『日本学術会議―歴史と実績を踏まえ、在り方を問う』(著:大西隆)

一冊散策| 2022.12.05
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

はじめに

会長に選ばれた理由

「どうしても大西さんに会長になってもらいたい人たちがいるようだね」、東日本大震災の年、2011年10月3日のことである。この日に行われていた日本学術会議総会(以下、日本学術会議は「学術会議」と略す、必要に応じて正式名称を用いる)での会長選挙の開票作業中の休憩時間に、会場の学術会議講堂を出たところで、旧知のMさんが声をかけてきた。会長選挙は、総会出席会員による互選で行われる1)。この時は210名の会員のうち160名程が出席して、新しい期の最初の総会の最初の議事として会長の互選が行われていた。筆者は、当日の午前中に首相官邸で、改選された105人の新人会員の1人として辞令を交付されたばかりであり、もちろん選挙は初めてである。直前に説明を受けて知ったことだが、会長選挙は誰かが過半数を得票するまで繰り返し行われる。立候補や推薦制度はなし、会員であれば誰に投票してもいい。毎回、得票数の多い者から1票獲得者に至るまで選挙管理に当たる事務局から結果が報告され、それを参考に、同じ条件で投票を繰り返すというのがルールである。ちょうど2回目の投票結果が報告され、3回目の投票が行われた後の休憩だった。筆者に票が集まっていたものの、過半数には達していなかった2)。3回同じように投票して過半数獲得者がいなければ、上位2人による決選投票になる。Mさんは、筆者の票を見て、声をかけてきたのであろう。筆者も、学術会議について右も左の分からない身なのだから、会長になりたい、というより会長になるなどとは思っていなかったが、自分の意思を超えた力が働いているのを感じていた。

結局3回目の投票で筆者の得票が過半数を超えた。受諾するかどうかの意思表示を直ぐに求められ、戸惑いはあったもののこうして長時間の投票の挙句に選ばれた以上、引き受けざるを得ないと思い、“…会員の皆さんに協力していただけると信じて一大決心してお引き受けする”、という趣旨の受諾スピーチを行い会長に就任した。

その後、自分でもだんだんと知ることとなったが、新会員の、したがって“学術会議のいろは”を知らない筆者が選出されたのには理由があったようだ。1番大きな理由は、6年間会長を務める可能性があることである。学術会議の会員は6年任期、一方、会長任期は3年で、3年ごとの会員半数交代に合わせて会長選挙が行われる。そこで現職会長が再選されれば、6年間会長を務めることになる。しかし、冒頭のシーンにある2011年の会長選挙では、すでに前期の会長は会員任期を終えていた。そして会員を経験して事情が分かっている会員を会長に選んだのでは、会員任期が3年しか残っていないため再選はあり得ないことになる。6年間会長を継続する可能性がある者を選ぶには新人会員の中から会長を選ぶ必要があるという認識が、特に継続会員の中にかなり共有されていたようである。

では、なぜ6年間継続の可能性を持つ会長を選ぶ必要があったのか? それは、2015年頃までに、日本学術会議の組織の在り方に関する再検討に結論を出すことが政府内で決められており、国会もその結論に関心を持っていたからである。経緯については第4章と第6章で詳しく述べることにするが、04年春に日本学術会議法(以下、「日学法」と略す)の改正を行った際に、衆参委員会の付帯決議で設置形態の在り方に関する検討を、「今回の法改正後の日本学術会議の活動状況の適切な評価に基づき、できる限り速やかに開始」するとされ、改正法施行から10年、つまりこの時の会長選挙の次の会長の在任時にその期限が来ることになっていた。学術会議は法定設置であるから、在り方を決めるのは学術会議ではなく、国会である。政治的に決まることとはいえ、学術会議としてこの問題に的確に対応していくためには、これから期をまたいで議論される可能性のある問題に、一貫して臨む体制を整えること、特に責任者である会長はこの6年間を継続して担当することが望ましいと考えられていたようだ。こうした事情は、会長就任後に、役員経験者や、事務局から断片的に聞かされていくことになる。というのは、学術会議は、独特の組織で、継続性が希薄なのである3)。会員の6年任期は絶対的で例外はない。会員終了後、連携会員となってそれぞれの専門に関わる事項の審議に加わることはあるものの、組織の設置形態といった問題に関連して学術会議での検討が必要となれば、当然ながら各期の役員や会員が担当することになり、任期を終えた者が意思決定に関わることはない4)

