(第13回)大日本帝国の崩壊と海外引揚(加藤聖文)

おさらい日本の近現代史―「日本」と東アジアの関係を読み解くために| 2022.08.31
日本の近代・現代とはどのようなものだったのでしょうか。
私たちが今、日々ニュースで接する日本の社会状況や外交政策を、そのような歴史的視点で捉えると、いろいろなものが見えてきます。
この連載では、「日本」と東アジア諸国との関係を中心に、各時代の象徴的な事件などを取り上げ、さまざまな資料の分析はもちろん、過去の事実を多面的に捉えようとする歴史研究の蓄積をふまえて解説していただきます。
現在の日本を作り上げた日本の近現代史を、もう一度おさらいしてみませんか。

(毎月下旬更新予定)

「引揚」とは何か?

1945年8月の敗戦まで日本は広大な植民地と占領地を抱える「大日本帝国」でした。これが一夜にして解体してしまったのですが、帝国の領域内には多くの日本人が住んでいました。彼らは一夜にして「外国」となった土地に取り残されることになったのです。その数は300万人を超えました。

彼らの日本への帰還を「引揚」といいます。ただ、「引揚」といっても「引き揚げ」「引揚げ」など表記は今でもバラバラです。このことは日本社会が引揚という歴史を未だに消化し切れていないまま現在にいたってしまったことをあらわしています。

「引揚」という用語は、あるべき場所へ戻ってくるという意味を含みます。引揚者の定義には、戻るべき故郷(=日本列島)があることが前提になっているということです。もともとこの言葉は明治から使われていました。壬午事変(1882年)の際、花房義質公使ら日本人居留民が朝鮮から日本へ避難したことが「引揚」と表現されているように、本来は海外に居住する日本人が戦乱に巻き込まれて本国(または安全圏)へ退避することを「引揚」と呼んでいました。そして、敗戦時の海外残留日本人の帰還もこのような前例に則って「引揚」とされたのです。

しかし、この用語はいくつかの矛盾を抱えていました。まず、日本へ戻りたいと切望している可哀想な人びとを助け出すという意味合いが強く、引揚者=戦争犠牲者と位置づけていることです。このような思考は、日本人なら誰もが日本列島が故郷であり、危険な「外国」から平和な「日本」へ帰って来るという一方向の流れを前提としています。ただ、例えば朝鮮に生まれ育った人にとって故郷は朝鮮であって、彼らにとって日本へ向かうことは故郷(日本)への「引揚」ではなく、故郷(朝鮮)からの「追放」でしかありません。このようなかたちで故郷を追われた人たちは正確には「難民」であって、ドイツでは「追放民」と呼ばれています。しかし、日本では彼らのことを「引揚者」と呼びます。

さらに、外国から日本へ帰るという一方向の流れが引揚とすると、逆方向への流れは引揚の範疇に含まれないことになります。大日本帝国時代、植民地人であった朝鮮人や台湾人はさまざまな点で差別はありましたが、形式的には「帝国臣民」として日本人と同じように位置づけられていました。しかし、敗戦とともに「日本人」とは区別されます。日本には朝鮮人や台湾人も住んでいましたが、彼らが朝鮮や台湾へ戻ることは「引揚」ではなく、「送還」といわれました。「引揚」という言葉には、日本人とそれ以外の民族を峻別するある種の排他性が潜んでいることに気づくと思います。

すなわち、「引揚」という言葉は、大日本帝国の領域ではなく日本国の領域を前提にしたものであって、大日本帝国の領域内でさまざまな民族が往来していた歴史を意識的に切り離す言葉でもあります。そして、引揚の歴史は、大日本帝国が支配していた「植民地」という記憶を拒絶する歴史でもあったのです。

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加藤聖文(かとう・きよふみ)
歴史学者。国文学研究資料館・総合研究大学院大学准教授、専門は日本近現代史・東アジア国際関係史・歴史記録(アーカイブズ)学。
主著に、『海外引揚の研究-忘却された「大日本帝国」』(岩波書店、2020年、第43回角川源義賞[歴史研究部門]受賞)、『満鉄全史-「国策会社」の全貌』(講談社学術文庫、2019年)、『国民国家と戦争-挫折の日本近代史』(角川選書、2017年)、『満蒙開拓団-虚妄の「日満一体」』(岩波全書、2017年)、『「大日本帝国」崩壊-東アジアの1945年』(中公新書、2009年)など多数。