『「生きづらさ」を聴く:不登校・ひきこもりと当事者研究のエスノグラフィ』(著:貴戸理恵)

一冊散策| 2022.10.28
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

 

 

まえがき

「この場は、やっぱり乾パンでしょう」

2019年3月、参加して4〜5年になるHさん(30代男性)が、紙皿に乾パンを開けて配ってくれた。

私たちの場は、「生きづらさからの当事者研究会」という名で、主に大阪市内で活動している。通称は「づら研」。月に一度、不登校やひきこもりなど何らかの「生きづらさ」を抱えた人びとが10〜15人くらい集まり、10分の休憩を挟んで4時間話す。私はそこにコーディネーターという立場で関わっている。

乾パンは懐かしかった。づら研に開始時から関わっていたIさんという人が、よく差し入れてくれていたのだ。Iさんは公務員を退職した70代の男性で、子どもが不登校になった縁でフリースクールに関心を持ち、づら研にもよく顔を出していた。体調を崩され、やがて来ることがかなわなくなった。新規の参加者が増えてきたその頃では、もうIさんのことも、Iさんの乾パンのことも、知る参加者は少なくなっていた。私たちは、ぼそぼそと乾パンをかじりながら話し合いの続きを始めた。

パンと薔薇をください。

そう言ってかつて労働者は行進したという。

こちらはといえば、月曜日の午後に壁の薄い大阪ボランティア協会の会議室に詰めている。ロの字型の机と、狭い空間にひしめき合うパイプ椅子、壁二面のホワイトボード。ここで「逃げ道の研究」「怒られるのが怖い問題」といったテーマを設定し、各々が抱える「生きづらさ」について話し込んでいる私たちは、いったい何をしているのだろう。何を「ください」と訴えているのだろう。そもそも何かを訴えたりしているのだろうか。「ください」と言ったところでくれるという相手は誰なのか。何もかも、ぼんやりとしている。ただ一つ確かなのは、それらを問わないままではもう、「行進」ができなくなっていることだ。

パンは日々の食べもの、薔薇は文化を指す。

私たちの暮らす社会では、昼夜かまわずコンビニに行けば、ペットボトルのお茶とセロファンにくるまれたおにぎりやサンドウィッチで腹を満たせる。誰とも話さず本さえ開かなくても、テレビを点けてインターネットをいじっていれば、情報は入ってくるし退屈は埋まる。足元に迫る満ち潮に側壁へと追い詰められるような将来の不安も、氷を飲み込んだような劣等感も、鈍麻させてくれる嗜癖の対象には事欠かない。

それなのに集っている。

パンはここには求めようもなくて、薔薇はかろうじて「ありうるかなぁ」という感じ。でも乾パンはある。以前配ってくれていた人がいなくなっても、それを覚えていて、また別の人が持ってきてくれたりする。「何かあたたかなものが落っこちていたから、拾ってみて、それがよかったので、自分も落っことしてみようかと思う」。そこで生起しているのは、そういうシンプルなことだ。連帯と呼ぶには流動的すぎるだろうし、まして「連帯を求めてこの場に人は集う」と目的的に言いうるほどあらかじめ設定されているわけでもない。行きあたりばったりで、あてにはならない。

ただ、こういう瞬間が時どき私たちを訪れて、私はそれを嬉しいと感じる。そして場を維持することを続けてみようと思う。それが繰り返される。

ここに記述した情景は、私の念頭にある「生きづらさ」から始まる共同性の原風景のようなものである。本書では、そうした共同性の有り様やその意味について探求していく。

「生きづらさ」という言葉に、人はさまざまな思いを抱くだろう。「本当にこの社会は生きづらい」と深く納得する人がいるかもしれない一方で、「弱さや苦痛にばかり注目するのは建設的でない」と否定する人もいるに違いない。「曖昧でうさんくさい」と慎重に遠ざける場合もあるし、単に「自分には関係ない」と素通りする人も多いだろう。実際に、づら研をフィールドにしている私がしばしば受け取るのは、「生きづらい人たちがいるのは分かったが、自分には関係ない」という反応である。

だが、ちょっと待ってほしい。「一部の生きづらい人」と「大多数の生きづらくない人」がいる、というのは本当だろうか? むしろ現代社会では、誰もが「生きづらさ」を抱えうるのであり、「今たまたま生きづらい人」と「たまたま生きづらくない人」がいるにすぎないのではないだろうか?