設置形態は学術会議にとっては相当大きなテーマである。学術会議には常勤者50名強の国家公務員からなる事務局があり、活動に対応して総会やシンポジウムを行える講堂や大小規模の会議室がある建物を占用している。さらに会議には全国に勤務先や住まいが散っている会員や連携会員が参加するので旅費と手当を支給する。また、様々な国際組織に加入していてその会費や会議への参加旅費を支出する。これらは年間で10億円程の国の予算として確保されている。したがって、もし学術会議の設置形態が国の機関でなくなれば、予算はもとより、建物の使用や国家公務員からなる事務局の存在にも影響が及ぶ可能性があり、文字通りその根幹が大きく変わる可能性がある。もちろんこうした予算、スタッフ、施設もさることながら、“国を代表する科学者の組織”という位置づけは、対外活動を行う上で重要な意味を持つことは言うまでもない。したがって、じっくりと議論して、学術会議の在り方について国民が納得する結論を得ることができるよう、学術会議としても設置形態再検討の過程に関わっていくことが必要と考えられていたのである。

会長の責任

総会で会長に選出されたからといってこうした大きな課題に責任を持つことになるのを直ぐに自覚していたわけではない。会長選挙後は、通常の総会議事が始まったので、議長役を務めたり、一緒に事に当たる小林良彰さんや春日文子さん等、3人の副会長を指名したり、と慌ただしく過ごしながら、やや漠然と会長としての仕事について考えていた。特に気になったのは、本務とのバランスであった。当時、筆者は現役の大学教授だったので、自分の研究はもとより、講義や学生指導、その他でそれなりに多忙な日々を送っていた。そこに非常勤とはいえ会長業務が入ってきたのである5)。ただ、それまでも政府や自治体の審議会の委員等の大学外の仕事をかなり引き受けていたので、それらを多少減らせば、本務と会長職は両立できると考えていた。どうもそれは甘いかもしれないと思うようになったのは、ある出来事が総会に続いて起こったからである。

会長としての総会を終えて直ぐに、かねて約束していた九州への出張に出かけた。すると、携帯電話に学術会議の事務局長から着信があり、「職員が外部で不祥事を起こした。もしそのことが全国紙で取り上げられるようなことになれば、組織を代表して会長に記者会見で謝罪してもらわなければならないかもしれない」というのである。事件は半年前のことというので、もちろん筆者が会員になる前であり、いくら何でも責任があるとは思えない。そう率直に反発すると、ごもっともだが、組織の長として管理責任という観点から説明=お詫びしてもらわないと済まない場合があります、と諭された。テレビで見かける組織の長が記者会見で深々と頭を下げる光景が目に浮かんだ。幸い、この件は、さほど大きくは取り上げられずに、新会長としての初仕事がお詫びという事態は免れた。しかし、管理責任といっても、もっぱら研究室や学科の学生について責任を感じればいい大学教授と、学術会議という総勢で2,000人を超える組織の長の責任の違いを実感して、責任を問われることがあるのだから、それに応えられるように学術会議の活動やその在り方について積極的に理解しようという気になった6)

そこでまず行ったのは、事務局幹部から話を聴いて、事務局の仕事内容を理解することである。加えて、国の機関だからルールに基づいて活動しているはずなので、法律から運営方針に至るまでの諸規則を理解することが必要だと思った。また、学術会議には、かなり詳細に歴史をまとめた記録冊子があり、これまでの活動を知る上で参考になる。それを読めば、これまでどんなことに取り組んできたのかが分かる。早速、法規集や関連文献を入手して、土日を利用して読みながら、事務局に質問を繰り返した。そうすると、規則の解釈に関する疑問や、現実に行われていることと規則との間に齟齬があるのではないかといった疑問が出てきて担当者に再び質問することになる。最初のうちは、疑問が湧く都度、質問メールを担当部署の幹部に送っていたのだが、しばらくして、月曜日の朝にメールを開くのが怖くなってきたという声が聞こえてきた。会長からの厳しいメールが週末に来ているのを週のはじめに開くことになるからである。毎週月曜日にいろいろ細かな質問に対応せざるを得ないのは確かにストレスだろうなと反省して、質問のメールを週日に出すようにしたり、メールの文体を柔らかいタッチにするようにしたり、など工夫するようにした。ストレス解消にどれほどの効果があったかは分からないが、職員に無理を強いたり、詰問することが会長の本意ではなく、規則等を重んじ、慣行に合理性があれば尊重して、改めるべきところは改めるという考え方で組織を運営しようとしていることは伝わったのではないかと思う。

