(第1回)はじめに:なぜヒトの性の生物学を学ぶのか?

ヒトの性の生物学(麻生一枝)| 2023.09.14
LGBTQ,少子高齢化,男女共同参画など,議論の的となっている社会テーマの多くは,ヒトの性と関係しています.「自分がどのようにして (how),自分になったのか」を知ることは,性的マイノリティの自己の確立に大きく影響し,また,年齢に伴う卵子や精子の老化は,私たちがどのようにキャリア形成とプライベートな生活 (結婚や家庭をもつなど) を両立していくかを考える上で,避けては通れない生物学的事実です.しかし現実には,様々な議論が,生物学抜きで,あるいは生物学の誤った解釈の下におこなわれており,責任ある立場の人々の誤った言説もあとを絶ちません.
このシリーズでは,私たちの人生に密接に関係する「ヒトの性に関する生物学的知見」を紹介していきます.

(毎月中旬更新予定)

LGBTQ,少子高齢化,男女共同参画など,私たちが直面している社会問題の多くは,ヒトの性と関係している.そして,「ヒトは生物の一種である」という事実を素直に受け入れるならば,これらの問題は,ヒトの性の生物学的側面におのずと関係せざるを得ない.

例えば,「自分がどのようにして,世の中の多数派とは異なる自分になったのか」を知ることは,性的マイノリティの自己肯定感に大きく影響する.「彼らがどのようにして,彼らになったのか」を学ぶことは,彼らの両親や兄弟姉妹,同級生など,まわりの人々が,彼らを理解し受け入れる助けになるだろう.そして,「自分を男と思うか,女と思うか,そのどちらでもないと思うか」,「異性を好きと思うか,同性を好きと思うか,そのどちらも好きと思うか」には,胎児期の性ホルモンが関係する.

今春 (2023年) アメリカで大きな論議の的となった,男性から女性に性を変更したトランスジェンダーの女性が,女子選手としてスポーツ競技に参加することの可否についてはどうだろう.思春期に多量に分泌されはじめる男性ホルモンや女性ホルモンの働きによって,筋肉量や肺活量など,男女の体や身体能力に違いが生まれることは,生物学的事実である.性ホルモンによって差ができるのはいつなのか.また,それによってできる差異はどのくらいなのか.性別適合手術やホルモン治療の開始時期によって,体や身体能力はどう変わるのか.スポーツの成績が身体能力に大きく左右される以上,生物学的なデータ抜きにこの問題を解決するのには無理がある.性的マイノリティの権利を守るという一側面からの議論で解決できるほど単純な問題でないことは確かである.

また,言うまでもないことだが,哺乳類の一種であるヒトの生殖において,男女の役割は同じではない.男性は受精に必要な精子を提供するが,精子と卵子の融合した受精卵は,女性の体内で発達・発育する.受精後出産まで,子を体内で育むのは女性である.母乳の分泌についてもしかり.ホルモン異常や薬の副作用などの特殊な場合をのぞき,男性は母乳を分泌しない.そして,思春期以降,生殖における各々の性役割を担えるように,男女の体は変化していく.月経やそれをコントロールする周期的なホルモンの変動は,女性特有のものであり,その変動は女性の体や精神の状態に影響する.さらに,精子をつくる性である男性と卵子をつくる性である女性とでは,生殖可能年齢に大きな違いがある.これらの違いは,私たちがどのようにキャリア形成とプライベートな生活 (子どもをもつなど) を両立していくかを考える上で,避けて通ることのできない生物学的事実である.

このように,ヒトの性に関わる問題に真摯に向き合おうとすると,否が応でもヒトの性の生物学的側面に辿りつく.しかし,現実には,様ざまな議論が,生物学の正しい知識抜きに,あるいは,生物学的事実の誤った解釈のもとに行われている.「LGBT は生産性がない」「女は産む機械である」など,政治家によるトンデモ発言は後を絶たない.その一方で,フェミニズム運動やジェンダー研究は,「ジェンダーは社会が生み出したものである」を御旗に掲げ,生物学不在のもとに進められている.そして,この傾向は一向に変わる兆しを見せない.

実は,もうかれこれ 12 年近く前に,私は『科学でわかる男と女になるしくみ』という本を出版した.その中の一節で,私は以下のように述べている (p. 138)

生物学的性差を示す研究結果を都合のいいように利用して,女性の社会進出や男女平等の動きを阻止しようとする保守派.保守派の利用した研究結果の問題点を列挙することで,生物学的性差の存在自体を否定し,男女平等を推進しようとする一部のフェミニスト.どちらも自分の主張のために,科学的研究結果を多かれ少なかれ,ねじ曲げて解釈しているのではないだろうか.

今回のこの連載を機に全体を読み返してみたのだが,上記のページを読んだところで,正直,かなりがっかりした.この 12 年の間に,状況が大きく改善したとは思えなかったからだ.

半世紀以上も前から,生物学者は,「私たち一人ひとりは,遺伝子やホルモンなどの生物学的要因と学習や経験といった社会的要因が複雑に絡み合い,作用することで形作られていく」と繰り返し伝えてきた.生物学的要因ですべてが決まるわけではないし,社会的要因ですべてが決まるわけでもない.その両方が重要である,ということだ.私たちが抱える性に関わる問題を,空理空論ではなく現実の問題として解決したいのであれば,社会的側面だけでなく,生物的側面も見ていく必要があるだろう.

というわけで,この連載では,ヒトの性に関するさまざまな生物学の話題を選んで話ししていきたいと思う.高校までの保健体育で深く学ぶことのなかった事柄.知ると知らないとでは私たちの人生が大きく変わりかねない事柄.そんな話題を選んでお話していく.


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麻生一枝 サイエンスライター,成蹊大学非常勤講師. お茶の水女子大学理学部数学科卒業,オレゴン州立大学動物学科卒業,プエルトリコ大学海洋生物学修士,ハワイ大学動物学Ph.D. (研究テーマは魚類の性分化・性転換).「健全な科学研究における統計学や実験デザインの重要性」「ジェンダー研究における生物学の重要性」という 2 つのテーマで活動してきている.著訳書に『科学でわかる男と女になるしくみ』(SBクリエイティブ),『生命科学の実験デザイン』(共訳,名古屋大学出版会),『科学者をまどわす魔法の数字,インパクト・ファクターの正体---誤用の悪影響と賢い使い方を考える』(日本評論社),『データを疑う力』(東京図書出版) など.