(第55回)判例評釈の役割とは何か(舩津浩司)

私の心に残る裁判例| 2022.12.01
より速く、より深く、より広く…生きた法である“判例”を届ける法律情報誌「判例時報」。過去に掲載された裁判例の中から、各分野の法律専門家が綴る“心に残る判決”についてのエッセイを連載。
判例時報社提供】

(毎月1回掲載予定)

ジュピターテレコム株式取得価格決定許可抗告事件

株式会社の株式の相当数を保有する株主が当該株式会社の株式等の公開買付けを行い、その後に当該株式会社の株式を全部取得条項付種類株式とし、当該株式会社が同株式の全部を取得する取引において、右公開買付けが一般に公正と認められる手続により行われた場合における会社法(平成26年法律第90号による改正前のもの)172条1項にいう「取得の価格」

最高裁平成28年7月1日第一小法廷決定
【判例時報2321号121頁掲載】

一般に判例評釈とは、評釈者の主張に照らして対象となる裁判の判旨・決定要旨等の当否を論ずるのが標準的なスタイルであるように思われるが、本稿の筆者は、対象判例に対する自らの評価を示すことなく、先行評釈が行う対象判例の「読み方」の批判に多くの紙幅を割くという、ある意味で異様な内容の“判例評釈”を書いたことがある(民商法雑誌153巻3号〔2017年〕445-464頁)。その対象判例が本決定であるが、なぜそのようなことをしたのかについての背景事情は次のようなものである。

本決定で問題となった取得価格決定申立制度や株式買取請求制度など、学説において法の経済分析の手法を用いて制度のあるべき姿を論ずることが盛んな分野について、従来型の法学の方法論に慣れ親しんでいる者が理解するのは相当に困難であるようであり、結果的に、とりわけ下級審裁判例等で、学説の精緻な分析内容を十分に消化しないまま議論が展開されることが少なくない。本決定に対しても、同様に先行評釈による精緻な分析が展開されたものの、その中には、本決定の文言からは直接導き出せない、評釈者の独自の価値判断に基づく規範を判例法理の内容として提示するかのような議論も見受けられた。要するに、筆者としては、先行評釈が本決定から導かれると主張する内容が、あたかも本決定において最高裁自身が示した規範であるかのように以後取り扱われることに懸念を抱いたのである。

そこで、本決定の文言のみから論理的にはどの範囲までの規範を導き出すことが可能か、逆に、本決定(を含めた一連の最高裁決定)に対して施された先行評釈の分析の中で最高裁としては述べていない内容はどこからなのかを明確にすることで、後者に含まれる学説の価値判断の当否そのものを議論の俎上に載せるための下地を作ることに専念する“判例評釈”を書いてみたのである。もっとも、そのようなスタイルとなった主な要因は、筆者自身がこの問題に関する評価軸を固めるに至っていなかったためであることも否定できない。

幸い、そのような固有の評価軸を持たない筆者の“判例評釈”の主張を受けて、本決定の文言全体を適切に評価する評釈や、「それでもやはり先行評釈の内包する価値判断は正しいのであり、したがって、先行評釈の規範的主張は正しい」ことを論証する論考も現れるなど、学説においては一定の反応を得ることができた。しかしながら、そのような論点がありうることに裁判実務の注意を向けさせることができたかは甚だ心許ない。そのようなものとして実務に受け止められるためには、固有の評価軸に基づく規範的主張を伴う必要があるのかもしれない。

本決定は、判例評釈の役割とは何かを、自らに繰り返し問うこととなった(そしてその答は未だに得られていない)という意味で、筆者の心に残る判例である。さらに余計なことを言うならば、標準的スタイルから外れた筆者の上記“判例評釈”が、先行評釈と対立した規範的主張を行うものとして受け止められ引用されることがある点においては、心残りのある判例でもある。


◇この記事に関するご意見・ご感想をぜひ、web-nippyo-contact■nippyo.co.jp(■を@に変更してください)までお寄せください。


「私の心に残る裁判例」をすべて見る


舩津浩司(ふなつ・こうじ 同志社大学教授)
1975年生まれ。同志社大学法学部助教、准教授を経て2016年から現職。
著書に、『「グループ経営」の義務と責任』(商事法務、2010年)、『会社法判例40!』(共著、有斐閣、2019年)等がある。