それとともに、職員は業務に精通しているから新人会長の質問に容易に答えられる、という認識が必ずしも正しくないことも悟った。学術会議は内閣府のひとつの局に相当するから、職員のほとんどは2~3年で交代していく7)。また戻ってくる職員もいるが、部署が変わったりするので、職員といえども、独自の法律の下で他の部局とは異なる運営が行われている学術会議について熟知しているとは限らないからである。段々とそれが分かってきたので、自分が抱く疑問についてはむしろ職員と一緒に考えるという姿勢が適切なのだと思うようになった。

こうして学術会議の活動に、当初想定していた以上に深く関わるにつれ、本務との両立が難しいのではないかと思うようになった。会長に選ばれた時、たまたま所属する学科の長をしていたのであるが、これについては、同僚が気を遣って交代してくれた。ただ、それでも研究室の運営が大変だなと考えて、教授を辞して、自分は併せて運営していた寄付講座に移って、教授ポストを補充できるようにしようと考えて、人事の責任者である研究科長に、辞表を用意して相談に行ったところ、直ぐに事情を察して、辞表を留めて、特別の補充人事を可能としてくれた。これで、大学の方は、迷惑はかけるものの、何とか態勢を整える目途がつき、次第に深く知るようになった会長として自分に課せられた役割に取り組む気持ちを高めることができるようになった。ただ、会長選考の経緯を振り返ると、どうも学術会議の設置形態だけが重点的に取り組むべき課題とは言えないという思いが強くなった。

東日本大震災と学術会議

実は、会長選挙後になぜ自分が選ばれたのだろうと考え、到達した答えは設置形態とは別なことだった。設置形態は後日その大きさを認識するようになったものの、選挙の時点では、学術会議を取り巻く政府の動きについてはほとんど知識を持っていなかったので、自分で思い当たったのは、東日本大震災における学術会議、あるいはそれが象徴する専門家の責任や役割であった。東日本大震災では、科学の粋を集めたといえる原子力発電所が津波によって大きな事故を引き起こし、無残な姿をさらけ出すことになった。

学術会議は、震災直後から、文字通り組織を挙げて活動し、シンポジウムを開いたり、提言をまとめたり、様々な角度から精力的に大震災に関連した問題と取り組んできた。そのことは、学術会議のHPに掲載されている活動記録からも見て取ることができた。東日本大震災が起こったのは、学術会議にとっては3年を単位とする期(筆者が会長となる前の2008年10月から11年9月まで第21期)の2年半が経過しようとしている時である。したがって、この期の活動の成果である提言や報告をまとめるための詰めの審議をそれぞれの委員会が行っていた時期に当たっていた8)。しかし、そこで学術の分野にとっても極めて重大な意味を持つ大震災が起こったので、急遽それぞれの活動を大震災に関連した取り組みに切り替えることになった。ここでいう重大な意味とは、地震、津波、原子力災害で被害を受けたり、避難を余儀なくされた被災者の方々の救助や被災地の復旧、復興を進めていく上で、学術の蓄積を生かすことである。しかし、実はそれ以上に深く突き付けられていたのは、これまでの学術の営みが東日本大震災の被害を拡大することに結びついてはいなかったのかという反省であった。つまり、東日本大震災では、構造物や居住地の安全性、さらに原子力発電所の安全性が根本から覆されることになった。三陸地方のある町では、高さ10メートルを超える防潮堤が二重に張り巡らされて、その内側は津波が来ても大丈夫とされて居住地に充てられていた。しかし、東日本大震災では大津波が防潮堤を破壊したり、乗り越えたりして守られるはずの町を飲み込んで大きな被害を出した。防潮堤を安全と考えたのには学術の裏付けがあったはずだ。