「生きづらさ」は、個人化(Beck 1986=1998)が進行するなか、人びとが人生経歴における社会構造的に規定された部分を「自由裁量・自己責任」と見なすようになることに関わっている。私たちが暮らす社会では、個々のキャリアは見通しの悪いものとなっており、人びとは有用性の高い人材になるべく自己をコントロールするなど「自分自身の資本家」となるよう求められている。こうした能力主義的競争は、隙間なく全体を覆っていて、競争に勝っても、負けても、降りても、この重圧からは逃れられない。しかもそれは、分かりやすい抑圧ではなく「楽しんで」やるものとして提示され、ゴールはなく、生涯続くのだ。こうした状況に照らせば、潜在的には「生きづらさ」の当事者でない人などどこにもいないのではないか、と私には思われる。

にもかかわらず、集団的な抵抗の足場は掘り崩され、私たちは個々バラバラにされつつある。市場と結びついた多様化の潮流は、マイノリティでも「生産性があると見なされた者」を新たにすくい上げる一方で、マジョリティ・マイノリティを問わず「生産性がないと見なされた者」をふるい落としていく。このことは、マイノリティの連帯を支えていた集団の同質性に亀裂を入れ、個々の困難に対処するうえで「誰かとともに声を上げる」よりも「単独でがんばる」ことのほうを、魅力的な選択肢にしてしまうだろう。

こうした状況を踏まえて本書では、フィールドワークを通じて「生きづらさ」を抱えた人の意味世界に迫るとともに、「生きづらさ」を、「自分には関係ない」と感じている人びとも含めた社会全体の連帯の基礎として、捉え直すことを目指す。

「生産性があるか、ないか」――それは、性や階級といった属性による分断に加えて、現代に生きる人びとのあいだに亀裂を入れる決定的な要素となりつつある。その分断を超えて、「生産性があるとされた人」と「そうでない人」のあいだに橋を架けるとすれば、誰もが生きづらくなりうる社会を逆手にとって、自分の足元にある「生きづらさ」に目を凝らし、そこから共通理解の基盤を創っていくことが、一つの可能性になるのではないか。この本は、そのような問題意識から書かれた。

このようなスタンスは、「より生きやすく」なるために、自分でがんばることを否定するものではない。最終的に「生きづらさ」と向き合うのは自分自身にほかならず、自己の状態を変化させることができるのは、自分自身でしかありえない。それはどうしようもなく確かであり、暗い山道に揺れる灯のような希望でもある。

しかし、重要なのは、自己は「こうしよう」と思い立って努力すればその通りになるような、自分の意志でコントロールできるような、底の浅いものではないということだ。自己を変化させようとするさまざまな営みにおいては、出口の見えない堂々めぐりがよく起こる。積み上げては崩れ、踏み出しては撤退し、答えが見つかったと思った瞬間に新たな問いが生じる。そうした堂々めぐりがらせん状にずれていくなかで、風が通り抜け、身が軽くなり、少し楽に息ができる瞬間が訪れる。その複雑さやまっすぐに行かないところこそが、自分の人生を生きることの汲み尽くせない豊かさなのだとしたら、「自助努力」や「自己責任」ですべてを捉えようとする認識は、あまりに貧しく、もったいないと思うのである。

本書はオーストラリアのアデレード大学に提出した博士論文 Engaging the angst of unemployed youth in post-industrial Japan: A narrative self-help approach に大幅な加筆修正をしたものである。だが、アカデミズムだけでなく幅広い読者を想定している。

支援専門家の方がたには、「生きづらさ」がどのように抱えられ、変化していくか、そのプロセスにおいて本人の認識や言葉がいかに重要な意味を持つかを、提示できるものとなっていれば嬉しい。

自助活動や社会運動に携わる方がたが読んでくだされば、公開性と安全性をともに追求していくうえでの葛藤や苦労も含めた現場の描写を、実践のヒントとしていただけるかもしれない。

そして、今、困難を抱えている方がたの手に届き、他者の「生きづらさ」を知ることで自分の「生きづらさ」を理解したり、「生きづらさ」を他者や社会との関係のなかで捉え直していくきっかけとしてもらうことができれば、これほどありがたいことはない。

目次

まえがき

序章 誰もが「生きづらく」なりうる社会
1 二つの問い/2 調査概要/3 本書の構成
第1章 「生きづらさ」とは何か
1 「生きづらさ」の特徴と定義/2 「日本型の排除」としての「生きづらさ」
第2章 当事者研究を引き受けるために
1 「当事者研究とは何か」という問いをめぐって/2 「当事者」概念の検討/3 「不登校の当事者運動」から「生きづらさの当事者研究」へ/4 まとめ
第3章 づら研はどのような場か
1 制度上の位置づけ/2 理念/3 会の流れ/4 テーマ、やり方/5 づら研の歴史/6 なぜづら研なのか
第4章 「生きづらさ」とは何か
1 現れる「生きづらさ」/2 「生きづらさ」の構成要素
第5章 つながりの喪失・回復はいかに起こるか──インタビューを通じて
1 個々のケースから/2 分析①──いかに困難になるか/3 分析②──いかにつながりを取り戻すか/4 まとめ
第6章 「私」とは誰か、「この場」とは何か
1 居場所/2 当事者/3 終わらない「その後」
第7章 づら研では何が起こっているのか
1 相互作用と介入/2 「誰でも参加できる」場の設定と葛藤への対応/3 「「問い」の共有」という思想──山下耕平氏のインタビューから/4 まとめ
終章 「生きづらさ」は連帯の礎になりうるか
1 「生きづらさ」が和らぐとき/2 「生きづらさ」からの共同性とは何か/3 日本における存在論的安心の欠如としての「生きづらさ」/4 「答えの出ない問いに向き合う」という豊かさ

あとがき/付録/参考文献/索引

書籍情報