『概説 教育経済学』(著:松塚ゆかり)

一冊散策| 2022.09.07
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

はじめに

ノーベル経済学者で、教育と経済学の分野で数々の功績を残したセオドア・シュルツ (Theodore W. Schultz) は、教育がもたらすおそらく最大の恩恵は「変化に対応するちから」であろう、と論じている1)。シュルツは「変化」を「不均衡」が生ずる過程とみなし、その不均衡を是正すべく資源の配分と再配分を適切に繰り返すちからは教育によって養われると説いた。不均衡の是正過程では、「変化を察知する能力」、「変化に対応する能力」、「対応にかかる時間」に着目する。これらの有無や多寡に作用するのは知識、知への欲求、情報収集力であるとし、そのようなちからは教育や訓練によって身に付きまた育てられるとした。「変化に対応するちから」は農業からサービス業までのどのような職種においても、また家事や育児など多くの場合金銭的報酬が伴わない労働にも、更には結婚の意思決定や妊娠、出産の計画や決定においても有用であることを丁寧に説明している。

シュルツがこのように漠然ともいえる教育の役割に、しかし具体的に言及したのは 1970 年代中盤であった。それまでシュルツは教育効果の定量的検証を重ねており、ゲイリー・ベッカー (Gary S. Becker)、ジェイコブ・ミンサー (Jacob Mincer) らとともに、教育の経済効果について理論から実証へとつなげたその人である。教育経済学が人的資本論を右腕に教育や雇用政策に発言力を高めたのは 1960 年代である。70 年代に入ると教育の所得あるいは経済力への効果は確定的ではないとされ、人的資本論への信頼と希望が一旦下火になる。60 年代初めにシュルツ自身が提唱した、貧困者救済手段としての教育投資は功を奏したとは言い難く、むしろ教育が媒介する格差さえ表れはじめ、教育が所得と経済の向上をもたらすという因果関係に大きな疑問が付されたのである。

シュルツはまさにこのとき、教育がより良く生きるちからを育てることを改めて主張し、それは、教育の「変化に対応するちから」を養う役割にこそあると説いた。そのうえで、変化に応じて資源を配分・再配分する能力はなぜ、どのように、そしてどの程度、後天的に獲得されるのか、その過程で教育や訓練はいかに作用するのか、そして教育や訓練とそれらがもたらす能力の経済的な価値はいかにして規定されるのかという掘り下げた実証的問いを投げかけ、後続する研究者へとつないだ。つまり教育のちからは、まずは日々のごく身近な出来事への対応を含むある種普遍的な能力を育てる面で発揮されるものと捉える。教育のちからによる経済効果を予め前提にするのではなく、教育と経済が相互に作用する環境とメカニズムの解明を促した。この反響は大きく、その後の教育経済学は、教育の選択、機会、連続性、外部性、格差、国際化等多岐にわたる社会的経済的課題を対象に研究を展開することになる。

「変化に対応するちから」は 2000 年代後半頃より日本においても注目されている。教育界にあっては、予測が不可能な時代にあって「変化に対応できるちから」を育てることの重要性が文部科学省を中心に提唱され、産業界においては、技術発展やビジネス環境の変化が急速に進むなか「変化に対応できる人材」が求められ、これを採用基準の評価軸とする企業も少なくない。むろん、教育を通してどのような能力を獲得するかについてはこれまでも多くの議論があった。教育経済学の観点に絞ると、受けた教育量が多い者ほど平均的に高い所得を得る傾向にあるという実証的かつ経験則ともいえる教育の効果は、将来の経済的安定を望む学生や保護者にとって説得力がある。教育の場から労働の場へと段階的に学歴が積まれていくために、その工程にも説明が設けられ、勉強をすれば成績が良くなり、成績が良ければ大学に進学することができ、大学を出ればより良い仕事に就くことができて生活は豊かになる、という認識はほぼ共有されている。進学先を左右する判断材料は学力や成績など認識あるいは認知され得る「認知能力」であるが、これに加えて 2010 年以降は意欲、忍耐力、社会的適正など定量的に測ることが難しい「非認知能力」が注目され、このような能力を学校内外でどのように形成するかが主要な課題となった。いずれにしても教育によって身に付くことが期待される資質、技能、適性等は、教育の「結果」あるいは「成果」を念頭に置いている。これに対して、「変化に対応するちから」は到達すべき教育の結果や成果を予め想定しているわけではなく、多分に柔軟かつ動的である。

シュルツがこの概念を書き下ろしてから半世紀以上を経た今、改めて「変化に対応するちから」が注目されている。これはなぜだろうか。私は、「変化に対応するちから」が、社会や文化がいかに多様化しまた複雑になろうとも、人が生き抜くうえで有用な共通軸であるからだと考える。教育の「結果」や「成果」として用いられてきた認知能力、非認知能力は、ともに、一定基準のもとに測ることは容易ではない。例えば認知能力の「読解力」「記述力」「計算力」、非認知能力の「意欲」「忍耐」「社会的適性」などどれ一つを取っても特定の物差しでその質、量、価値を判断することはできない。何をもって読解力とするのか、何をもって忍耐があるとするのか。その在り方や表出のしかたは、人によって、地域によって、文化によって多分に異なるだろうし、国際化が一層進んで多様性の幅が広がれば、一定の基準を設定することは更に難しくなる。認知能力と非認知能力の両方を総合的に育むことが期待されているのであれば、それぞれを評価すること自体がもはや適切とはいえなくなるだろう。情報技術の発展や産業のサービス化や国際化に伴い、人、物、金の流れやその変化が急速になったことも「変化に対応するちから」が求められる所以である。自然災害、災難、紛争などによって人の流れが鈍化あるいは停滞したとしても、通信技術によって知識、情報、技術の世界的流動性は一層高まり、その変化はますます急速になるばかりでなく、変化が及ぶ範囲が寸時に地球上に拡大する。教育に期待される「変化に対応するちから」の育成は人間の基本的な生きるちからを伸ばすだけでなく、知と技術の高度な発展を促しまたそれらを活用する基盤的なちからとなるのではないか。そしてその対応の在り方は一元的ではなく、おそらくシュルツが想定していたよりも多質、多様となるに違いない。