原子力発電所に至っては、原発を推進してきた東京電力や専門家たちが起こるはずがないと言ってきた原子炉の冷却不全が起こり、メルトダウンや大量の放射性物質の拡散という最悪の事態を招いてしまった。学術会議には、こうした分野の専門家も会員として加わっていながら、これまで積極的に警鐘を鳴らしたり、改善を求めたりしてきたとは言えなかった。原子力平和利用については、学術会議の発足の頃から強い関心を持ちながら、原子力船むつ放射線漏れ事故、スリーマイル島原発事故、チェルノブイリ原発事故、東海村JCO臨界事故等の国内外の事故の際に原因究明のための的確な活動や警鐘を鳴らす活動を行ってきたとは言えなかった。しかも、だんだんと物を言わなくなってきたとすらいえる。つまり、専門家集団を擁しながら、その専門知識を利用した施設の安全性等について公益的な観点からいうべきことを言うというスタンスではなく、専門知識の利用を拡大すること―つまり原発の建設や堤防等の整備―に熱心になってきたのではないかという反省が求められていたのである。そして、震災直後の段階では、科学者・技術者としての反省が必要だという問題意識は共有できていたとしても、どのように反省するのかについては議論の途上にあるものが多かった。そして、この曖昧さが、大震災からの復興対策に関わる学術会議からの提言等の価値を低めていたのではないか。あるいは、学術会議の内部での議論に時間がかかり、対外的な発信に遅れが生じたのではないか。その結果、大震災に関連する学術会議からの提言等が、十分に社会的に評価されないもどかしさを、学術会議が抱くことになったのでないか。

東日本大震災が起こった時、筆者は、連携会員としていくつかの会議体のメンバーであったとはいえ、未だ会員ではなく、学術会議の動き全体を十分に知る立場にはなかった。一方で、政府が設置した東日本大震災復興構想会議の委員として、復興構想の策定に向けた議論に加わっていた。復興構想会議に対しては、経団連をはじめとする経済団体等から意見書が寄せられていた。学術会議でも、「東日本大震災被災地域の復興に向けて――復興の目標と7つの原則」等の提言が出された。しかし、経済団体などから提言が、復興構想会議の議論が本格化し始めた4月終わりには届けられていたのに対して、この学術会議の提言は、6月初めにまとめられたもので、すでにその時点では復興構想会議は復興計画の原則をまとめ、骨子が提案されようとしていた9)。科学の知見を必要としたテーマは多かったが、緊急性を要する課題に対して学術会議の対応が遅れたのは否めなかった。学術会議がもどかしさを感じる所以はこんなところにも潜んでいた。

しかし、復興には時間がかかるし、福島の原発事故は当時まだその行方も見通せなかったので、学術界が科学的な分析を踏まえて、復興のために有益な意見を発していく機会はまだまだあるはずだ。新しく始まった期において学術会議が一層東日本大震災からの復興に力を尽くすことが必要で、それをリードするのが会長としての役割ではないか、それこそが自分が会長に選ばれた理由だろうと考えたのである。

こうした考えから、会長に選出された直後の幹事会で、東日本大震災復興支援委員会を設置して会長・副会長と各部長を始めとする幹事会メンバーを構成員とする委員会を発足させて、学術会議をあげて復興支援に取り組むこととした10)。トップダウンの体制ばかりではなく、それぞれの専門分野においても積極的にこの問題に取組んでもらうようにお願いした。その結果、第22期が終わる2014年9月末までに30本程の提言や報告などがまとまり公表されることになった。産業復興、水産業、農業、沿岸域土地利用、環境問題、国土強靭化等の多様な観点から復興を考えるものであった。特に、避難解除の見通しが立たずに、災害が継続されているともいえる福島の原発事故に関連する提言や報告は全体の半分以上を占め、放出された放射性物質による健康被害や風評被害への対応、長期避難者の生活再建等について学術会議としての提言などを行うことになった。復興や震災対策に関わるこうした活動は、学術組織の行うべき提言活動として評価を得て、学術会議の活動の全般的な評価にもプラスに働いたと筆者は考えている。当然ながら、学術の寄与が求められる領域で、社会の期待に応えようとすることは重要なのである、

