるのか、それとも、のみこまれてしまうのか。本書が、世の中にあふれる「データ」や「データ分析」への接し方について、少し立ちどまって考えてみる材料になればと期待している。

2023 年 5 月

前田裕之

目次

  • 序章 データの波にのまれる経済学界
  • 第1章 ノーベル経済学賞と計量経済学、つかず離れずの歴史
  • 第2章 主役に躍り出た実証分析
  • 第3章 因果推論の死角
  • 第4章 RCTは「黄金律」なのか
  • 第5章 EBPMの可能性と限界
  • 第6章 消えゆくユートピア

書誌情報など