2020 年の冬、「新型コロナウィルス」の感染が急速に拡大したとき、若く健康で活動的な者が気をつけなくてはならないのは「感染することよりもむしろ感染させること」であるという見解を即座に会得した若者はどのくらいいただろうか。「自分たちは大丈夫」であることが当面の行動原理ではなかっただろうか。ここ半世紀の教育は、自身の豊かな将来を思い描き、より上位校への進学を目指して階段を昇り続けることに重点が置かれてきた。これは世界的な傾向である。そのような教育を経た若者が、家族や身近な友人はともかく、見ず知らずの他者をも守るために自らの行動を制約するという要請を直ぐに受け入れ行動に移すのは簡単ではない。シュルツがいう「変化を察知する能力」、「変化に対応する能力」、「対応にかかる時間」は、広い視野と深い想像力を求める。どのような状態を捉えて是正すべき「不均衡」と察し、いかにして知恵と良心に基づく対応へと踏み出すのか。社会的不均衡、地球的・環境的不均衡を含む、直ぐには日常に影響を来さない変化を自らの不均衡と位置づけそして対応するちからを求める。このようなちからは、地球レヴェルで進む大きな変化の時代には、決定的に重要となるだろう。

教育経済学は、経済学分野で発展し有用性が確認された理論、概念、分析手法を用いて教育や学習という営みを説明しようとする学問である。最大の発展期であった 1960 年代に人的資本政策に活用された影響は大きく、「教育の経済効果」を測り論ずる学問であると捉えられがちであるが、教育の経済効果は教育経済学の重要な一部ではあるもののすべてではない。本書では発展期の前後を広く対象として、特にシュルツ後の教育経済学の展開をできる限り網羅して、理論、実証例、それらの結果が政策あるいは制度実践へとつながった具体的事例を挙げて解説したい。教育経済学において技術的側面から多用される教育の収益率、投資効果、生産関数、需給等の計測方法について基本的な説明は本書の重要な一部をなすが、教育経済学に関心を持つすべての方々が経済の専門的知識が無くとも読み進められるように、日本の土壌や経験に即して身近な事例を挙げて解説したい。

目次

  • はじめに
  • 第1章 教育経済学とは
    • 1 教育経済学とは
    • 2 教育経済学発展の経緯
    • 3 教育経済学のテーマ
  • 第2章 教育の効果
    • 1 教育の効果分析の枠組み
    • 2 教育の経済効果はいかにして明らかになったか
    • 3 教育の効果をもたらす要因
    • 4 教育への資源配分と教育内の資源配分
  • 第3章 教育と労働市場1:人的資本論
    • 1 人的資本の役割と意義
    • 2 人的資本論の基本概念
    • 3 人的資本の推計方法と推計結果
  • 第4章 教育と労働市場2:人的資本論で説明できないこと
    • 1 人的資本論への疑問と反論
    • 2 アルファ要因による効果
    • 3 シグナリング効果
    • 4 教育過剰
  • 第5章 教育と労働市場3:学校教育後の技能形成
    • 1 訓練と生産性と賃金
    • 2 技能種と訓練費用負担と転職
    • 3 外生的(環境的)要因の技能需給への影響
  • 第6章 教育費の負担構造と教育における政府の役割
    • 1 教育費の負担者と負担の理由
    • 2 教育への公的関与の理由
    • 3 教育への公的関与の問題
  • 第7章 教育の民営化
    • 1 教育の民営化とは
    • 2 教育民営化の経緯
    • 3 民営化の実際と方法
    • 4 日本における教育の民営化
  • 第8章 学校選択と教育機会の平等と公平
    • 1 なぜ「選択の機会」を望むのか
    • 2 学校選択に対する賛否
    • 3 学校選択制の効果検証
    • 4 学校教育機会の平等と公平
  • 第9章 ジェンダーをめぐる課題と教育経済学
    • 1 就労状況と賃金統計から見た男女間格差
    • 2 ジェンダー格差をめぐる経済学理論
    • 3 日本女性のキャリア中断と格差
    • 4 格差に対応する職業と教育
  • 第10章 「学び直し」の経済学
    • 1 「学び直し」の諸形態
    • 2 「学び直し」の経済学理論と方策
    • 3 労働市場の構造的変化と「学び直し」のゆくえ
  • 第11章 教育の国際化
    • 1 教育の国際化の現状:留学生数に焦点をあてて
    • 2 自己選択に基づく学生と人材の国際移動と経済効果
    • 3 国際市場における教育の経済効果
  • 第12章 これからの教育経済学――まとめにかえて
    • 1 人的資本論再考:場所も時間も超えて
    • 2 国際化のなかの教育費用負担:変わる人的資本投資の分担
    • 3 教育の国際化を支える財政
    • 4 まとめにかえて
  • おわりに
  • 事項索引
  • 人名索引

書誌情報など

脚注   [ + ]

1. シュルツの主たる専門領域は農業経済学であった。農業の進歩のためには人的資本への投資が重要であるとの観点から教育分野を研究し、その流れで教育経済学及び開発経済学において際立った業績を残した。ここで言及する「変化に対応するちから」は以下の文献に詳しく掲載されている。Theodore W. Schultz (1975) “The Value of the Ability to Deal with Disequilibria,” Journal of Economic Literature, 13 (3), pp.827-846.