東日本大震災からの復興に関わる学術会議での議論を通じて感じてきたことは、政府等が設置する委員会での審議とは異なって、学術会議は専門家が集まって、科学的知見を基に問題を掘り下げながら審議するので審議に時間がかかりがちということである。加えて、審議会などと異なって、専門の事務局や調査の委託先を持たず、会員・連携会員からなる委員が、自ら資料作成、議事録作成、提言などの執筆に当たる。委員は、それぞれが本務を抱えているので、フルタイムで学術会議の業務に当たることはできずに、どうしても審議やまとめに時間がかかる。しかし、一方で、震災対策や復興支援のように進行している問題に対する提言は、できる限り短時間で見解をまとめられなければ、行政や社会が参考資料や助言として活用することができない。そこで、学術会議のそれぞれの期の単位である3年間の中で審議してまとめるという通常のスタイルではなく、より短時間でまとめるような即応性を重視した取り組みを意識的に導入できるようにした。例えば、先に述べた復興支援委員会の提言は、半年間でまとめることを予め定め、実際2012年4月には「学術からの提言――今、復興の力強い歩みを」というタイトルで、災害廃棄物の広域処理というその時点で社会が注目していたテーマを含む大きく4つの課題(「災害廃棄物の広域処理のあり方について」、「二度と津波被害を出さないまちづくり――東北の自然を生かした復興を世界に発信」、「被災地の求職支援と復興法人創設――被災者に寄り添う産業振興・就業支援を」、「放射能対策の新たな一歩を踏み出すために――事実の科学的探索に基づく行動を」)に関する提言を英語版とともに公表した。

審議とまとめに時間がかかるために、学術会議の取り組みは、科学に関する問題でもにわかに社会問題化したようなテーマには向かない、といういわば暗黙の制約があった中で、このように短期集中で議論をする体制をとり得ることが示せたのは意味があった。この経験が、この後、例えば、科学者の研究不正問題で社会的関心を集めることになったSTAP細胞問題でも比較的短期間で学術会議の見解を公表することにつながった。

もちろん、他方で、じっくりと時間をかけて取り組むべきテーマがあることは当然である。例えば、この時期には、大学教育の質を確保するために、それぞれの分野で標準的に学修するべき内容をとりあげた、「大学教育の分野別質保証のための教育課程編成上の参照基準――○○分野」(○○にはそれぞれの分野名が入る)というタイトルの報告を順次とりまとめて公表しており、自然科学系から人文社会科学系まで、全部で30程の分野をカバーすることになった。学術会議の問題意識は、小学校から高校までは学習指導要領によって教えるべき内容が決められており、それに基づいて教科書も検定を受けている。しかし、大学教育では教育内容は各大学、さらには各教員に委ねられていて統一性がない。もちろん学問の自由という観点から、大学教育では、特に取り上げる内容に規制を設けることは適当ではないが、かといって同じタイトルの講義名で内容が大きく異なれば、学生にとっても大学や学部を選ぶ際に何を学べるのかの情報が曖昧なものとなるし、学生を受け入れることになる社会にとっても何を学んできたのかが明確でなければ評価に困る。そこで、学術会議のようないわば研究者や教員の側にある自立的な組織が、参照基準という緩い形で大学において学修するべき内容を示すことで、大学・学部でのカリキュラム編成、各教員のシラバス作成に役立ててもらおうというのがその趣旨であり、第19期に会員を務めた北原和夫さん達が、ほとんどのすべての会員を組織して、熱心に取り組んでくれた。医療系のように大学教育での達成度を国家試験で確認して、資格が付与されるような分野では学修内容は厳密に定まっているといえようが、ほとんどの分野ではかなりの自由度があり得るので、この「参照基準」の有効性は高いと思う。実際、後に私が学長を務めることになった大学でも、参照基準を参照することで、カリキュラムの編成に自信が持てるという評価も聞いた。

学術会議とは何か――本書の狙い

こうして、東日本大震災復興支援に向けた審議とともに筆者の会長任期が始まり、再選を挟んで6年間務めることになった。途中からは、愛知県にある国立大学の学長に選出された上に(2014年4月から豊橋技術科学大学学長)、学術会議の仕事は、同じことの繰り返しというのは少なく、常に新しい課題が現れるという具合だったために、いわば歩きながら考えて会長任期を過ごしたという印象であった。終わって一段落、ということになるはずであったのだろうが、任期終了後3年経って第1章で述べる首相による任命拒否問題が起こった。ちょうど第24期から第25期への移行期に起こったこともあって両期の執行部が対応し難く、不正確な情報が広まったり、誤解が生じやすかったこの問題の解説役やら弁護役が筆者に回ってきた。様々なメディアからの取材や、見解表明の機会(もちろん会長経験者であるとしても個人の立場でであったが)を与えられて、3~4か月間という短い期間ではあったが、思いがけずに学術会議中心の生活が復活することになった。その中で考えたことは、会長在任中にいずれ時間ができたら調べてみよう、考えてみようと思っていたこと、それは突き詰めれば、“日本学術会議とは何か”ということになろうが、それが、退任後も、本務である学長職が継続していたこともあって、結局できていなかったことであった。つまり、自分達の時代に学術会議が何をしたのかには答えられても、どういう経緯や理由でそうしたのかになるとあやふやなことが少なくなかった。

実は、学術会議には、ある時期まで詳細な記録がある。『日本学術会議二十五年史』、『日本学術会議続一〇年史』、そして『日本学術会議五〇年史』である。学術会議の発足は1949年であるから、五〇年史は20世紀における学術会議の活動をカバーしていることになる。個人的な感想では、この中で読み応えがあるのは、二五年史であり、続一〇年史がそれに次ぐ。その理由は、五〇年史が年表風にまとめられていて、それぞれの出来事の発生時期は分かっても、その背景や展開にまでは踏み込んでいないのに対して、二五年史にはその辺りが詳しく書かれている。続一〇年史は、第3章で述べる83年の法改正をめぐる動きについて詳しく述べたものである。だから、もし現代に近いところまで二五年史のような記録が作られていたら、日本学術会議とは何かを考える有力な手掛かりとなっていたと思うのだが、残念ながらそうはなっていない。加えて、学術会議は独立した組織とはいえ、現在は内閣府、それ以前も特定の省庁に属した。そのため、読み応えがあるといっても、これら年史の記述には一定の制約があると読みながら感じざるを得なかった。その意味で、学術会議が何であるのかを知りたくとも、物足りなさを感じさせる文書しか手に入らなかったといえよう。もちろん本書が日本学術会議を知る上で完璧な参考書になるわけではないが、少なくとも筆者なりの見方を提供することで、多角的な視点で学術会議の実像を浮かび上がらせるための手掛かりとなるかもしれないと考えたことが本書執筆の動機である。

本書は、学術会議を歴史的に考察する縦糸と、第二次世界大戦後、日本学術会議が発足してからの主要課題とそれへの取組を考察する横糸から構成した。縦糸では、日本学術会議が発足した戦後だけに留めるのではなく、明治維新とともに、積極的に洋学を取り入れた中で、科学アカデミーについても海外に学ぼうとした先人の動きを明治初期から辿ろうとした。明治初期に形成された日本の科学アカデミーは現在の日本学士院が継承していると一般には理解されている。しかし、国としての最初の学術組織であった東京学士会院が有していた意見開陳を行う機能は、日本学術会議が持つ勧告等を行う建議機能に引き継がれていて、日本学士院はそのような機能は持たない。その意味で、日本学術会議は第二次世界大戦後に新設された組織であるとはいえ、意見開陳・具申、建議、勧告、提言等様々に表現できる科学アカデミーの持つべき科学的助言機能を継承した組織といえよう。そして科学的助言機能の発揮を含む学術会議の活動の具体的な展開を、六つのテーマに絞ってではあるが、取り上げたのが第5章であり、学術会議の活動の方向と幅を描こうとした。

筆者が日本学術会議についてまとめることに着手したのは、2年前に起こった首相による会員任命拒否問題が発端である。そして、この問題は、捻じ曲げられた形で学術会議の在り方論へと及んでいった。そこで本書でも、改めて会員任命問題を第1章で取り上げ、そして在り方論については第6章で取り上げる構成にした。近代国家においては、科学者の活動が国を構成する部分として確立されることが不可欠であるとの観点から、学術会議の在り方を考察したのがその章である。

目次

はじめに

  • 第一章 首相による会員任命拒否問題
    •  第一節 任命拒否問題の経過
    •  第二節 任命拒否問題の論点
    •  第三節 菅義偉首相の貧困な国会答弁
    •  第四節 会員推薦に関わる官邸と学術会議の「調整」はあり得るのか?
    •  第五節 学術会議事務局による「怪文書」
    •  第六節 内閣支持率の急落
  • 第二章 日本学術会議前史
    • 第一節 日本学術会議の起源は明治初期
    • 第二節 帝国学士院と国際舞台へのデビュー
    • 第三節 主要国におけるアカデミーの発足と国際連携
    • 第四節 二つの大戦と科学アカデミー
  • 第三章 日本学術会議の設立と変遷
    • 第一節 日本学術会議の設立
    • 第二節 発足時における日本学術会議の組織と役割
    • 第三節 科学技術政策と学術会議の役割変化
    • 第四節 一九八四年施行の法改正をめぐる攻防
    • 第五節 会員選挙制度の評価
    • 第六節 学協会による推薦制とその後
  • 第四章 二〇〇五年法改正――行政改革と学術会議
    • 第一節 〇五年法改正、行政改革会議の議論
    • 第二節 総合科学技術会議(CSTP)での議論
    • 第三節 日学法改正法の審議と成立
    • 第四節 改正法の実施
    • 第五節 〇五年改革の評価
    • 第六節 移転問題の評価
  • 第五章 日本学術会議の活動
    • 第一節 研究機関の整備と学術の長期計画
    • 第二節 学術、そして戦争と平和
    • 第三節 原子力の利用
    • 第四節 自然災害
    • 第五節 憲章と行動規範
    • 第六節 国際活動とフューチャー・アース
  • 第六章 学術会議改革論
    • 第一節 改革論の経緯
    • 第二節 日本学術会議の在り方に関する政策討議取りまとめ
    • 第三節 日本学術会議と総合科学技術会議・イノベーション会議
    • 第四節 学術会議の在り方
    • 第五節 学術会議の組織形態と独立性
    • 第六節 学術会議の更なる改革への課題
    • 第七節 学術会議の改革

おわりに

書誌情報など

脚注   [ + ]

1. 日本学術会議法第八条第二項。
2. 学術会議HPに第161回総会速記録が掲載され、投票の模様も記録されている。
3. 学術会議もかつては数期にわたって会員を務める場合があり、おのずから過去の経験が継承されていた。現行制度では、任期6年間、3年ごとの半数交代とされているので、一斉に交代するのに比べれば過去の経験の継承が可能といえようが、組織運営に当たる執行部についてもこうした継承が行われることは保証されていない。
4. 科学アカデミーの国際組織や、海外アカデミー、あるいは諸学会などには、直前会長、次期会長を役員とし、意思決定の議論に加える制度を持つ場合もあるが、日本学術会議ではそうした制度を採用していない。
5. よく誤解されるが、学術会議の会員は全員が非常勤職である。会員は特別職国家公務員、連携会員は一般職国家公務員となる。
6. 学術会議の構成員は、会員210人、連携会員約2,000人、事務局は任期付職員を含めて約60人である。この他、約2,000の協力学術研究団体(会員・連携会員候補者に関する情報提供を行ったり、審議に関する協力、イベントの共同開催等を行う)が指定されている。
7. 学術会議の職員は内閣府内の人事異動だけではなく、文部科学省や外務省からも異動してくることがあった。その場合にも、官庁の人事ローテーションに従うので、在任期間は、内閣の場合と同様にそう長くはない。
8. 学術会議では、全ての対外的な文書の発出を幹事会で決定しているために、各期の委員会等は成果をまとめるに当たって、幹事会での審議、それに伴う修正意見への対応に要する時間を確保して委員会等の取りまとめを行う。このため、期末から半年前は取りまとめの時期に当たる。
9. 東日本大震災復興構想会議、「復興への提言――悲惨の中の希望(提言)」は、2011年6月25日に公表された。
10. 幹事会は、会長副会長、各部の部長・副部長・幹事(各部2人)の合計16人からなり、月1回のペースで開催。発表文書に関する最終決定など多くの権限を総会から委任されている。